白虎の獣人
雨の降る鉱山には、様々な音が鳴り響いていた。
岩を砕く音。
鉱石を積む音。
鎖が擦れる音。
そして、鞭の音。
暗い坑道の中で、獣人たちが首輪をつけられ、黙々と鉱石を掘り続けている。空気は薄く、汗と泥と血の匂いが充満している。
少しでも手が止まれば、監督役の人間が鞭を振るった。倒れた者にも、膝をついた者にも容赦はない。
「おら! 手ぇ止めんな!」
乾いた音と悲鳴が坑道に響く。
そんな中、ゾウの獣人がふらついた。
両腕に抱えていた鉱石が足元にこぼれ落ちる。
次の瞬間、その巨体が膝から崩れた。
監督役の人間が舌打ちし、鞭を握り直す。
「おら! 誰が休んでいいって言った! でかい図体してるくせに情けねえ!」
鞭が振り上げられ、ゾウの獣人の背に叩きつけられる寸前──
白い影が間に入った。
乾いた音が響く。
鞭を受けたのは、白虎の獣人だった。
白虎は微動だにしなかった。
ただ、ゆっくりと監督役の人間へ視線を向ける。鋭い目には怒りを押し殺したような、冷たい光があった。
人間の男が一歩だけ後ずさる。
「な、なんだよ……逆らう気か?」
白虎の獣人は低く答えた。
「いや、逆らう気はない。ただ、こいつは限界だ。少し休憩をくれないか?」
「そんなの許されるわけがないだろ。昨日無能が何匹か死んで今日の工程が遅れてるんだ」
白虎の眉間に深い皺が刻まれた。
強く握り締めた拳からは血が滲んでいる。
「なら、こいつの分も俺が働く。今日のノルマは必ず終わらせる。それでもダメか?」
監督役の人間は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふん。勝手にしろ」
白虎の獣人は、ようやくゾウの獣人のそばに膝をついた。
ゾウの獣人は息を荒げながら、申し訳なさそうに顔を歪める。
「ネルド……すまん……」
ネルドは首を横に振った。
「気にするな、エレファ。
お前は先に帰って休んでろ。俺もすぐに帰るから」
「すまない……」
「変な気だけは起こすなよ」
エレファは重い頭をゆっくりと頷かせた。
「わかってる」
その日、ネルドは二人分の鉱石を運んだ。
何度も鞭が背中を掠めた。
何度も膝が折れかけた。
それでも、最後まで手を止めなかった。
生活区域に戻るころ、雨はまだ降っていた。
鉱山の麓にはトタン屋根の小屋が並んでいる。屋根のあちこちから雨漏りが落ち、壁の隙間からは冷たい風が吹き込んでいた。
街の喧騒は、ここまでは届かない。
ここにあるのは、湿った土の匂いと、疲れ切った獣人たちの息遣いだけだった。
支給された食事は、薄い汁物のみ。
器の底が見えるほど澄んだ汁に、野菜くずが少し浮いている。肉も、穀物も、ほとんど入っていない。
獣人の一人が器を見下ろし、低く吐き捨てた。
「毎日こんな飯で、まともに働けるわけねぇだろ!」
別の獣人も、奥歯を噛み締める。
「くそっ! どこまでもコケにしやがって……」
ネルドは器を手にしたまま、静かに言った。
「それでも耐えるんだ」
その言葉に、周囲の獣人たちは黙り込んだ。
やがて、ネルドを中心に何人かの獣人が集まった。
ゾウの獣人。
バッファローの獣人。
ヒョウの獣人。
疲労で顔色は悪く、毛並みも泥と雨で乱れている。
ゾウの獣人、エレファが、弱々しく口を開いた。
「ネルド……今日はすまなかった」
そう言って、自分の器をネルドの方へ差し出した。
ネルドはすぐに首を横に振る。
「いや、気持ちだけでいい」
「だが……」
「しっかり休んで、明日に備えよう」
エレファは悔しそうに目を伏せた。
「あぁ……」
ヒョウの獣人、レオパルドが周囲を一度見回し、小さな声で報告する。
「今月だけでも、もう七人だぜ」
誰も驚かなかった。
バッファローの獣人、バッファが低く唸った。
「昨日はサイたちが死んだ。鉱山の奥が崩れて、巻き込まれたらしい」
エレファが目を閉じる。
「そうか……」
レオパルドは続けた。
「その代わり、新しい奴らが──」
その瞬間、少し離れた場所で器が地面に叩きつけられた。
薄い汁が汚れた床に広がる。
立ち上がったのは、ライオンの獣人だった。身体は大きく、目には怒りが燃えている。
「ふざけるなっ! なんで俺たちがこんなところで働かねぇといけねぇんだ! あいつら全員殺してでも俺は出るぞ!」
周囲の空気が凍った。
何人かが慌てて小屋の周りに人間がいないか確認に走った。
ネルドは静かに立ち上がり、小屋の出口を塞ぐように立った。
「勝手は困るな、新入り」
ライオンの獣人が牙を剥く。
「どけよ。俺は嫁と子供とこの街を出る」
ネルドの表情がわずかに曇った。
「そうか、お前も家族を……」
「ああ。いい働き口があると聞いて来たが……嫁と子供を人質にとりやがって。わかったらさっさとどけよ」
ネルドは動かなかった。
「それはできないな。家族を守りたいなら今は耐えるしかない」
「どかねぇなら、力づくでどいてもらう!」
ライオンの獣人が踏み込んだ。
ネルドは避けなかった。
拳が顔面を捉え、鈍い音が響く。ネルドの顔がわずかに横を向き、口の端から血が流れた。
だが、足は一歩も動いていなかった。
ライオンの獣人の目が揺れる。
ネルドは血を拭いもせず、静かに言った。
「俺を殴って済むなら好きなだけ殴ればいい。だが、人間を怒らせるようなことはするな」
ライオンの獣人は拳を握ったまま、息を荒げている。
「お前……なんで手を出さねぇ」
「意味がないからだよ。
お前、名前は?」
「……ビコ・レオンだ」
ネルドは小さく頷く。
「そうか。レオン」
ネルドの声は低く、重かった。
「慌てるな、今は耐え忍ぶんだ。いつか必ず陽は上がる」
ライオンの獣人は顔を歪めた。
「くそっ!」
それ以上何も言わなかった。
ただ、拳を震わせたまま、その場に崩れるように座り込んだ。
深夜。
小屋の外れで、ネルドは一人、雨の降る空を見上げていた。
雲の向こうに陽はない。
月も見えない。
ただ、雨だけが降り続いている。
小屋の中では、獣人たちが疲れ果てて眠っていた。
ネルドは胸元に手を伸ばした。
そこには古いネックレスがあった。
角と金槌が交差し、その中心には炎を模った小さな装飾がある。何度も握られたのか、表面は少し擦り減っていた。
ネルドはそれを強く握りしめる。
「……フラン」
雨音が、返事の代わりに降り注ぐ。
「俺はまだ信じてる。いつか必ず──」
言葉はそこで途切れた。
それでも、ネルドは空を見上げ続けていた。
降り続く雨の音だけは、いつものように夜を満たしていた。




