十五、貴公子と悪女
日が高くなるにつれて、蔵の中は立ち昇るような蒸し暑い熱気に包まれた。と同時に、蔵に籠る皆の輪郭がはっきりと見えるようになった。
誰もが生気を失いつつあった。脇に置いた短刀を持ち上げ、大事そうに抱える者もあった。死が頭をよぎらぬ者はいなかっただろう。
「――母上、もう終わりです。未だ返事がないということは、大御所は我らを許す気はないということです」
「上様」
「私はもう上様ではないっ!」
おもむろに背筋を伸ばした秀頼は、その勢いのまま刀を鞘から抜こうとする。周囲の者は唖然としつつも、疲労ゆえか動こうとしない。わたくししかいない。わたくしが、秀頼を守らないと。
「早まりますな!」
わたくしは道を塞ぐものを踏みつけ、振り払い、秀頼に組みついた。驚いた秀頼が短刀を持った右手を振り回し、わたくしの打掛のあちこちが鮮やかに裂ける。不意に秀頼の動きが鈍くなった隙に、わたくしは素手で短刀の切っ先を掴み投げ捨てた。
当然、手のひらが真っ赤な血で染まる。思っていたよりも痛い。べたべたするし、生臭いし、気持ちが悪い。でも、秀頼を死なせずに済んだ。
「秀頼様、まだ駄目と決まった訳ではありませぬ。お千はきっとやってくれたはずです。母と共に待ちましょう?」
「・・・」
「貴方様は、もう生きていても甲斐がないとお思いやもしれませぬ。しかし他でもない秀頼様こそが、わたくしの生きていく甲斐なのです!だからっ――」
『――来る』
昨夜ぶりに母上の声が耳をくすぐった。そこで息を呑む・・・外から、具足の音。
「――井伊直孝である!大御所様、公方様の使いで参った!」
井伊直孝。徳川の譜代の家臣であると聞いたことがある。蔵内の者が、一斉に彼の声に期待と焦燥を加速させる。
「以下は、上様のお言葉である!秀頼は、一度ならず二度までも叛意を表し、徳川家に歯向かってきた。これは重罪であり、到底情けをかけることはできぬ。よって、秀頼及び淀殿、大野修理以下家臣郎党を――死罪と致す」
・・・きゅ、と、誰かがか細く悲鳴を上げた。その瞬間、蔵の周囲あちこちから、武具を準備するような重たい音が発せられた。糒蔵という小さな建物を、おびただしい数の兵が囲んでいるのだ。
秀頼も、わたくしも、大蔵卿も、治長も、甲斐守も、その他この蔵にいる者すべてが、腹を血で染め首なしの遺体でこの世を去らなければならない・・・この粗末な蔵で、太閤殿下の築かれた豊臣家が滅びる。
――激しい銃声。火縄銃どころではない、冬の戦で本丸に撃ち込まれたような、大きな砲声もする。女共が耳を塞ぎ、男共が運命に屈するように膝を折った。
弾丸が壁にめり込み、あるいは弾かれる。そのどれもがわたくしたちの心臓を狙い撃ちにしているのだった。
『もう時間切れじゃ・・・早うおやりなさい』
「っ、秀頼は何もしておらぬ!秀頼が牢人共に、こうせよああせよと命じたのではない!牢人が勝手に戦を企て、勝手に城下へ飛び出していったのじゃ!」
『其方も、武家に産まれた女じゃ。覚悟を決めよ』
