十四、理想に願望を重ねて
――その場にいた者すべてが、わたくしと秀頼を追う様にして大台所を見ようとする。大台所は、天守と同じく本丸にある。火はすぐに燃え広がるだろう。
――天守閣の内部がちらちらと光り始め、すぐに外へと広がっていく。夕暮れ時、橙に染まる空に炎の色が混じり、目を離せない絶対的な破壊が城に襲い掛かる――あれは義父と母の切腹完了の合図だった。では、わたくしたちはどうなるの?
「誰が火をつけたのだ!」
「大角にございます!大角与左衛門が、徳川への寝返りを図りましてございます!」
「今すぐ捕らえよっ!」
治長の命に、兵らが尻込みしつつも火元へ取って返した。既に大台所の侍女や小者は逃げ始めている。
「上様、大方様、このままでは天守も危のうございます!山里曲輪ならば火の手は避けられます!急ぎご支度を!」
「城に火までつけられてはもうどうしようもないではないか!もう潔く、わっ」
「まだ死んではなりませぬ!逃げましょう、早う!」
やはり渋る秀頼の手を引き、治長や大蔵卿らと共にわたくしは走り出した。天守閣の外へ出た頃には、既に広範囲に火が移っていた。
退却してきたらしい兵らが、戸惑い焦り混乱していた。中には、喉を突き命を絶っている者まであった。遠くには、徳川軍の兵が本丸の柵近くにまで迫り、我らの軍の兵と交戦しているのも見えた。
走るのは幾年ぶりだろう。子供の頃、北ノ庄で妹たちと駆け回って遊んだのが最後かもしれない。わたくしは履き慣れない草履で、打掛を踏まないよう裾をつまむのに必死だった。背後では、大蔵卿が手負いの治長に肩を貸し、二人で必死に駆けているのだった。
――山里曲輪は、亡き秀吉殿が茶を楽しむためにと整備させた場所だ。樹木や水が豊かで自然が多く、本丸の火の手もここまで届くことはない。
「こちらへ!」
速水甲斐守が指すのは、食料を保存している粗末な糒蔵だった。朝廷から正二位を賜る右大臣が、かつて天下人と言われた豊臣秀吉の子が、このようなみすぼらしい蔵に籠らねばならぬとは。わたくしは愕然としたし、周囲の侍女はざめざめと泣いていた。
蔵に入って内側から閂をかけてしまえば、外からは開けない。しかし、扉を閉めた瞬間、土埃が舞って煙たくなるのはどうしようもなかった。蔵に入ったのはおよそ三十人ほどで、元より糒の保存用の蔵であるため、流石に全員入ると窮屈だった。
治長が戦に加わっていた諸将や牢人達の現状を知らせてくれた。名を知るほとんどの者が戦死、あるいは自害したという。名の挙がらない者はここにいるか、あるいは大角のように寝返ったのだろう。
蔵の中の多くの者がわたくしや秀頼に仕える侍女で、後は治長に甲斐守、毛利勝永などが甲冑姿のまま暑苦しく座り込んでいる。今日は本当に暑い。もう日が落ちるというのに、汗の止まらぬような暑さだ。
――高台院様に頂いた団扇、持ってこなかったな。そんな暢気なことが頭をよぎる。きっと今頃は座敷の奥で灰になっていることだろう。
『――お前は間違えたのぅ』
「――え」
額の汗が涙のように頬を滑り落ちた。今、確かに聞こえた。懐かしいあの人の声。わたくしの大好きな人。
「・・・はは、うえ?」
『・・・』
糒の詰まった甕の裏、そこに隠れるようにして、母お市がわたくしを見つめていた。ただひたすら真っ直ぐに、わたくしの全てを見透かすように。
「は、母上、母上!私は秀頼を天下人にした。浅井の血を残そうとした!もう天下は無理かもしれませんけれど、それでも秀頼の命は絶対に救ってみせますから!」
『・・・』
「辛いこともたくさんありました。でも、どんな時も母上を思い出して私は頑張ってきました。猿の妻になって、秀頼を産んで、天下を取って、今は家康に攻められ蔵まで追いやられて・・・私・・・よくやりました、よね。母上はわかってくださいますよね?」
『・・・』
何かおかしい。母上は最初に言葉を発したきり、頑なに口を開かなくなってしまった。間違えたとは、一体何のことなのだろう。
「・・・大方様、どうかお気を確かに・・・姫様ぁ・・・」
「大蔵、卿?」
