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五、枯れ落つる花

 ――秀頼の元服の翌年。ここ数年のうちにすっかり老いてしまわれた殿下が、よろよろとこちらに歩み寄っておっしゃられた。曰く、京の醍醐寺で花見をする、と。


 ちょうど春の桜の季節に当たる。外に出て花見をするなど随分久しぶりのことで、わたくしは心を躍らせていた。秀頼も、産まれてこの方滅多に城を出ることがなかったため、たくさん楽しい思いをさせてやりたい。


 慶長三年三月、ついに花見が行われた。醍醐寺に集められた招待客は、殿下のご身内であるわたくしたちに、諸大名の奥方や女中らなど、ほとんどが女性であった。わたくしは北政所の次の輿に乗り、醍醐寺へ入った。


 ――だが、この花見で面倒事が起きる。花見というからには酒は欠かせず、早速殿下が杯を持たれ、北政所がそれを次に受けた。当然、次は秀頼の生母であり、輿の順も二番目であったわたくしのはずだった。

 ――次はこのわたくしにございますな、と割って入ってきたのは、殿下の側室の一人である松の丸殿。この方はわたくしたち三姉妹の従妹に当たり、高次殿の姉君であるため、初にとっては義姉ということになる。


「いくら若君様の生母だからと言って、出しゃばるのはいかがなものでございましょうか。わたくしは淀の方様の何年も前から殿下の側室としてお仕えして参りました。そもそも、浅井家と京極家では明らかに京極家の立場が上。ここはわたくしが受けるのが流れにございます」

 松の丸殿はまくしたてるように言う。確かに、京極家は昔浅井家の主家に当たった。松の丸殿は御歳も上だし、冷静に考えればわたくしが譲るのが道理かもしれない。


 ・・・それでも、こんなところで譲ってしまうのは惜しい。わたくしが身を引けば、秀頼の格も同時に落ちてしまうではないか。子も産めなんだ妾風情に、わたくしがなんの遠慮をすることがあるのだろう。北政所すら凌ぐような権威を持ちたい。それを考えれば、松の丸の言いがかりなど些細なことだ。


「わたくしは若君の母にございます。松の丸様は、ただ殿下の御側で美しくすましておれば良かったのやも知れませぬが、わたくしは違いました。鶴松君も若君も、この身を痛めて御産み奉りました。何もしていらっしゃらぬ松の丸様に杯をお譲りするのは、余りにも口惜しゅうて」

「無礼な!京極家が其方らに、どれほど目をかけてやったと思うておる!」

 とうとう松の丸が掴みかかってきそうになった時。


「まあ、まあ。お静まりなされ。美しい桜にこのような諍いは映えませぬ。ここは一つ、わたくしが杯を頂いてもよろしゅうございますか?」

 そっと立ち上がり、こちらに穏やかな笑みを向けるのは、前田利家殿の御内室、おまつ殿だった。落ち着いた黒の打掛が高貴さを象徴するかのようだが、この場では一番格下の人物だ。


「わたくしは、北政所様とは長い付き合い。互いに一の友と思うて過ごして参りました。ぜひお受けしとうございます」

「おまつ様が受け取ってくださるならば、こんなに良いことはございませぬ。ぜひとも、お願いいたします」


 それまで眉をひそめていた北政所は、すぐに顔を明るくして笑みをたたえた。わたくしたちが何か言う間もなく、杯がおまつ殿に渡る。消化不良感は否めないが、おまつ殿が出てきてはもう杯を受けることもできない。仕方なく身を引くことにした。


 秀頼は見事な桜に見入っていた。伏見から見える桜と同じものとは思えなかったようで、「はじめてじゃ。はじめてみる花じゃ」としきりに興奮していた。

 殿下も他の皆様も、華やかで美しくて、それは見事な宴であった。わたくしはこの世の栄華というものを、全身で浴びるようにして感じた。ここでなら、わたくしは秀頼を天下人にできる。わたくしは天下人の母に、母は天下人の祖母になれる・・・!


