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昇陽の角

「選べ……だと?」


 同胞たちが血を流して倒れ、雨がその血を流していく。その向こうで、フェールトだけが濡れた眼鏡の奥に薄い笑みを残していた。


「お前らはいつもそうだ。一方的に理不尽を押し付けてきて、選択を迫ってくる……」


 ネルドの白い体毛が、ゆっくりと赤く染まり始めた。濡れていたはずの毛が逆立ち、膨れ上がった背筋に沿って色が広がっていった。


 爪が伸び、石畳を深く削る。乱れていた呼吸は、喉の奥で低い獣の唸りへと変わっていく。


「お前には……選択する余地すら残さない……」


 ルーシアが目を見開いた。


「あれは……」


 自分の腕を押さえていたエレファが、苦い顔で息を呑む。


「……まずいな」


 フェールトは、雨の中で目を細めた。


「おかしい……隷属魔法により魔力は封じてるはず。だが禍々しい何かを感じる。これがアサグ殿がこいつを生け捕りにするよう命じた訳か?」


 フェールトの口元から笑みが消える。


「油断は禁物だな」


 異変に気づいた衛兵たちが、石段を駆け上がって高台へなだれ込んできた。


 フェールトは指を動かした。

 獣人たちの首輪が一斉に明滅する。白目を剥いた獣人たちは武器を握り直し、ネルドへ向かって走り出した。


「やめて!!!!」


 ルーシアの叫びは届かなかった。


 鉄棒が振り下ろされるより早く、ネルドの爪が獣人の胸を切り裂いた。血飛沫が雨へ散り、獣人は呻きながら石畳へ倒れた。


「が……ぁ……」


 次の瞬間には、ネルドの姿がその場から消えていた。


 衛兵が一人、宙へ舞う。着地したネルドがさらに踏み込み、別の兵の鎧を爪で引き裂いた。骨が砕ける音と悲鳴が重なり、高台の中央へ血が広がっていく。


 獣人も、衛兵も関係ない。動く者すべてへ襲いかかり、倒れた者へも爪を振り上げる。


 フェールトは凄惨な光景を見て、小さく息を吐いた。


「……ほう」


 倒れた衛兵の喉元へ、ネルドの爪が振り下ろされる。その瞬間、胸元のネックレスが白く光り、熱を帯びた。


 爪の軌道が僅かに外れ、男の首の横で石畳を砕く。ネルドは自分の動きに気づかないまま唸り、次の獲物へ飛びかかった。


「……?」


 獣人の頭上から振り下ろされた爪も、また寸前で逸れた。肩を裂き、腕を折り、脚を砕く。それでも、致命傷には届かない。


 フェールトは眼鏡へ流れた雨も拭わず、その動きを追った。


「まさか……無意識で制御しているのか?」


 フェールトが指を鳴らし、足元から黒い魔法陣を広げた。


「ならば……あの状態のネルドは制御できるのか?」


 首輪の刻印が強く明滅し、突進していた身体が強引に引き止められる。


 だが、次の瞬間。


 獣の咆哮とともに首輪を手で引きちぎった。


 砕けた破片が雨の中へ飛び散る。


 フェールトの足元の陣が大きく揺らぎ、その顔から余裕が消えた。


「化け物め……」


 ネルドの赤く濁った瞳が、フェールトを捉える。


 フェールトは即座に周囲の獣人を操り、自分の前へ重ねるように立たせた。さらに、足元の魔法陣から衛兵の首へ隷属の鎖を伸ばし、盾として進路を塞ぐ。


 だが、ネルドは止まらない。前に出された身体を爪で弾き、悲鳴の中を一直線に突き進む。


「ネルド! もうやめろ!」


 エレファがその巨体でフェールトへの道を塞いだ。

 ネルドの爪が振り上げられる。


 ルーシアの喉から、震える声が漏れた。


「やめて……」


 ルーシアは震える膝へ力を込めた。


「私に……私に力があれば……」


 その時、ルーシアの体の奥から、何かが溢れた。


 エレファへ向けて振り下ろされたネルドの爪が弾かれた。


 透明な魔力の壁が、エレファの前に張られていた。ルーシアは両手を前に突き出し、震えながらも立っている。


 ネルドは唸り声を上げ、何度も結界を攻撃する。爪が叩きつけられるたび、結界の縁から光の粒が剥がれ、高台の空気が震えた。


 それでも、結界は崩れなかった。


「ひ、姫?」


 エレファが振り返る。ルーシアは答えず、ネルドへ向かってゆっくりと歩み寄る。


 結界の向こうで、ネルドが爪を振り上げる。ルーシアは結界を解き、その懐へ入った。