「第一、戦の始まりとて徳川の言いがかりではないか!豊臣家が何をしたという!何が謀反だと言うのか!うぬらは豊臣の家臣だったではないか!」
わたくしは正面から秀頼を抱き締め、恐ろしい銃声から庇う様に入り口に向かって吠え続けた。しかし、言葉は返ってこない。響くのは、このまま豊臣を食らいつくしてやろう、とでも主張するような雄叫びだけ。
蔵の中の多くの者が、既に自害を始めていた。ある者が腹を切り裂くと、別の者が首を落とす。ある者は友人同士で、ある者は親子で。共に喉か胸を突き合って抱き合う様に命を絶つ者もあった。
「・・・戦をするなどと申したのはすべてわたくしじゃ!わたくしだけを殺せ!秀頼を助けよ!助けよ、っ、助けてくだされ!秀頼は良い子なのです!悪いことなどしない利口な子でした、ずっとそうでした!」
『其方が何をしたところで、秀頼は助からぬ』
「じょっ、上手な和歌を詠みます!褒めてやると頬を赤くして笑うのが愛らしゅうございます!いつもわたくしの言うことを素直に聞いてくれる!拾は、秀頼は、こんなに若いのに死んで良いような子ではないのです!」
『いい加減に、潔く死になさい』
「わかってる!わかっていますから・・・母上の声でそんなこと言わないで・・・」
瞳が潤む、雫が落ちる。父上や居城を失った時ですら涙を流さなかった、しかし母上のことでならいくらでも涙を流せる。そう、昔のわたくしは言った。今だってそうだ、母上が前にいるとどうにも涙を抑えられない。
自身には見えない何者かに返事をするこの母を見て、秀頼は奇妙に思ったらしかった。崩れ落ちるわたくしの手をそっと剥がし、再び腰の得物に手をかけようとする。
・・・もう、潮時だ。秀頼は死ぬ、わたくしも死ぬ。秀頼が死ぬのなんて見たくない、ならば、母上の言う通りわたくしが早く・・・
『――■■。お前は、わたくしの大切な子じゃ』
「・・・っ」
『何もかも消し去ってしまうのでしょう。上手に豊臣を潰すのでしょう。母は信じています。■■ならできる、そう確信している。だから・・・死になさい、淀殿』
「あ・・・」
本当の名は、子どもだった弱い自分を表しているようで苦手だった。だから新しい名を、『淀殿』の呼称を気に入っていた。しかしわたくしは、淀殿になった時から破滅の道を進み始めていたのだ。自ら歩む道を壊しながら進んでいた、という方が正しいかもしれない。
秀頼を死なせ、豊臣を滅亡に追いやるのは淀殿だ。日の本に二人といないようなとんだ悪女だ。そして、その淀殿はわたくし自身だ。だから責任は、私が取る――
――茶々が、すべて消し去ってやる。
「なっ、母上!?」
わたくしはおもむろに打掛を脱ぎ、秀頼の短刀を取り上げ自らの腹に突き刺した。そのまま刃をゆっくりと右へ進める。だが、正気でいられたのは初めの内だけだった。
痛い、痛い、痛いよ、腹を切るなんてどうかしている。もうやめにしたい、早く終わりたい、誰か助けて、解放して・・・でも・・・父上も母上も柴田の義父上も、皆こうして死んだのだから・・・!
