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救いの炎

 獣人たちは寝床と鉱山の作業場を行き来し、武器になりそうなものを掻き集めていた。


 岩を割るピッケル、柄の欠けた鎚、錆びた鉄棒。どれも戦うために作られた道具ではないが、三年間この鉱山で振るい続けてきたものだけに、彼らの手にはよく馴染んでいた。


 支度を終えた者から雨の中へ出ていく。空になった寝床を振り返る者はいなかった。


 ルーシアはエレファの肩に座り、その列の後方から街へ向かった。顔色はまだ悪く、濡れた服の袖から覗く指には力が入りきっていない。


 それでも、その瞳だけはまっすぐ前を向いていた。


 検問に衛兵の姿はなかった。閉ざされているはずの柵も上げられ、詰所だけが不自然に空いている。


 百人近い獣人が泥を踏み締めるたび、赤茶色の水が低く跳ねた。鉱山を離れても誰一人声を上げなかった。




 市場には、まだ夕暮れの賑わいが残っていた。


 雨除けの天幕の下、店主たちは客と値段の話をしている。子供たちは親の袖を引き、屋台から漂う肉の匂いに目を輝かせていた。


 いつもと変わらない光景だった。

 その通りへ、武器を携えた獣人の列が姿を現すまでは。


「……あら?」


 最初に気づいたのは、果物の露店の前にいた女性だった。


「あれは……」


 女が後ずさったことで、隣にいた客も通りの奥を見た。視線が連なり、賑わっていた市場からは会話が消えていく。


「どうした?」


「獣……?」


「お、おい! あいつら武器持ってるぞ!」


 獣人たちは立ち止まらなかった。濡れた毛並みから水を滴らせ、ピッケルや鉄棒を担いだまま、まっすぐ白壁の方角へ歩いていく。


 誰かが喉を引きつらせて叫んだ。


「反乱だ! 獣人どもが反乱を起こした!」


 悲鳴が市場を駆け抜けた。


「逃げろ!」

「衛兵はどこだ!? 衛兵は何してる!」


 屋台が倒れ、籠が散らばる。

 子供たちが泣き叫び、親が抱え上げて路地へ駆け込んでいく。


 数秒で、市場は混乱した。


 逃げ惑う人々の中、獣人たちは無言で進んだ。


 列の先頭で、ネルドの足が止まった。


 視線の先、雨除けの天幕に色鮮やかな毛皮が吊られていた。その隣には、象牙と角と骨を磨いて作った装飾品が並ぶ。

 さらに奥から漂ってきたのは、強い香辛料と燻した肉の匂いだった。


 黒、灰、茶、まだら模様。


 丁寧に毛並みを整えられた外套が、商品として軒先を飾っている。


 バッファが、角で作られた杯を見つめた。


「……これ」


 隣でレオパルドが歯を食いしばる。


「……あぁ」


 レオンは装飾品の山へ近づき、一本の酒杯を手に取った。磨かれた角の根元を親指でなぞる。大きな手が震え始めた。


「……クソが」


 杯を握る指に力がこもる。


「……クソがあぁぁぁっ!!」


 酒杯が石畳へ叩きつけられ、砕けた破片が雨水を跳ね上げた。レオンはその勢いのまま屋台を蹴り倒す。干し肉も、毛皮も、骨の装飾品も、濁った水の中へばら撒かれた。


「てめぇら……てめぇら、何やってんだよ!」


 逃げ遅れた店主の襟を掴み、片腕で持ち上げる。男の喉の奥で潰れた悲鳴が鳴った。


「ひっ……!」


「答えろよ!!」


「レオン!」


 ルーシアはエレファの肩から降り、ふらつきながらも叫ぶ。


「ダメよ!」


 レオンの腕が止まった。

 ルーシアは乱れる呼吸を整え、一歩ずつ彼の前へ進んだ。


「……約束したでしょう」


 レオンは店主を掴んだまま、奥歯を噛みしめていた。その目には涙が浮かんでいる。


「でも……でも、姫……」


「わかってる」


 ルーシアの声も震えていた。


「わかってるから……お願い……」


 やがて、彼は静かに店主から手を離した。

