十一、過去との邂逅
今回の戦は野戦であるため、しばらくは城の周りは静謐としていた。無論、前線からの使番などが走って慌ただしくはあるのだが、それでもあの大砲の音と比べればずっとましだったのだ。
「国松は美しい字を書くのぅ。私よりも良い字ではないか」
「姫様にこれを差し上げます。綺麗な髪飾りでしょう」
秀頼千姫夫婦が、相変わらず楽しそうに兄妹と遊んでいる。昔に戻ったような、無邪気な光景だ・・・完子とは、ほとんど文のやりとりもできていない。今頃、どうしているだろう。
――五月六日は、いわば本当の戦の始まりであったかもしれない。豊臣方の主力武将らが次々と出陣し、徳川軍と交戦した。
朝から城内は慌ただしかった。そんな中、わたくしはあることを気にした。出ていく牢人共の表情が、何やら気に食わない。
わたくしは出陣前の木村重成を捕まえ、問いただした。この男は秀頼の乳母子だ。家臣ではあるが、秀頼にとっては友に近しい存在である。
「皆、この城に墓標を立てる覚悟にござりまする」
と、重成が言う。なんということ、もう豊臣の存続など諦めているということではないか。そのような覚悟で徳川に勝てるものかと、わたくしは重成を叱責した。しかし彼は、そのような心持ちであるからこそ、必ずや武功を挙げ徳川に傷を負わせましょう、と面の皮厚く言ってのけたのだった。
実際、この日の将らの戦いは見事であったと聞く。何度も徳川の大軍に横槍を入れ、刀を振るい首を取り、多くの戦果を挙げたという。
だが、最終的には徳川軍が勝った。少数での長時間の戦は疲労が溜まる。結果、大軍の徳川勢に押し切られ退却せざるを得なくなった。重成も戦死したという。
幼馴染の死を知り、秀頼も流石に動揺していた。千ともわたくしとも口を利かず、黙りこくって何かを考えているようだった。
城内に残る侍女の間でも、不安が広がった。砲声も何もしないのに、皆あの冬の戦と同じように恐怖に囚われ始めた。そういう気持ちは伝播するもので、誰もがひそひそと噂話を始める。
「もはや勝ち目はない、とか」
「女子の身ではどうしようもないではないか!」
「自刃の作法など知りませぬ・・・!」
わたくしの手も震え始めた。傍らの大蔵卿が慰めようとしてくるが、もはやその声すら遠い。
きっとこの夜、城内でまともに眠れた者は少ないだろう。事実わたくしもそうで、脱いだ深紅の打掛を抱いて小さく縮こまっていた。季節柄、夜も蒸して暑かった。
「和議が良かろうか・・・」
自分でも不可能とわかりきっている甘えの言葉が、不意に口をついて出た。――それに、返事をする男がいた。
『御方様自ら、和議は無意味とおっしゃられたではありませぬか』
「なっ」
跳び上がってじりじりと壁の方へ這いずる。女ばかりの奥御殿で、なぜ男の声が。恐る恐る目を開くと・・・悠然と座り込んでいるのは、十五年前に死んだはずの石田三成ではないか。幻覚か、それとも亡霊か、どちらにせよ気味が悪い。
『大御所はどこまでも豊臣家と秀頼様を追ってくる。その玉の緒が絶えるまで、決して逃がしはしないでしょう。ならば豊臣に待ち受けているのは滅亡のみ。この戦は、始まった時点で結末は決まっていたのです』
「・・・其方も、わたくしが江戸へ行けば良かったと申すか。あるいは、国替えが良かったと」
『そうやもしれませぬ。しかし、そうしたところで大御所は諦めなかったかもしれない。江戸へおいでになった御方様を殺め奉り、ついでと言わんばかりに豊臣家まで潰してしまったやも知れませぬ。移った国へ攻め込み、やはり潰してしまったやもしれませぬ』
三成は、生前ではありえなかったような厚かましい態度で上座へ寄ってくる。わたくしは打掛を羽織り、厚畳へ戻った。
「では、なんですか。そもそもわたくしが豊臣を背負うべきではなかったと。わかっておるわ、人に言われずとも。誰も彼もうるさいのよ・・・」
『――御方様。わたくしは貴方様と同じように近江で生まれ、殿下を慕い十五で寺を出ました。今でも、殿下は素晴らしい御方だと思うております。殿下の御子である秀頼様が、有り体に言えば可愛い。だから失いたくない。わたくしとて、昔はこのようなことになるとは思いませなんだ。ゆえに、御方様に身命を賭してお仕えしてきたのです』