「大方様っ!」
「おと、すなっ!」
わたくしが腹を切ったのに気づき、毛利や治長が青白い顔でこちらへ寄ってきた。介錯する気なのだろう。だが、まだ死ねない。人間は腹を切った程度では即死できない。ゆえに、この痛みとこの後見るであろう光景が、わたくしへの罰だ。
「ひ、で、より・・・秀頼、やれ。早う、切れ。早う・・・自害、せい・・・!」
「母上・・・」
秀頼と死。この二つの言葉を結びつけたくないと、わたくしの体が拒絶する。でも言うのだ、痛くても泣いていても、わたくしは見届けなくては――いつの間にか、わたくしに発破をかけてくれた母上の姿は消えていた。
「――秀頼!潔う死ね!もう母も受け入れた、秀頼も早うに・・・っ!」
腹が熱い。気を抜いていると、魂ごと何かが抜け出してしまいそう。恐怖か、出血か、手が震える。だが何とか、秀頼に短刀を手渡した。
秀頼も泣いていた。昔と変わらず、抱きしめたくなるような可哀そうな泣き方。迷子になってしまった、ひとりぼっちの子供のような。
「あぁ・・・拾・・・?泣か、ないで・・・母上がついて、いますよ・・・」
「――ううぅ、母上っ・・・!」
もうたまらないと言った様子で、秀頼が短剣を取り落としわたくしの手を握った。その手も震えていて、わたくしたちは互いに温め合うようにして、手のひらをくすぐったくこすり合わせるようにして手を取り合った。
「私が不甲斐ない息子だったから、これまでずっと母上に辛い思いをさせて・・・ごめんなさい・・・」
「秀頼は・・・何も悪くないと言うたであろう・・・すべてわたくしのしたことじゃ・・・」
もう死ぬのだろうか、痛みが若干薄れた代わりに、意識が朦朧としてきた。秀頼もそれを察したのか、そっと手を離し、短刀を手にした。
「姫様・・・若君様・・・っ!」
「――私は、最後に逝きます。蔵の中のすべてを燃やしてから参ります。上様の御姿、見届けさせていただきまする!」
大蔵卿や治長に言葉をかけられ、秀頼は軽くうなずく。周りの者らに手伝われながら鎧を外し、小袖を緩めれば、もういつでも切腹できる状態だ。
「秀頼・・・もっと早く、死なせてやれば、良かったかのぅ・・・」
「――今この瞬間まで生きながらえた時間が、少しでも母上の慰めになったのなら・・・私は何より嬉しゅうございます」
秀頼はそっと腹を撫で、小刻みに震える手で短刀を握り、切っ先を腹に向けた。その背後に、刀を持った毛利が立つ。そして――
「――まって」
「ぐっ・・・う・・・!」
溢れ出す真っ赤な血が秀頼の死の象徴だった。小袖から袴へ、袴から地面へ血が伝い、じわじわと染物のように染み込んでいく。
「――お見事で、ござりまする・・・!」
毛利がはらはらと涙を流しながら、刀を構えた。苦悶の声、苦悶の表情の秀頼が、うつむいて目だけをこちらへ向けた。優しい目、その目にわたくしは、どんな姿で映っていたのだろう。
――どすん、と、鈍い音を立てて重い首が落ちた。それは転がってわたくしの膝に触れる。支えを失った体は、僅かに傾いたのを最後に動かなくなった。
「あ、あぁ・・・ひろ、ひで、より・・・」
秀頼の頭をそっと抱き上げると、その重さは産まれたばかりのこの子よりやや重いくらいで、まるで過去に戻ってしまったような気がするのだった。わたくしはそのまま膝をこすって遺体に近づき、頭と一緒に抱き締める。
「いや、いやぁ・・・あああぁあぁっ!」
わたくしは初めて慟哭した。泣いて力む度に傷が痛み、息を吸う度に胸が痛い。それでも止められなかった。
自分の命よりも大切なものを、他でもないわたくしが死に追いやった。今この胸にあるのは、深い後悔と寂寥感と、弱々しく波打つ心臓だけ。
ごめんなさい秀頼。そう言おうとしたけれど、もう言葉が出てこない。気を抜けば命を失うだろうということが、不思議とわかっていた。
――血に塗れたわたくしを、誰かがしゃがみ込んで見つめている。大蔵卿か、毛利か、それとも。
「――お茶々様」