 解放された店主は尻餅をつき、這うようにして路地へ逃げていった。レオンは追わず、その場に膝をついた。


 雨が、その背に降り注ぐ。


「……すいません……姫……」


 ルーシアも彼の前へ膝をつき、震える肩に手を置いた。


「いいの。……怒っていい」


 ルーシアの瞳にも、涙が浮かんでいた。


「私は、こんな世界を放っておいた王族の一人よ……本当に、ごめんなさい」


 レオンは濡れた顔を伏せたまま、首を横に振った。


「姫の……せいじゃ……ねぇです……」


「……行くぞ。泣いてる暇はねぇ」


 背後から届いたカラカの声に、ルーシアは顔を上げた。

 ネルドがレオンへ手を差し出す。


「行こう」


 レオンはその手を掴み、立ち上がった。


 ルーシアも立とうとしたが、身体が傾いた。すぐに伸びたエレファの腕が、地面へ倒れる前に支える。


「姫、あまり無理はなさるな。昨日の夜から寝ていないのだろう」


「えぇ、ありがとう。……正直、魔力も回復できてなくて……」


「大丈夫。姫の護衛は俺がする。姫はこの戦いに意味を与えてくれた。見届けてくれるだけでいい」


 そう言って、ルーシアを抱え上げ、再び肩の上に乗せた。


 獣人たちは、再び歩き出した。市場を抜けようとした時、路地の奥から震える声が上がった。


「お、おい……あれ……お、思い出した! ルーシア王女だ!!」


 雨の中、一人の男が震える指でルーシアを指さしていた。物陰に隠れていた市民たちが一斉に振り返る。


「王女?」

「まさか……獣を率いて、王国に反逆を……!?」


 白髪が頬に張りつく。ルーシアは拭おうともせず、自分へ集まる怯えと非難の視線を受け止めた。


 その瞳に、迷いはなかった。




 やがて市場を抜けると、富裕層の居住区を隔てる白壁が見えてきた。雨に濡れた壁は通りを端から端まで塞ぎ、その中央にある門も固く閉ざされている。


 エレファが低く呟いた。


「さて、あの壁をどうやって突破するか……」


「何か問題なの?」


「俺たちの首輪にはフェールトの魔法で刻印が施されていて……あの壁を無理に抜けようとすると、首輪から電流が流れるようになっていましてな」


 バッファが鉄の輪へ指をかけ、苛立たしげに引いた。


「厄介だな」


 レオパルドも首輪に触れる。


「この首輪のせいで魔法も使えねぇしな」


 その横で、カラカがゆっくりと前へ出た。


「……壁?」


 カラカは見上げるほどの高さがある壁を前に立ち、手をかざす。その手のひらに、蒼い炎が静かに灯った。


 次の瞬間。

 壁の全面が、蒼く包まれていた。


 燃え盛るまでもない。

 轟音もない。

 悲鳴のような軋みすらなかった。


 ただ、蒼い光が一瞬だけ広がった。


 そして。


 白壁は、灰になっていた。

 雨の中で、さらさらと崩れていく。


 カラカは灰の向こうを見ながら、肩をすくめた。


「壁なんか、どこにあるんだ?」


 誰もすぐには答えられなかった。


 ネルドは目を見開いていた。

 胸元のネックレスをゆっくりと握る。


「救いの……炎……」


 ルーシアは長い息を吐いた。呆れたような形を作ったはずの口元に、自然と笑みが浮かぶ。


「はぁ……これで私もあなたも立派な反乱者ね」


 カラカは振り返り、声を上げて笑った。


「はっはっ! 上等! 俺に逆らった国が反逆者だ!」


「えらい自信だな」


 ネルドの声にも、わずかな笑いが混じる。


「あぁ……最強だからな」


「ははっ。初めは変な奴だと思ったが。今は頼もしい限りだ」


 カラカはナイフの柄へ手をかけ、灰の向こうを指した。


「いくぞ!!」


「おおーー!!!」


 百の咆哮が、雨の街を揺らした。


 獣人たちは自分たちを隔てていた壁の灰を踏み越え、白い街へと進んだ。

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