十三、またいつか
――五月七日の朝が来た。戦が始まってから既に十日以上が経過している。
今朝は、真田幸村が秀頼に余計なことを吹き込んだ。一度切り捨てたはずの『秀頼出馬案』を、またも提案してきたのだった。
皆が出陣を始める頃、もとよりその気でいた秀頼は、改めて要望され本当に外へ出たくなってきたらしい。わたくしはまた止める羽目になった。
「上様、危険なことはおやめなされ」
「真田は、私が出馬することで皆の士気が上がると申しております。豊臣の勝利のために出馬するのです。なんの不都合がございましょうか」
「危険だと言うております。いくら士気が上がろうと、上様が流れ弾に撃たれれば豊臣は滅ぶのです。何としても城に留まっていただきまする!」
・・・その後も押し問答は続き、とうとう秀頼は立ち上がって出ていくような素振りを見せた。わたくしは秀頼を押し返そうと、抱き着くようにして説得する。が、いかんせんその体の大きいこと。体力的にはとても敵いそうにない。
「母上!私は行かねばなりませぬ!」
「行かせませぬ!上様を亡くす訳にはいかぬのです!」
「――秀頼様!」
わたくしを突き飛ばすような勢いで前進する秀頼を、同じく抱き着いて押し返そうとする者がもう一人。お千であった。
「姉上、上様!落ち着かれませ!」
尼頭巾を被った初も、秀頼を制するようにその肩に触れる。
わたくしは多少気が強く意思を通すところがあるかもしれないが、初は大人しく大抵冷静だ。そんな叔母に言われたものだから、秀頼もやむなく力を弱めた。千もそっと体を離したが、わたくしはまだ秀頼を押さえつけたままでいる。
「姉上、何も言わずに私の言うことを聞いてくだされ。今日の戦は城下で行われます。このままでは、この城もどうなるかわかりませぬ。故に、若様と姫様をお逃がし致す案が、侍女や家臣らの間で出ております」
「じゃが、国松は」
「何もおっしゃいますな!天下は皆、この城の殿様が秀頼様であることを知っています。されど、秀頼様に国松君という若様がいらっしゃることはまだ知れておりませぬ。今のうちにお逃がしすれば、たとえ城は落ちても豊臣の血は残せましょう」
「城は落ちぬ!」
「たとえと申したでしょう!」
珍しく声を荒げるお初は、今度は秀頼に向かって同じように言い聞かせ始めた。
わたくしは豊臣の血脈が大事なのではない。秀頼が大事なのだ。とはいえ、確かに国松も姫も大切な孫。逃がした先で平穏に生きてくれるのなら、あるいは。
「――叔母上がそうおっしゃいますなら。母上、私は国松らを逃がします」
「・・・ええ、それでいいでしょう。六郎左衛門!」
私が呼ぶと、肩衣を身に着けた小太りの男がすぐに現れた。これは京極家の家臣で、国松の傅人として仕えている者だ。
「乳母殿と共に、国松君と姫君を城外へお逃がしせい」
「はっ!我が命に代えましても、必ず御守り致します!」
深々と頭を下げると、男は支度を始めた。国松と姫の乳母も忙しく動き出す。
お初がよくやってくれたのはこの後だった。この子は今一度秀頼に向き直り、また国松を見やり上手いことを言った。
「国松君と姫様は、上様の唯二人だけの御子様でしょう?ここは城に留まり、お別れをなさるのがよろしいかと」
「し、しかし。出陣した者らは、私を待っているのではないか?」
「親子の縁とは何よりも深いもの。疎かにしてはならぬものと、私は思うております」
彼女の言葉に亡き父母への哀惜を感じ、わたくしもつられて遠い小谷での日々を脳裏に浮かべた。本丸まで敵に侵され、自害に追い込まれた父上。戦場に転がる首のない死体は、この時見たものか、はたまた北ノ庄城で見たものか。わたくしも初も江も、あの日父がどんな顔をしてわたくしたちを逃がしたか覚えていない――