「・・・治長・・・わたくしはもう、死ぬ。だから・・・その前に、首を落とせ・・・秀頼を斬ったのと、おなじ・・・刀で・・・」
目の前にいる、これまたひどくやつれた格好で、優しい目をした男がうなずき立ち上がる。毛利も、何も言わず治長に刀を譲り渡した。
初、江、お千、完子、高台院様――どうか皆は長生きして。豊臣家と共に乱世も終わる。城が落ちることも家族が殺されることもない。わたくしの欲しかった平和な世を、満足いくまで味わい尽くして、いつかわたくしにその理想郷のことを聞かせて――
――甘い金平糖を舐めている時のような、温かく心地よい感覚に包まれ、最期だというのにわたくしは笑みを堪えられないのだった。
『――茶々、これを』
『わぁ、きれい・・・まるで雪のようです』
『南蛮の菓子で、金平糖と言うそうじゃ。先ほど兄上が下さってのぅ。母はもう十分に味わったゆえ、残りは茶々がお上がりなさい』
『え、良いのですか?初や江の分は?』
『茶々は、いつも姉上として頑張っておろう?たまには、茶々が一番の日があっても良いではないか』
『母上・・・ありがとうございます!私の一番は、いつだって母上にございます!』
『ふ、嬉しいことを言うてくれるのぅ』
――わたくしたち豊臣家を頑なに排除しようとした大御所、徳川家康は、元和二年に病死した。豊臣家が滅んでから僅か一年後のことだった。わたくしたちには時の運も味方しなかったのだ。
絶大な権力者がいなくなった徳川の天下も、将軍秀忠が無事に治め太平の世が訪れた。秀忠の後に三代将軍となるのは徳川家光。江の産んだ子だ。江はお千も含めて、二男五女もの子を儲けたのだった。
江戸幕府は、十五代将軍を輩出するまで続く。しかし、二百六十年もの歴史を誇る江戸幕府の御台所の中で、次期将軍を産んだのは江だけだった。江の子、和子は帝に入内しており、結果浅井の血は武家にも天皇家にも継がれたことになる。
和議の際の尽力を評価された初は、特に咎められることもなく六十四歳で亡くなるまで穏やかに過ごした。江は五十四で亡くなったため、姉妹の中では初が一番長生きしたのだ。身軽な初はよく江戸の江に会い、昔話に花を咲かせたらしい。
無傷で城を出た千姫は、一人城から逃げたことについて、実父秀忠に苦言を呈されたそうだ。しかしその後は、徳川家譜代の本田家に再嫁した。二人の子に恵まれるも、長男や夫に先立たれ尼姿で晩年を過ごし、七十歳で亡くなった。
また、お千の気にかけていた秀頼の子、国松と姫は悲惨な末路を辿っている。国松は大坂城落城から十数日後に捕らえられ、六条河原で斬首された。国松を任せていた田中六郎左衛門は殉死し、乳母のみが生き延びた。姫もすぐ捕らえられ処刑されそうになったが、こちらはお千が身を挺して庇ってくれたおかげで、出家を条件に助命された。天秀尼と名を改めた姫は、お千の養女となり生き延びた。
高台寺でひっそりと隠棲していた高台院様は、豊臣家の滅亡後も徳川家と良好な関係を築き、公家との交流も続け、七十六歳でその生涯を閉じられた。また、江の長女であるわたくしの猶子完子は、豊臣家滅亡後は秀忠の養子となった。貴重な武家と公家の仲介役として活躍し、六十七歳で亡くなったという。わたくしが死の間際に長寿を願った者は、皆望み通り太平の世で幸せに生涯を閉じてくれたのだ。
秀頼のゆりかごとして二十三年間あの子を守り続けた大坂城は、秀忠の手によって徹底的に破壊しつくされ、江戸幕府直轄領の巨大な城郭として生まれ変わった。太閤殿下の夢もわたくしの望みも跡形もなく消え去り、戦国時代は終わった。
大阪城内、山里曲輪があったと推定される場所にはわたくしたちの自刃の地である証として石碑が立てられている。しかし、わたくしや秀頼の遺骨は未だに見つかっていない。そして秀頼は悲劇の貴公子として、わたくしは日本三大悪女の一人として、今なお語り継がれている。
これにて完結です。皆様、読んでいただきありがとうございました!
キャラクター設定など投稿するかもしれないので、そちらもお楽しみに。




