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白壁の先

 朝方になっても、雨は降り続いていた。

 トタン屋根を叩く音だけが、小屋の中に響いている。


 獣人たちが、一人、また一人と目を覚ます。


 最初に声を上げたのは、腕に包帯を巻いていたヒョウの獣人、レオパルドだった。


 眠る前まで裂けていた傷が、綺麗に塞がっている。赤く腫れていた皮膚は元の色を取り戻し、動かすたびに走っていた痛みもない。


 別の獣人が背中に手を回す。昨日まで鞭で裂かれていた傷が消えていた。


 小屋の中にざわめきが広がっていく。


「本当に、全員分治療したのか……!」


 レオパルドが呆然と呟いた。




 その視線の先で、ルーシアは壁際に座り込んでいた。


 目の下にはクマが浮かび、膝に置いた手は小さく震えている。それでも、目を覚ました獣人たちへ弱く微笑もうとした。


「ごめんなさい……」


 声はかすれていた。


「欠損部分の治療までは……私の魔法じゃ……」


 立ち上がろうとしたルーシアの身体が傾く。

 すぐにネルドが手を伸ばし、その肩を支えた。


「十分だ、ありがとう」


 ネルドは静かに言った。

 そして、少しだけ目を伏せる。


「そして……すまない」


 ルーシアは驚いたように顔を上げた。


「なんであなたが謝るの?」


「姫の善意を疑ってしまった……」


 ルーシアは首を横に振る。


「疑われて当然よ。それだけのことを私たちはして来たから……」


 その言葉に、小屋の中の獣人たちは何も返さなかった。




 カラカは壁に背を預けたまま、ネルドを見た。


「なぁ、ネルドって言ったっけ? なんでこんな仕打ちを受けて、この街に留まってるんだ?」


 ネルドは自分の首に嵌められた鉄の首輪へ指を当てた。


「あぁ……女子供が囚われててな……この首輪のせいで魔力も練れない」


 カラカの眉間に皺が寄る。


「まぁ、そんなことだろうと思ったけどよ……」


 ルーシアが俯く。


「本当にごめんなさい」


「いや、姫のせいじゃない」


 ネルドはそう言ったが、表情は晴れなかった。


「それに、一定期間働けば家族たちと共に解放するという話だ」


 少しだけ沈黙が落ちる。

 ネルドはその沈黙ごと飲み込むように続けた。


「信じるしかない……幸い獣人族は体だけは頑丈だからな。耐えて見せる」


 その時、小屋の扉付近にいた獣人が、小さく声を上げた。


「衛兵が飯を運んできたぞ!」


 カラカが顔を上げる。


「やば!」


 ネルドはすぐに2人へ視線を向けた。


「早く隠れるんだ!」


 ルーシアはふらつく足で立ち上がり、カラカに支えられながら壁際へ下がる。獣人たちは何も言わず二人の前へ立ち、そのまま壁際の影へ隠した。



 直後、二人の衛兵が寸胴鍋を抱えて入ってくる。小屋の中を見回した衛兵が鼻で笑った。


「なんだ全員起きてるのか、珍しいな」


 もう一人が鍋を雑に床に置く。


「おら! 飯だ! ありがたくいただいて今日も働け!」


 寸胴の中に入っていたのは、ほとんど透明に近いスープだった。


「ちゃっちゃと食って仕事場で整列しとけ! 30分後に点呼をとるからな!」


 それだけ言い残すと、衛兵たちは足早に出ていった。




 足音が遠ざかるのを待ってから、カラカは寸胴の中を覗き込み顔を歪めた。


「なんだよこれ……こんなの飯って言えねぇだろ」


 ルーシアは鍋の中を見つめたまま、声を絞り出す。


「毎食こんな感じですか?」


 エレファが、目を伏せて答えた。


「……あぁ」


 ルーシアは鍋の中を見つめたまま唇を噛んだ。


「許せない……ここの管理を任されているのは確か」


 ネルドが低く言う。


「アサグという男だ」


 ルーシアの目がわずかに鋭くなった。


「エルピディア王国の財務卿ね。色々と黒い噂は多かったけど……こんなことをしてるなんて。お父様は知ってるのかしら」


 エレファが口を開く。


「あとは、マーランとフェールトという男もいる」


 カラカが振り向いた。


「そいつらもしってるのか?」


 ルーシアは首を横に振る。


「いえ、初耳よ。どっちにしろ、ろくでもない人たちでしょうね」


 その時、一人の獣人がネルドに声をかけた。


「ネルドさん。そろそろ行かないと」


 ネルドは頷く。


「あぁ、そうだな」


 カラカとルーシアへ向き直った。


「俺たちはとりあえず仕事に行く。お前たちはこれからどうするんだ?」


 ルーシアは壁に手をつきながらも、まっすぐに答えた。


「私はアサグのところに行くわ。あなたたちを解放するよう交渉してみる」


「そんなことできるのか?」


 ルーシアは疲れ切った顔で、それでも少しだけ笑った。


「こういう時こそ無駄にある権力の使いどころよ」


 ネルドはしばらく彼女を見つめていた。

 それから、小さく息を吐く。


「ありがたいが……無茶だけはするなよ」


 カラカも腕を組んで言った。


「お前らもな」