「なんじゃ。何が言いたい」
まどろっこしい物言いに腹が立つ。大体、三成などの亡霊に会うことほど不吉なことがあるか。此奴は関ヶ原で家康に負けた敗者ではないか。
「早う去れ、治部め。亡者の癖に現世に縋りつきおって」
『では、最後にこれだけ――勝ってください、淀の方様』
「・・・」
『我々の夢を、守り抜いてください。そしてもし負けたなら、すべてを消し去ってください。憎き豊臣秀吉が遺したものを、全部――』
「――治部、待てっ!」
三成はそっと頭を垂れ、障子を開き足早に部屋を出ていく。打掛の裾を踏みつけながら後を追うも、既に彼の姿は消えていた。代わりに鉢合わせたのは、外で見張りをしていた何人かの侍女だった。
「大方様、どうされたのです!」
「・・・治部の亡霊が出おったわ」
「え?」
「――いや、もう良い。下がっておれ」
侍女らは戸惑いつつも、めいめい持ち場へ戻って行く。明日の朝には大方様乱心の噂が広まっていることだろう。わたくしは邪気を払うようにため息を吐いた。
――深夜。静まり返った城内でぼうっとしていると、まるで自分一人きりがここにいるように思えてくる。
『――■■、■■』
あの頃は、一人ではなかった。ねっとりと湿度を孕んだ気持ちの悪い声。わたくしに触れる、わたくしを抱きしめる、わたくしに口づける、そのたびにわたくしは少しずつ気をおかしくする。この城で、わたくしは幾度殿下に抱かれただろう。
『■■は、わしを嫌っておろう?』
初めて寝所を共にした日。何やらぼうっとして、気分が悪くて、起き上がれずにいたわたくしに、殿下がそっと問いかけた。
『嫌いです・・・あなたはいつも、私を囲碁で負かすから』
最も、囲碁なんて一度しか打ったことはなかった。殿下は優しく優しく囲碁を教えてくださって、最後には徹底的にわたくしを負かしたのだった。
殿下は豪快に笑った。わたくしを抱き起して、自らの胸の辺りにもたれかからせた。殿下はこの胸で信長伯父上の草履を温めたと聞いたが、本当なのだろうか。
『ならば、何故わしを避けぬ』
殿下がわたくしを抱きしめる。わたくしもその腕に触れる。
『お慕いしているから』
なんとわかりやすい嘘だっただろう。しかし殿下は笑みを絶やさず、何も言わずにわたくしの髪を撫でていた。わたくしは、余計に気分を悪くした。
――ああ、この城。憎き秀吉の築いた天下一の要塞。そして今は、わたくしと秀頼二人だけの城。誰にもくれてやるものかと、思っていた。しかし今は、城を手放すだけで助命が叶うなら、喜んで差し出せよう。
『・・・ははうえ、ははうえ』
「――拾?」
幼子の声に、反射的に振り返る。しかし誰もいない。ただ障子から月明かりが差し込んでいるだけだ。
『ははうえ、かかさま、かかさま』
・・・そうか、これは拾ではない。棄だ、鶴松だ。高台院様を慕っていて、幼くして死んでしまった、わたくしの初めての子。
あの子が今も生きていたらどうなっていただろう。秀頼は、産まれなかったかもしれない・・・
『――此度は、若君様の御誕生、誠におめでとうございます』
今度は、亡き秀次殿の声だ。鶴松が死ななければ、秀次殿が自害することもなかっただろう。秀頼の立場を思ったわたくしが、他でもないわたくし自身の言葉で、殿下に『お願い』したのだから。
『わたくしは大坂を出ます。秀頼君も淀殿も、どうかお健やかに』『私の生涯で誇れることといえば、秀次を産んだことくらいですよ。藤吉郎の養子にやるなんて、初めは思いもしなかったんだから』『お■■様!この勝家、かすていら、とやらを手に入れて参りました!南蛮菓子がお好きなのでしょう?お市様に聞きましたぞ!』
声が聞こえる。高台院様、秀次殿の生母の日秀尼様、柴田の父上。秀吉殿、そして秀頼の天下のために犠牲になった方々。今では、わたくしと秀頼が、家康の天下のために犠牲になろうとしている・・・
『――秀頼は憐れじゃのう』
最後に聞こえたのは、憎き男の声だった。しかし、わたくしは背後に、はっきりと男の気配を感じた。
逃げ出したくなる気持ちを抑えて、震えながら振り返る。――亡き太閤、豊臣秀吉が、冷ややかな目でわたくしを見下ろしていた。




