繁栄の影
深夜になっても、雨の音だけはいつも通りだった。
獣人たちの居住区に、人の声はほとんどない。薄い鉄板を継ぎ合わせたトタン屋根の小屋には、壁の隙間から冷たい風が吹き込んでいる。
ネルドは外に立ち、暗い空を見上げていた。
雲は厚く、月も星も見えない。
雨だけが静かに降り続いていた。
胸元のネックレスを握る手に、自然と力がこもった。
その時、ぬかるんだ地面を踏む足音が近づいてきた。
振り返ると、そこには見回り兵の姿が立っていた。雨除けの外套を羽織り、腰には剣。手には鞭を持っている。
見回り兵はネルドを見るなり、不機嫌そうに眉を寄せた。
「おい、何をやってる。さっさと小屋に戻れ」
ネルドは何も言わなかった。
「聞こえねぇのか!」
「……分かった」
ネルドは静かに答えた。
見回り兵は舌打ちをして、ネルドの首元にある鉄の首輪を一瞥する。
「明日の工程に支障を出したら鞭打ちだぞ」
「わかってる」
「死人が出るのは勝手だが、工程だけは遅らせるなよ」
「……」
「ふん」
見回り兵は吐き捨てるように言い、雨の中を歩き去っていった。
ネルドはしばらくその背を見送っていた。
(いつになったら変わるんだ……)
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。ネルドはもう一度ネックレスを握った。
擦り減った炎の紋様に指先が触れた。
その時だった。
再び、足音が聞こえてきた。
「なんだ、戻って来たのか?」
雨の向こうから、男の声が返ってきた。
「なんの話だ?」
そこに立っていたのは、見回り兵ではなかった。
黒髪の青年とフードを深く被った少女が雨に濡れながら立っていた。青年の腰には黒い布を巻いたナイフがあり、少女は周囲を警戒するようにあたりを見渡していた。
「だれだ……」
青年は胸を張った。
「俺は、最強の男だ」
「最強?」
ネルドの眉がわずかに動く。
隣の少女が、呆れたように小さく息を吐いた。
「それやめなさい」
「おい! ルーシア! 俺の決め台詞を──」
その名を聞いた瞬間、ネルドの目つきが変わった。
「ルーシア……?」
フードの奥にある少女の顔を、じっと見つめる。
「あんた……ルーシア・フィッツジェラルドか?」
「やばっ!」
ルーシアは落ち着いていた。
「大丈夫よ」
そう言うと、ルーシアはカラカの前に出た。雨の中でフードを少しだけ上げ、ネルドとまっすぐ目を合わせる。
「えぇ、その通りよ」
ネルドの喉から、低い声が漏れた。
「王族が、こんなところに何の用だ」
「あなたに会いに来たのよ……ネルド」
「……なぜ、俺の名を」
「それはまた話すわ。今は、獣人族の現状を把握させてくれないかしら」
その言葉に、ネルドの瞳がさらに冷えた。
「王族が現状を把握だと? 俺たちをここに閉じ込めてるのはお前たちの指示だろ」
ネルドが拳を震わせる。
「お前のせいで……」
ルーシアは何も言えず、静かに俯いた。
カラカが一歩前に出た。
「待てよ。それは違うだろ」
ネルドの目がカラカへ向く。
「違う? 何が違う!? そもそもお前は誰だ!」
カラカが口を開く。
「俺は──」
その時、また足音が聞こえた。
「カラカ!」
ルーシアは咄嗟にカラカの口を塞ぎ、そのまま物陰へ引き込む。二人の姿が、小屋の影に隠れた。
さっきの見回り兵が戻ってきた。
「なにを騒いでる!」
見回り兵はネルドへ詰め寄る。
「お前以外にも声が聞こえたが、誰と話してた!」
ネルドは一瞬だけ物陰へ視線を移した。
ルーシアは息を殺し、カラカの口を押さえたまま動かない。
ネルドはゆっくりと視線を戻した。
「いや……すまん、もう寝るから勘弁してくれ」
見回り兵はしばらくネルドを睨んでいた。
「ならさっさと行け!」
「あぁ」
ネルドが小さく頷くと、見回り兵は不満そうに鼻を鳴らし、再び雨の向こうへ消えていった。
しばらく待ってから、カラカとルーシアが物陰から出てきた。
カラカは息を吐き、肩をすくめる。
「危なかったぜ。ありがとな」
ネルドは感情のない目でカラカを見る。
「感謝なんかいらない。ただ、王族が地方の衛兵から隠れる理由が知りたいだけだ」
ルーシアは何も言わなかった。
ネルドは彼女に向き直る。
