十二、私を形作るもの
――金の羽織も暗闇の中では目立たない。それにしても、死の間際、床の中でうわ言を言っていた時とは打って変わって、お元気そうな殿下だ。秀頼が生まれたばかりの頃、といったところだろうか。
その姿を見ていると、何やら腹が立つような気もするが、声を荒らげるような余裕はなかった。もちろんその逆、秀吉を慕う淀殿のふりをする余裕もない。
「殿下が・・・家康と同じくらい長く生きておられれば」
『人の寿命とは、生まれた時点で決まっておるものでの。どうしようもないわ』
「わたくしはここにいるべきではありませんでした。わたくしがこの城を守るなんて、無理な話だったのです」
ほんの数秒目を閉じ、開くと、殿下の姿は消えていた。訝しんで障子の方に向き直ると、殿下はわたくしから少し離れた位置に座り込んで、にたにたと笑っているのだった。
『寧々なら、上手くやったかもしれぬ。しかし■■ではとても器量が足りなんだな』
「おっしゃる通りですよ・・・高台院様は、返した手紙をどうされたかしら」
『――高台院様が、秀頼の母であったなら――今更なことを言うの。鶴松と同じように始めから預けておけば良かったものを』
「わたくしには誰のことも信じられなかったのです。高台院様も、城の侍女や家臣も・・・太閤殿下も」
『おお、わしも■■が信じられぬぞ』
嬉しそうに口元を歪め、殿下はすり足でわたくしの近くへ寄ってきた。相変わらず、気持ちの悪い猿面。今だってこんな男の妻であったことを認めたくはない。けれどやはり、豊臣家にはこの方が必要だったのだ。
『――そうじゃ。豊臣家はわしがおらねば成り立たぬ。わしが死んだ時点で豊臣は終わった。お前はただ、骸が腐らぬよう必死に塩を振りかけていただけよ。お前がそのような無様な真似をしたから、今も豊臣は醜態を晒し続けているのじゃ』
「豊臣家は、秀頼自身です。わたくしはあの子を守りたかっただけです。別に豊臣家にこだわった訳ではない。殿下がわたくしを・・・無理に側室に迎えるからです」
『ほう?誰よりも天下を欲していたにも関わらず、豊臣などいらぬと。今は腐敗しきっていても、昔は確かに豊臣家が天下を握っていたのだがのぅ。余所者に家を渡してしまったからのぅ。寧々も逆らえば良かったものを』
殿下の顔からすっと笑みが消える。この顔、晩年よく見せた恐ろしい支配者の顔。体中をぎゅっと締め付けられるような感覚、ねめつけるような視線を向けられ口づけを交わした恐怖――
『豊臣家はのぅ、わしと、寧々と、母様と、姉様と、朝日と、秀長のものよ。お前にくれてやった覚えはない』
「ひ・・・秀頼も、違うのですか」
『わしは男ゆえ子は産めぬ。其方の腹から出てきた子なぞ、誰が父かもわからぬゆえの・・・しかし、■■、わしはお前を信じたかった』
首に手をかけられる。だが、絞められはしない。それでも、今この瞬間にも、わたくしはこの男に命を取られるのだと感じていた。唯一人の夫に、天下を取った太閤殿下に、神となり遊ばされた豊国大明神様に、家族の仇に、卑しい猿に、大嫌いな男に。
「・・・秀頼は・・・私の子・・・私だけの・・・!」
『それで良い。もう豊臣家に興味はない。わしの作った豊臣とは変わってしまったゆえ。後は寧々と姉様を待つだけじゃ』
「亡霊、が・・・お前を憎く思わなかった日はない・・・!■■はお前を愛したことなぞない!」
怒りで震える手で殿下の手首を掴む。いや――これは、恐怖か。
思い返せば、私が殿下に恐怖しないわけがないのだ。齢十の兄を串刺しにして殺した。柴田の父上と母上を自害に追いやった。多くの民を飢餓や溺死といった恐ろしい方法で殺した。妾の言葉一つで自身の養子とその家族を殺した。
自分の意に添わぬ者には死あるのみ。きっと私も、何か一つ行動を間違えればこの方に殺されていた。これまで殿下に抱いてきた怒りは自身を守るための鎧に過ぎず、抱いてきた恨みは自己防衛のための脆い短刀に過ぎなかったのだ。
今だってそう。怖くて怖くてたまらない。だから怒鳴る。捕食者に喰われる寸前の小動物が、虚勢を張って必死に唸るように。
「何故兄上を刺し殺した・・・何故柴田家を攻めた!母上が死んだのもうぬのせいじゃ!江だってうぬのせいで何度も辛い思いをした!■■は豊臣秀吉が嫌いです!大嫌いです!私が憎いなら早う殺せ、猿め!」
『おうおう、可愛いのう。■■は愛い奴じゃのう。わしはの、いくら恨んでいる素振りを見せようとも、本当は豊臣秀吉に心底惚れているお前が好きだぞ。お前はわしの妻になった時点で、もうわしがおらねば生きられんのだ』
「なにを・・・言いがかりを・・・!」
『お前の人生は皆わしでできている。兄を殺したわしを憎み、お市様を慕うわしを嫌悪し、お市様と勝家殿を死に追いやったわしを恨み、わしの妻になり、わしの子を産み、わしの遺した豊臣家を秀頼と共に継承し、今こうしてわしが生涯かけて築いたものすべてを潰そうとしている。今のお前があるのはわしがいたからこそじゃ』
――■■にとっては、そして淀殿にとっては、豊臣秀吉こそが生きるための拠り所なのよ――そう殿下は続ける。そんなことない。私が猿を慕っているなんてありえない!
・・・けれど果たして、私には、豊臣秀吉のことを考えなかった日などあっただろうか。この世に豊臣秀吉が存在しなかったら、私はどんな■■になった?そしてその時の私は、本当に私であると言えるの・・・?
――殿下の言う通りなのかもしれない。私の人生は殿下に壊され、塗り替えられ、固く舗装された。その結果、今この裸になった城と運命を共にしている。
殿下の力が強くなる。殺される・・・怖い、苦しい、痛い――死にたくない。
「――いや、だ・・・やめて・・・」
『――泣かぬのではなかったのか』
そっと首から手をどかし、わたくしの目じりに溜まった涙を殿下が拭う。その指先がやけに優しくて、振り払おうとする手が動かなくなった。
『どの道豊臣は滅ぶのだ。どうせなら恥ずかしくないよう、上手く潰せ』
殿下はそう言い残し、にかっと心底楽しそうに笑った。そして――
「・・・あ」
気づくと、わたくしは静寂の城の中で横たわっていた。もちろん、殿下はいない。あれは、悪夢だったが、しかし本当に夢であったのだろうか・・・
わたくしは恐る恐る身を起こす。未だ外は暗く、恐ろしい闇が城を包み込んでいた。わたくしは座り込み、打掛をすっぽり被って頭を抱える。夜明けは、遠い。