 ネルドのネックレスが白く光り、爪が頭上で止まった。


 ルーシアは赤く染まった巨体へ両腕を回し、包み込むように抱き締めた。


「鎮まりなさい、ネルド」


 雨に濡れた白髪が、ネルドの赤い毛並みに触れる。


「大丈夫よ、私がついてる」


 ルーシアは震えながらも、強く抱きしめた。


「あなたにもう、命は奪わせない」


 ネルドの荒い呼吸が静まっていく。振り上げられていた腕が、ゆっくりと下がる。赤く濁った瞳に光が戻り、毛並みも少しずつ本来の白へ変わっていった。


「……姫?」


 ネルドの掠れた声を聞き、ルーシアはようやく息を吐いた。


「ネルド……よかった……」


 ネルドは周囲を見回した。

 血を流して倒れる同胞と衛兵、砕けた石畳、足元に散った首輪の破片。そのすべてを見た顔が、恐怖と後悔に歪んでいく。


「これは……俺がやったのか? また……俺は……」


「ネルド!!!」


 ルーシアは彼の頬を両手で押し、顔を上げさせた。


「悔いるのは後! やるべきことをやってからよ!」


「し、しかし……」


「大丈夫……みんな息はあるわ」


「なに?」


 その言葉に応えるように、倒れていた獣人の一人が血を吐きながら身を起こした。別の者も折れた腕を抱えながら膝を立てた。


 エレファが腹を押さえ、苦しげに笑う。


「勝手に殺すなよ」


「お前ら……」


 ルーシアは胸元のネックレスを見た。


「三年前とは違うわ。きっと……彼女が守ってくれたの」


 ネルドはネックレスを握りしめる。


「フランが……」


 雨音の中、微かな温もりが指先に残っている気がした。

 ルーシアはフェールトを見据えた。


「まだ終わってないわよ。いま、戦えるのはあなただけ……」


 そして、ネルドを見た。


「任せていいわね?」


 ネルドは厚い雨雲を見上げた。陽はまだ見えない。それでもネックレスを握る手には、確かに温かさがあった。


 ネルドは息を吐き、覚悟を決めてフェールトを睨んだ。


「ああ。任せてくれ」


 フェールトは冷たい目でネルドを見た。


「舐められたものだ……あの暴走が何なのか気になるが……」


 眼鏡の奥で、目が鋭く光る。


「首輪を外したところで、その傷だらけの身体で何ができる!」


「そうだったか?」


「獣が……調子に乗るな! また奴隷として使ってやる!」


 二人が同時に踏み込んだ。


 フェールトの足元の黒い魔法陣から、隷属の鎖が幾重にも伸び、ネルドの四肢へ迫った。


「鉱装魔法……」


 ネルドは開いた爪を地面へ向けた。


 周囲に埋もれていた鉱石が、一斉に震えた。石畳の亀裂から白く輝く粒が湧き上がり、雨を弾きながらネルドの周囲へ集まる。


 鉱石は地を割り、雨を切り裂き、天へ向かって伸びていく。


 朝日のような白い光が、黒い鎖を押し返していく。


 ネルドの背後に、鹿の姿が一瞬だけ浮かんだ。優しい茶色の瞳と、胸元に揺れる和平の印。


「昇陽の角ッ!!」


 白く輝く鉱石がフェールトの足元を突き破った。獣の角を思わせる二本の尖端が、フェールトの身体を空へ向かって突き上げる。


「っぐぅぅあ!」


 背中から高台へ叩き落とされ、眼鏡が石畳を滑る。フェールトは一度だけ身を震わせ、そのまま動かなくなった。


 直後、無数の金属音が響いた。


 獣人たちの首輪が中央から割れ、次々と白い石畳へ落ちていく。三年間縛ってきた鉄輪の崩れる音が、雨の中にいくつも連なった。


 ネルドは息を切らしながら、消えていく白い鉱石の光を見上げた。


「フラン……心配かけたな……」


 富裕層最奥の屋敷。

 フェールトが気を失う少し前。


 カラカたちが三匹の魔獣と対峙していた。


 雨に濡れた巨大なカラスが上空を旋回し、三つの頭を持つ蛇が石畳を塞ぐ。その横では、白い鎧のような皮膚を持つサイが呻き声をあげている。


 三匹の奥で、マーランが杖を手に薄く笑っている。


 カラカは黒いナイフを構えていた。横にはレオン。背後では、ついてきた獣人たちと屋敷の衛兵が互いに武器を向け合っている。


 カラカは三匹の巨体を順に見て首を傾げた。


「んーーーーー。困ったな……」

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