先ほどから泣き続けている大蔵卿が、わたくしの手を取り胸近くまで持ってきて、ますますひどい顔で涙を流す。いつの間にやら、蔵内の正常な者の視線はこちらに集中していた。他の者には母上の姿は見えていないのだ。
――夜になると、いよいよ蔵は暗闇に包まれ恐怖が皆を支配した。静まり返ってはいたが、きっと眠っている者は誰一人としていなかっただろう。時折、気のおかしくなった者が思い出したように経を唱えたり、懺悔の言葉を口にしたりするのだった。
母上もずっと起きていた。それどころかわたくしから目を離さず、真顔を崩さずにいるのだった。いくら母とはいえ、流石に不気味に思えてきた。
――深夜、何もせずにいるのも退屈であるため、この先のことを考えてみた。
明日、朝が来ると同時に大御所の使者が来て、「右大臣殿の御助命、相成りましてございます」などと告げる。それに治長か甲斐守が応じ、秀頼と一部の侍女が無事に蔵を出る。そして残るわたくしたちは捕らえられ、市中引き回しにされた後、六条河原辺りで首を撥ねられるだろう。そうでなければ、秀頼を引き渡した後にさっさと腹を切り火を放ち、三成の言う様にすべて消し去ってしまってもいい。
しかし、もしもわたくしの助命も叶ったとしたら。わたくしは秀頼と共に蔵を出て大御所か将軍辺りと引き合わされ、「お千に感謝することじゃの」などと偉そうに告げられる。それに対しわたくしたちは平伏し、長々と感謝と謝罪を述べなければならない。
その後は当然ながら国替えになるだろう。どこに移るかはわからないが、恐らく国へ行くのは秀頼だけで、わたくしは江戸に人質として残ることになる。だが今なら、秀頼の命が助かるならば、わたくしはどんな目に遭ったっていいと思えていた。側にいてやれないのは、少し不安だが。
――そうして状況が落ち着いたら、まずは江と会おう。しばらく会えていなかったから、きっと喜んで迎えてくれるはずだ。今やあの子は公方様の御台所。随分と遠いところに行ってしまったものだ。わたくしの夢は潰えたが、浅井の血はお江が未来まで繋いでくれるだろう。
人質のわたくしより、京のお初の方が身動きは楽なはず。その初に江戸へ来てもらって、姉妹三人で昔話をするのだ。それは一体、どれほど懐かしく心地良い時間だろう。
それから、大御所の許しが出れば、二人と一緒に両親や柴田の義父上の供養もしたい。方広寺の件で言いがかりをつけられて以来、なかなかできていなかったから。ついでにこの戦で死んだ兵らの供養をしてやってもいい。
その後は、のんびりと江戸で余生を送る。最近は趣味の刺繍もできていなかったし、初に勧められた本だってまだ読めていない。さほど顔は広くないが、これまで世話になった方々に文だって送りたい。やりたいこともやるべきことも、まだまだたくさんある。
穏やかながらやや退屈な暮らしは、何年も続くだろう。しかし、ある日突然大御所から、「秀頼に会うか」と尋ねられ、それにわたくしは喜んでうなずくのだ。秀頼に会ったらまず、近況を語り合う。ああ、秀頼の新しい妻にも挨拶をしないと。大御所の孫のお千が秀頼とまた一緒になるのは、恐らく難しい。仲の良い夫婦だったから、秀頼はさぞ落ち込むことだろう。
久しぶりに会うのだから、その日の夕餉は蒲鉾を食べよう。わたくしは蒲鉾を好きと思ったことはないが、秀頼が蒲鉾を食べて口元を綻ばせるのを見るのは大好きだ。そして夜は、懐かしい侍女たちと語り合ってから眠り、朝早くに秀頼の見送りを受け、静かに城を発つのだ。
もし、秀頼の領国が京に近かったら、完子を訪ねたい。立場上、軽率に大坂と関わることも出来ず、苦労をかけてしまっただろうから。あの日会った若君らも、立派に成人しているはずだ。
後は、高台院様の元も訪れたい。これまでの非礼を詫びて、本当はずっと感謝していたのですよと伝えたい。わたくしは何の土産も持っていけないが、お優しい高台院様はきっと、おいしいお菓子でわたくしをもてなしてくれる・・・ああ、どれもこれも、なんて幸せな未来。
――格子付きの小さな窓から木漏れ日が差す。しかし、大御所の使者は来ない。