「・・・わかりました。出馬はやめまする」
初の想いが通じたのか、秀頼は大人しくうなずいた。そして不安げに父を見上げる国松の頭を撫でる。
「よし。国松、姫、最後に杯を交わそうぞ。誰か、酒と水を持って参れ」
秀頼が優しく微笑むと、子らは嬉しそうにきゃっきゃと跳ねているのだった。
「初、助かった。其方のおかげで上様を行かせずに済んだわ」
「ええ・・・それに」
――と、言いかけたところで初が言い淀んだ。わたくしが尋ねても、初は黙りこくって目をそらしている。気まずい沈黙が流れるが、すぐに国松らの笑い声にかき消された。
その時のわたくしは、秀頼を城内に留めることに成功し気が抜けていたのだ。今ならお初が何を言いたかったか、あの子の頭を覗き見たかのようにはっきりとわかる――
『――上様が出馬なされたところで、今更何かを覆すことは叶わない・・・豊臣は負けるのですよ、姉上――』
――真田幸村、討ち死に。大坂方は既に壊滅状態。現在、毛利勝永の指揮で残存兵が城へ退却中――
もはや豊臣家の勝利は・・・いや、豊臣家の存続は絶望的だった。日が徐々に暮れ始める頃、治長や速水守久ら重臣が退却してきた。治長は深手を負ったらしく、耄碌した爺のように頼りなく歩いている。
既に国松と姫は外へ逃がしていた。だが、まだ初が残っている。わたくしは初の頬に触れ肩に触れ、最後に手を取り、すぐに城を出るようにと促した。
「初は京極家の人間として生き延びよ・・・大御所も其方を悪いようには扱うまい」
「姉上、姉上・・・行けませぬ。姉上を残して出ていけませぬ・・・!」
「馬鹿なことを申すでない。わたくしも秀頼も死なぬわ。だから初、江のことをよろしゅう頼んだぞ。寂しがり屋であるからの、今も江戸で泣いておろう・・・」
「私は・・・結局何もできず・・・情けのうございます・・・」
幼子のように大泣きする初の手を、もっともっと強く握ってやる。母上を喪ってから数年間、私が初と江の母代わりだったのを思い出す。初は良い子、優しい子。母上を恋しがって泣く初の背を夜もすがらさすってやったのは、いつのことだったろう。
「姉上は誰よりも強く優しい、私の大切な家族です。そのことだけは、生涯、決して忘れませぬ!」
「・・・どうか健やかにね、お初――」
――こうして、姉妹の別れは済んだ。すると、途端に気が弱ってへたり込みそうになってしまうのだった。わたくしは生きてまた初と会えるのだろうか・・・
ともかく、この後は生き残った兵らと共に籠城するしかない。この、二の丸も内堀もない、脆弱な姿に成り果てた大坂城で。
「――嫌です!」
「御方様!」
治長と話そうと振り向いたわたくしは、千と治長が何やら話し合い、千が拒絶しているのを捉えた。修理の奴はわたくしや秀頼に断りもなく、何をするつもりなのであろう。
「いかがした」
「いえ、その、わたくしの勝手な判断にございますが。御方様をお逃がしし、上様と大方様の助命嘆願をしていただこうと思いまして」
「それが、お千は嫌と」
治長の言い訳じみた弁明を聞き流し、肩を震わせるお千に目を向ける。すると、誤解されたとでも思ったのか、千はその場に座り込んで平伏した。
「もちろん、上様と義母上様の御命をお救いできるならば、わたくしも喜んでそう致しとうございます。されど、わたくしのみが城から逃げ、自らの命が保証された場所で過ごすことなど耐えられませぬ!」
「お千・・・」
「わたくしはとうに豊臣の女です。秀頼様と運命を共にすることこそが、千の役目だと思うております!どうか、どうかわたくしを秀頼様の御傍に置いてくださいませ!」