「ついてこい。お前らが作り上げた地獄を見せてやる」
そう言って、ネルドは小屋の並ぶ方へ歩き出した。
雨に濡れた居住区を進み、ネルドは一つの小屋の前で足を止めた。
遠くでは鉱山が黒い煙を吐き続けている。
中には、疲れ果てた獣人たちが身を寄せ合っていた。
ゾウの獣人、エレファが顔を上げる。
「戻ったか、ネルド。今日は長かったな」
「あぁ、客が来てな」
「客? こんなところに誰が」
ネルドの後ろから、カラカとルーシアが続く。
小屋の中の視線が、一斉に二人へ向く。
エレファが目を細めた。
「お前さんらは……」
ネルドは淡々と言った。
「エルピディア王国のお姫様だ。それと、最強の男だと」
その瞬間、空気が凍った。
「王族だと……?」
「なんでこんなところに……」
獣人たちの視線が一斉にルーシアへ向く。
ルーシアは小屋の中を見渡し、目を見開く。
痩せ細った獣人たちが、壁際に寄りかかっている。腕に包帯を巻いた者。背中に血を滲ませた者。片目を潰された者。片腕を失った者。足を引きずる者。
「これは……」
ルーシアの声は震えていた。
カラカも周囲を見て、低く呟く。
「あぁ、ひでぇな。明らかにやりすぎだ」
ネルドは冷たく言った。
「これがエルピディア王国の繁栄の影に隠れた地獄だ。気は済んだか?」
ルーシアは唇を噛んだ。
そして、深々と頭を下げた。
ネルドの眉がわずかに動いた。
「どういうつもりだ」
「ごめんなさい……」
ルーシアは頭を下げたまま言った。
「私は……何も知らなくて……」
その謝罪に、獣人たちの怒りが一気に噴き出した。
「王族の謝罪? 今更何の意味があるんだ!」
「こいつを人質にすれば、街を出られるかもしれねぇぞ!」
「いいな! そうしよう!」
獣人たちの言葉にカラカの顔から表情が消えた。低い声が小屋の中に落ちる。
「お前ら……勝手言ってんじゃねえぞ」
カラカはルーシアの前に立ち、獣人たちと向かい合う。
ネルドだけは何も言わず、ルーシアを見つめていた。
その時、ルーシアが顔を上げた。
「私を人質に……悪くない案ね」
カラカが振り返る。
「お、おい!」
ルーシアはカラカを見ず、獣人たちへ向かって言葉を続けた。
「でも、それじゃ根本的な解決にならないわ」
獣人たちの一人が眉を吊り上げる。
「どういうことだ?」
「私を人質にして、あなたたちが解放されだとしても。また次の犠牲者がでるだけよ」
「なんだ! 結局ビビってるだけじゃねえか!」
獣人たちから怒号が飛ぶが、エレファが低く言った。
「いや、姫の言うことはもっともだ」
その声で、獣人たちはわずかに静まった。
ネルドがルーシアに問う。
「なら、どうすればいい?」
ルーシアはまっすぐにネルドを見た。
「1日だけ私に時間をくれないかしら。なんとかして見せる」
獣人の一人が吐き捨てる。
「人間の王族の言うことが信じられると思うのか?」
「わかってるわ」
ルーシアは静かに答えた。
「口より行動で示すつもりよ」
そう言って、近くにいた獣人へ手を差し出した。
その獣人は反射的に身を引く。
「何をするつもりだ!」
ルーシアの手に、温かな光が灯った。
裂けていた皮膚がゆっくりと塞がり、滲んでいた血が止まっていく。痛みに歪んでいた獣人の顔が、驚きに変わった。
ルーシアは静かに言った。
「今からここにいる全員の体を癒します」
カラカが声を上げる。
「ルーシア! 何人いると思ってんだ! 魔力が持つわけがねぇ……」
ルーシアは振り返らなかった。
ただ、手の光を消さずに答える。
「大丈夫。私たち王国がこの人たちにしてきたことに比べたら……」
その言葉に、小屋の中の空気が少しだけ変わった。
ネルドの目が細くなる。
「俺たちを人と呼ぶか……」
それは小さな声だった。
だが、確かにルーシアへ向けられていた。
「なら、試してみよう」
ルーシアはほんの少しだけ目を見開いた。
「チャンスをくれるのね……ありがとう」
ネルドは答えなかった。
ただ、ルーシアの手に灯る光を見つめていた。
その胸元で、角と金槌と炎を模ったネックレスが、雨音に合わせるように小さく揺れている。
(フラン……)
ネルドは心の中で呟く。
(この二人は、俺たちが待ち望んだ救いの炎だろうか……)