 ――花見の日以降、殿下はどんどん弱っていかれた。五月には寝たきりになられ、何度も家臣らを呼んでは「秀頼のことをお頼み申す」としわがれた声でおっしゃったそうだ。

 わたくしもお召しを受けた。殿下は少し手を動かすことすらお辛いようで、御顔のしわを増やしながらわたくしに手を差し出された。わたくしはためらわずにそれを握る。手、程度なら、もう今更だから。


「淀・・・秀頼を、真に想うておるのは、わしと・・・其方だけじゃ。どうか、支えてやってくれ・・・女だからと、身を引くでないぞ・・・秀頼のため・・・何としても、秀頼を守るのじゃ・・・」

「殿下・・・なんとお気の弱い。わたくしの知っている殿下ではなくなってしまいましたの?淀一人では秀頼を守れませぬ。お強い殿下に戻ってくださいませ――」


 そう縋りつつ、涙は落とさない。こんなことに使うほどわたくしの涙は安くない。それに・・・これでは殿下はすぐに死ぬだろう。祈祷の金銀が勿体ない。

 それにしても、可哀そうなのは秀頼だ。まだ五つなのに父を喪ってしまうなんて――そこでふと思い出す。わたくしが父上を喪ったのも僅か五つの時だった・・・


 ――慶長三年、八月十八日。天下統一という偉業を成し遂げた太閤殿下は、六十二年の生涯を閉じられた。

病で起き上がることすら叶わず、そのまま息を引き取られたのだった。

 初めてその報せを聞いた時、わたくしの心は揺れなかった。爽快感や喜びを感じるには、わたくしは殿下に近づきすぎていた。しかし、悲しみや寂寥を感じるには、わたくしと殿下は遠すぎたのだ。


 だが、ぼんやりしていられたのも刹那の間だけ。秀頼の父が死んだ。つまり、秀頼が天下人になった・・・浅井の血が、天下を取った。父と母は、天下人の祖父母になった!

 わたくしは歓喜に震え、大蔵卿の他は誰も見ていない奥で、父の死もわからずにぼんやりとしている秀頼を抱き寄せた。始めは優しく、終いには強く強く抱いた。そっと体を離した時には、わたくしの手は不安と恐怖で震えているのだった。


 まだ幼い秀頼のために、これからはわたくしが摂政関白の如く政をしなければならない。汚い部分はすべてわたくしが背負って、秀頼はあくまで公家様のように白く輝かせていなければ。もう殿下はいない、だから殿下に託されたように、わたくしが一人で秀頼を守るのだ。


 秀吉殿の死によって、長く続いていた朝鮮の戦も打ち切られた。結局、相手方の兵に押されて領地は取れなかったと聞く。また、秀吉殿は朝廷より『豊国大明神』という神号を賜ったという。とうとうこの方は神にまでなられたのだ。少し滑稽だけれど。


 秀吉殿は自身の死期を悟ってからは、秀頼を支えるための政治の仕組みを必死に作っていらした。これが五大老五奉行などの仕組み。五大老には家康殿や前田利家(まえだとしいえ)殿、五奉行には三成らが属している。特に家康殿は大老の筆頭とされ、利家殿は秀頼の傅役(もりやく)となっていただくことになっていた。


 世の中の情勢は大きく変わった。まず、伏見城にいた秀頼とわたくしは大坂城に入り、正式な豊臣の後継者として台頭した。代わりに、秀吉殿の正室であった北政所は退去した。一見、秀頼とわたくしは権力を得て順風満帆な道を歩み始めたように見えた。


 しかし実際には、問題も多くあった。家康殿のことだ。この方は秀吉殿の死後から、秀吉殿が禁じた大名家同士の婚姻を勝手に行ったり、有力な大名を私的に訪れるなど勝手な行動が目立っていた。結果、石田三成ら家臣から反感を買い、一時は険悪な空気も流れた。秀頼の傅人である利家殿の牽制で、何とか事なきを得ていた。


 ――だがこれは、あくまで利家殿が生きていらっしゃったから保たれていた平和。利家殿は秀吉殿の往年の親友で、既に六十を超えていた。そしてついに、慶長四年の春、病で亡くなられてしまったのだ。


 天下の均衡が崩れた。利家殿が抑えてきた武力派と官僚派、これらの衝突が激しくなり、とうとう事件が起きた。福島正則(ふくしままさのり)殿や加藤清正(かとうきよまさ)殿など武力派の武将が、三成を襲撃し殺害を目論んだのだ。三成は官僚派の筆頭格であり、昔から正則殿らとは不仲だったという。


 ここで両者の間に立ったのが家康殿だった。家康殿は伏見城に逃げ込んだ三成に、謹慎することを求めた。三成はそれを受け入れざるを得なかった。

 事件後、家康殿は伏見城で政治の実権を握った。三成も利家殿もいなければ、もはや残る権力者はこの方だけなのだ。


 ・・・だが、あくまでこれは豊臣家の下で起きていること。この国で一番の権力者は秀頼だ。家康だの三成だのという争いは、豊臣家の家臣間の諍いに過ぎないのだ。

 秀頼は六つになった。わたくしや師の言うことを素直に飲み込み、色々な学問を学んでいる。武芸は習わせていない・・・

1話を結構改稿しました。読みやすくなったと思うので読んでみてください。

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