「あぁ」


 そう言い残し、獣人たちは小屋を出ていった。


 首輪をつけた背中が、雨の中へ消えていく。




 ルーシアはそれを見送ってから、ゆっくり歩き出した。


「私たちも行きましょう」


 その瞬間、足元が揺れたようにルーシアの身体が崩れかけた。

 カラカがすぐに腕を伸ばし、彼女の身体を支える。


「おい! 大丈夫か?」


 ルーシアはすぐに体勢を戻そうとした。


「えぇ、大丈夫よ」


「大丈夫じゃないだろ! 少しは休まねぇと」


「そんな時間はないの!」


 ルーシアの声が、小屋の中に響いた。

 肩で息をしながらも、真っ直ぐ前を見ていた。


「王族が先祖代々行ってきたこと。そして、今行っていること。それは決して許されるべきじゃない。ここで……私が変えないと……」


 カラカはしばらくルーシアを見ていた。

 そして、諦めたように短く息を吐いた。


「わかった。行くか」




 二人は街の東側、鉱山の麓から反対に位置する豪勢な屋敷が並ぶエリアへと向かった。


 赤茶色の泥に足を取られながら進むうち、街の景色は少しずつ変わっていった。


 トタン屋根や屋台が減っていく。

 代わりに白い石造りの建物が増え始めた。


 そして、その境界を遮るように、巨大な白壁が街を横断していた。


 雨に濡れた白い外壁の上には、黒い金属線が幾重にも張り巡らされている。


 門の前には重武装の衛兵たちが槍を構えている。鉱山側の見回り兵とは違い、鎧も武器も磨かれていた。


 二人は無言でその門へ歩き出した。

 衛兵の一人がすぐに槍を向ける。


「止まれっ! ここから先は許可のある者しか通ることはできない。名乗るか、許可証を出せ」


 ルーシアはその槍先に一歩も退かずに言った。


「槍を下ろしなさい。無礼者」


 衛兵の顔が険しくなる。


「なに? 貴様……何者だ!」


「何者……?」


 ルーシアはフードを取った。

 雨に濡れた白い髪が肩に落ちる。


 顔色は悪く、目の下には疲労が残っている。

 だが、その立ち姿は堂々としていた。


「我が名はエルピディア王国が王女。ルーシア・フィッツジェラルド!」


 衛兵たちの顔色が一瞬で変わった。


「ひ、姫様!? そんな、こんな辺境の地に!?」


「わかったらさっさと槍を下ろしなさい!」


「し、しつれいしました!」


 衛兵たちはすぐに槍を下ろし、姿勢を正して敬礼した。


 ルーシアは何事もなかったかのように頷く。


「よし。許可証は……」


「大丈夫です! お通りくださいませ!」


「そう。なら、通るわね」


 二人が門を進もうとした時、衛兵が慌てて声をかけた。


「お待ちください! そちらの男性は……」


 カラカが胸を張る。


「俺はさい」


 言い切る前に、ルーシアが遮った。


「この者は私の従者。一緒に通るわよ」


「かしこまりました!」




 二人は門をくぐった。

 鉄門の内側へ入った瞬間、カラカが不満そうに口を開く。


「おい。誰が従者だよ」


 ルーシアは前を向いたまま答えた。


「通るためには仕方なくよ」


 カラカは何か言いたげに眉を寄せたが、すぐに口を閉じた。


 巨大な白壁の門を抜けた瞬間、街の匂いが変わった。


 鉱山灰と泥の臭いは消えた。

 代わりに、香木と酒、そして香ばしい肉料理の香りが漂ってくる。


 泥に沈んでいた地面は、白い石畳へ変わっていた。雨水は整備された排水路へ静かに流れ、足元にぬかるみはない。


 油の蝋燭が、雨の朝を静かに照らしていた。


 その暖かな灯りの下では、着飾った人間たちが笑っている。


 毛皮の高級外套。

 骨を加工した工芸品。

 角で作られた酒杯。


 手入れされた店先に、それらが美しく並べられていた。


 ほんの数キロ先に、飢えた獣人たちがいるとは思えなかった。


 カラカは白い石畳の上で立ち止まり、低く呟いた。


「……同じ街なんだよな、ここ」


 ルーシアも同じ景色を見つめる。


「えぇ……」


 二人は口数少なく、白い石畳の上を歩いた。


 


 その奥。


 雨に濡れた大きな建物の窓から、二人を見下ろす男の影があった。


 痩せ細った長身の男。


 青白い肌に削げた頬。

 濡れたように後ろへ流した黒髪。

 濁った瞳は、感情を映していない。


 その顔には、乾いた陶器のような罅割れが走っていた。


 黒と紺を基調とした豪奢な長衣を纏い、細い指にはいくつもの指輪を嵌めている。


 その姿は、王国の財を預かる財務卿に相応しい威厳を放っていた。


 男は窓の向こうで、薄く口元を歪める。


「まさか、おてんば姫がここまでくるとは……めんどうにならなければいいですがねぇ」


 その声は雨音に紛れ、街へは届かなかった。




 白い石畳を歩いていたカラカが、ふと足を止めた。


 腰に差したナイフが、鞘の奥で微かに震えている。


 カラカは眉をひそめた。


「なんだ……?」

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