千はもう涙声だった。あんなに小さかった姫が、秀頼の妹のようだった少女が、今は大名の妻となってこの場にいる。洗練された振舞いに動揺せざるを得ない。
「――千までも命を散らす必要はない。早うここを出るのだ」
秀頼がお千の前でしゃがみ、いつものように優しく声をかけた。だが、覚悟を決めたお千の心は揺らがないらしい。
「秀頼様の御台でありながら、御子を産み奉ることすらできなかったわたくしが最後にできることが、秀頼様と豊臣家に命を捧げること!一度くらい妻らしいことをさせてくださいませ。わたくしの最後の願いにございます!」
「――では、わたくしがお千にお使いを頼んだら?」
あまりの気迫に秀頼が困り顔なので、ここはわたくしが助け船を出してやることにした。秀頼と目線を合わせていた千は、わたくしの言葉に虚を突かれたらしくぱちぱちとしきりに瞬きをしていた。
「其方は覚えておるかの、其方の生母のお江のことを。あの子はわたくしの末の妹ゆえ、何も言えぬまま別れるのは心苦しい。お千が大御所の元へ行き、お江にわたくしの言葉を伝えてくれれば、これほど嬉しいことはないわ」
「し、しかし、わたくしは!わたくし、は・・・!」
千の口元が震えて上手く開かなくなる。可哀そうなお千のことを、秀頼が具足を煩わしそうに鳴らしながら抱きしめた。お千もたまらず抱き返す。
「お千。どうか、母上の頼みを聞いてやってはくれぬか。そして、徳川の元で生きていくのだ。助命嘆願などせずとも良い。もう豊臣のことは忘れるのだ」
「秀頼様・・・!」
「千、わたくしの助命嘆願はいりませぬ。上様のことだけはどうか、お頼み申しますよ」
「母上!」
水を差されたと言わんばかりに不服そうな秀頼だが、これだけはお千にこなしてもらわないと困る。もはや秀頼が生き延びる道は、お千の持つ細い紐の先にしかないのだ。
――秀頼様、義母上様、どうかご無事で。そう言い残し、お千は治長の家臣に連れられ城を脱出した。あのような可愛い娘に、大御所も将軍も辛くは当たるまい。
「・・・っ」
吉報を待つしかないとため息をつくわたくしの耳に、がちゃがちゃ、どたどたという重厚な音が入った。目で追うまでもなく、わたくしは足をもつれさせるようにして立ち上がり、秀頼の手を掴んだ。体幹のしっかりした秀頼が、睨むような眼をして振り返る。
「どちらへ行かれるのです」
「母上にそのようなことを聞かれる年ではありませぬ」
「なりませぬよ上様、いけませぬ!自害など許しませぬ!」
『自害』の一言に、広間がどよめき、周囲の注目が秀頼とわたくしに集まる。
秀頼は腰に身に着けた短刀を抜こうとする。それをわたくしは胴に抱き着いて止め、守久や治長も刀を鞘ごと取り上げようとした。
「っ、このままでは私は豊臣家の恥になります!これ以上生きていても生き汚いとあざ笑われるだけです!」
「恥になって何が悪いのです!其方のような立派な子を産めたことが母の唯一の誇りじゃ!わたくしのためにも生きてくだされ!」
「上様、早まったことをなさいますな!」
「御方様の嘆願、大御所も受け入れるに違いありませぬ!」
――三人がかりでの説得に、秀頼もやむなく諦めたように見えた。何故このような曖昧な表現になるのか・・・それはこの後、わたくしたち天守にいる者は、皆揃って逃げ出さねばならぬ事態に陥ったからだった。
「ああっ、う、上様!大方様!大台所から火がぁ!」
襖を蹴とばすようにして兵が飛び込んでくる。わたくしと秀頼が急いで廊下に向かうと、確かに大台所の辺りがちらちらと赤く光っているのだった。目を焼くように燃え盛る炎、既に頬で感じる嫌な熱気。これこそが、大坂城の終焉の合図であった・・・




