隷属の首輪
雨に濡れた石段を駆け上がり、ネルドたちは高台へ辿り着いた。
眼下には、血と泥に汚れた白い街が広がっている。人間と獣人がぶつかり合い、怒号が雨音に混ざる。遠くでは蒼炎が青白く立ち上がり、そのたびに魔法の光が空から消える。
石段を塞いでいた兵は下で隊列を組み直しているが、追ってくる様子はない。
エレファはルーシアを肩から降ろし、自分の背後へ立たせた。
「やけに簡単に兵を引いたな……」
「どういうつもりだ」
ネルドは高台の中央に立つフェールトを睨んだ。周囲に護衛は見当たらず、雨に濡れた眼鏡を指で押し上げる。
「どうもこうもない。お前たちを捕えるための最善の選択をしたまで」
「捕える……?」
「気にしなくていい。貴様らは会話をしにきたのか?」
ネルドの爪がわずかに軋む。
「話が早いな」
ネルドは一度、高台から広場を見下ろした。
バッファやレオパルドが、衛兵と冒険者に囲まれながらも必死に戦っている。仲間たちの体には矢が刺さり、血が雨に薄まって流れていた。
「お前を倒せばこの首輪は外れるだろう」
「倒せればな」
その瞬間、ネルドが地面を蹴った。
低い姿勢から一気に距離を詰め、爪を喉元へ突き出す。だが、爪が届く寸前、ネルドの首輪が強く締まった。
「ぐっ……!」
全身へ痺れが走り、踏み込んだ右脚から力が抜ける。ネルドは勢いを失ったまま地面へ膝をつき、両手で首輪を押さえた。
フェールトは眼鏡の奥から、その姿を見下ろす。
「三年前と同じだと思ったか?」
ネルドが苦しげに顔を上げた。
「あの日、貴様は私の肩を一撃で貫いた。だから付けたのだ。その爪が、二度と私へ届かぬようにな」
「くそ……!」
ネルドは首輪から手を離し、立ち上がった。フェールトへ踏み込み、立て続けに爪を振るう。
だが、爪を振るうたびに首輪が肉へ食い込み、力も速さも削がれていく。
「魔力を封じるだけの輪だと思っていたか?」
「うるさい!」
フェールトは鈍った攻撃を、軽く躱し続けた。
「おい、よそ見してていいのか?」
「なんのことだ?」
「ネルド!!」
背後から聞こえたエレファの声に、ネルドは反射的に振り返った。
ルーシアの身体が宙へ持ち上がっている。
その細い首を締めているのはエレファの手だった。巨大な指が白い喉へ食い込み、ルーシアの足先が力なく揺れている。
「ぐ……あ……」
「何をしてる!」
エレファの顔は、自分の腕を見つめたまま苦痛に歪んでいた。
「わ……わからん……体が勝手に……」
「くそ!」
ネルドはフェールトへ背を向け、二人のもとへ駆け戻った。その足でエレファの手首を下から蹴り上げる。
ルーシアの身体が解放され、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
「ごほっ……ごほ……」
「大丈夫か、姫」
ルーシアは喉を押さえながら、かすれた声で答えた。
「え……えぇ……」
エレファの腕はまだ震えている。
「す、すまない……体が言うことを効かん……」
ネルドはルーシアの身体を支え、自分の背後へ移した。そして、フェールトを睨みつける。
「お前の仕業だな」
フェールトは肩を揺らして笑った。
「ははは! やっと気づいたか!」
フェールトの足元に黒い魔法陣が浮かび、首輪に刻まれた紋様が同じ色に光った。
「隷属魔法。貴様らの首輪にはこの魔法の刻印が付与されている。お前らを手玉に取ることなど容易い」
ネルドは自分の首輪へ爪をかけた。引きちぎろうと力を込めても、それは軋みもしない。
「くそ……」
「ごめんなさい……足手纏いに……」
「大丈夫だ、姫」
フェールトは楽しむように首を傾ける。
「何が大丈夫なんだ? ほら、ネルド。姫を守れるか?」
フェールトが指を曲げた。
一緒に高台を登ってきた十数人の獣人たちが、同時に身体を震わせる。白目を剥き、手にしたピッケルや鉄棒を引きずりながらルーシアを囲み始めた。
エレファも歯を食いしばったまま、その列へ加わる。
「くっ……」
正面から振り下ろされた鉄棒を、ネルドは腕で受けた。鈍い衝撃が骨まで響き、腕が下がったところへ鎚が頬を打つ。さらにピッケルが肩へ突き刺さる。
「ネルド!」
「だい……じょうぶ……だ……」
「大丈夫じゃないじゃない!」
ネルドの身体から、おびただしい量の血が流れていた。肩は裂け、肋骨が軋み、膝も笑っている。それでも倒れなかった。
振り返らず、両腕を広げて立ち塞がる。
ルーシアの目に涙が浮かぶ。
「もうやめて! フェールト! あなたは私を捕えるのが目的なんでしょう? 私が身代わりになるからもうやめて!」
フェールトは顎に手を当てた。
「それもいいな」
操られた獣人たちの動きが止まった。
ルーシアがフェールトのもとへ歩き出そうとするが、ネルドは血で滑る指を伸ばし、その腕を掴んだ。
「だめ……だ……」
「なんで……」
ネルドは血を吐きながら、それでも声を絞った。
「それじゃ、これまでと何も変わらん。これは尊厳と自由を取り戻す戦いなんだろ? 姫が犠牲になってどうする……」
「でも……」
フェールトは二人のやり取りを眺め、退屈そうに息を吐いた。
「ふむ。なかなか折れんな。なら、少し趣向を変えよう」
「何をするつもりだ……」
ネルドの背後で、悲鳴が上がった。
振り返ると、一人の獣人が隣にいた仲間の腹へピッケルを突き立てていた。血が雨に混ざって流れる。
「なっ!?」
「ははは! お前が悪いんだぞ、ネルド! お前が折れんなら仲間はどんどん死んでいくぞ!」
「待て! やめろ!」
ネルドが止めに入ろうと踏み出した。だが、その足が届くより早く、別の鎚が二人目の肩へ振り下ろされた。
「ぐぁあ!」
「や、やめろ……」
フェールトは雨の中で両手を広げる。
「さぁ、ネルド。大人しく降参するならやめてやる」
操られた獣人たちが、倒れた仲間へ武器を振り上げる。ルーシアは口元を押さえ、声にならない息を漏らした。
「選べ、仲間が死んでいくのを見届けてから捕まるか。仲間を救うために捕まるのか」
雨音が遠くなった。
「選ぶ……?」
その時、ネルドの体の奥で何かが切れる音がした。




