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希望の聖戦

 寝床の戸が、勢いよく開いた。

 冷たい雨を浴びたネルドとカラカが、中へ入ってくる。


 小屋の中で待っていたルーシアたちが、一斉に顔を上げた。


 ネルドの瞳からは、迷いが消えていた。


「……ネルド?」


 エレファが、低く名を呼ぶと、ネルドは胸元のネックレスを握りしめた。


「待たせたな」


 その一言で、小屋の空気が変わった。

 バッファがゆっくりと立ち上がり、ネルドの肩に手を置いた。


「……ようやくか」


 レオパルドも、壁にもたれた身体を起こした。


「長かったぜ、本当に」


 エレファは何も言わず、深く頷き、ライオンの獣人、レオンが拳を握る。


 獣人たちが、一人、また一人と立ち上がっていく。


 雨に濡れた床板が軋む。


 傷を抱えた者。

 骨を抱いて泣いた者。

 子供を奪われ、家族を奪われ、それでも息を殺して耐えてきた者たちが、次々と立ち上がっていく。


 ただ一人。

 ルーシアだけが、まだ座っていた。


 獣人たちの視線が、自然と彼女に集まる。

 ネルドは静かに口を開いた。


「姫……言いたいことはわかる……だが、俺たちは戦う。同胞たちのためにも、フランのためにも」


 ルーシアは唇を噛んだ。


「……ダメ」


 その声は震えていた。


「お願い、もう一度考えて……」


 ネルドの背後に、カラカが立った。


「ルーシア。気持ちはわかる。でも他に道がないだろ?」


「それでも! 血を流す道なんて……」


「それは綺麗事だろ」


 カラカの声は冷たかった。

 獣人たちがルーシアを見つめる。


 ルーシアは目の前にいる者たちの顔を、一人ずつ見ると、深く息を吸った。

 それからゆっくりと顔を伏せ、膝の上で震えていた手を握りしめる。


 そして、再び顔を上げた時、その瞳から迷いは消えていた。


「わかってるわよ!!」


 ルーシアの声が、小屋の中に響いた。


「私が甘いっていうことも、綺麗事だってことも!」


 ルーシアは自分の手のひらを見つめた。


「それを実現する力がないことも……私が一番理解してる!」


 カラカが口を開きかける。


「だったら──」


 ルーシアはその言葉を遮った。


「でも! だからこそ!」


 青い瞳が、獣人たちを射抜く。


「理想に手を伸ばすの! 希望があるならそれを目指すの!」


 ネルドが呟く。


「姫……」


「この世界は何百年も……道を間違えてる。狂った歴史を繰り返してる……それを変えるの!」


 ルーシアは立ち上がった。

 身体は小さく、疲労で顔色も悪い。

 それでも、その声だけは誰よりも強かった。


「いま、ここからよ!」


 獣人たちの視線が集まる中、ルーシアは堂々と言い切った。


「あなたたちの煮え切らない想いは理解したつもりよ。だから私も折れるわ。あなたたちも協力しなさい」


 カラカはその言葉を聞きながら、口角を上げた。


 ルーシアは続ける。


「これはただの反乱じゃないわ」


 小屋の中が、静まり返る。


「誰も殺さない……それが足枷になろうとも。その一線を越えると、あなたたちも王国と同じになる!」


 獣人たちが拳を握る。

 怒りが消えたわけではない。

 憎しみがなくなったわけでもない。

 それでも、ルーシアの言葉は、その怒りに形を与えようとしていた。


「奪われた命と時間は戻ってこない。でも、尊厳と自由だけは必ず取り返す!」


 ルーシアは一歩前へ出た。


「いまからやるのは……聖戦よ!」


 その言葉が落ちた瞬間、ネルドの目が揺れた。ルーシアの背後に、誰かの影が見えた気がした。


 茶色の柔らかな毛並み。

 胸元に揺れる、小さなネックレス。


「フラン……?」


 雨音の中、懐かしい声が聞こえた気がした。


『耐えてたら必ず……陽は上がるから……救いの炎が現れるの……』


 ネルドはネックレスを握りしめた。

 胸の奥で、何かが静かに震える。


 周囲では、自然と獣人たちが膝をついていた。

 ただ、ルーシアの言葉の前に、彼らは膝をついていた。


 ルーシアの前に、バッファ、レオパルド、レオンが並ぶ。


 バッファが口を開いた。


「人間を許したわけじゃない……でも、なんでだろうな……あんたなら信じていい気がする……」


 レオパルドも静かに頷いた。


「ああ。フランの言ってた人間の心の善ってやつ。もう一度だけ信じてみてもいいかもな……」


 ルーシアは、その言葉に小さく微笑んだ。


 レオンは膝を地面につき、下を向いたまま言う。


「……さっきは失礼しました、姫」


 ルーシアは歩み寄り、レオンの肩に手を置いた。


「私は絶対に裏切らない。信じなさい」


 レオンはその言葉に、力強く顔を上げた。


「はい!」


 エレファが、ゆっくりと前に出ると、その大きな手で彼女を持ち上げた。


 ルーシアは驚いたように目を瞬かせる。

 エレファは、自分の肩に彼女を座らせた。


「行きましょう、姫。あなたとなら、変えられるかもしれない」


 ルーシアは雨音の向こうを見据え、力強く頷いた。


「えぇ、行きましょう!」


 カラカが笑った。


「ははっ! 聖戦か! いいな!」


 ネルドは胸元のネックレスを握りしめる。


「フラン……やっと時がきたみたいだ……」


 獣人たちは立ち上がった。

 もう、下を向く者は1人もいなかった。




 その頃、富裕層の執務室では、マーランは窓辺に立ち、雨の街を見下ろしていた。


 白い石畳を雨水が流れている。


 そこへ、フェールトが背後から声をかける。


「マーランさん」


「……どうした」


「アサグさんの読み通りに、獣人どもが動き出しました」


 マーランは表情を変えなかった。


「そうか」


「衛兵の配置は完了しています。検問も、すべて閉鎖済みです」


「よろしい」


 マーランの口元に、薄い笑みが浮かび、杖の先で窓枠を軽く叩いた。


「三年前のような無様な真似はせん。奴隷はまた補充すればいい」


 フェールトは静かに頷き、マーランの目が、さらに細くなる。


「今度こそ、完全に鎮める」




 その時、厚く垂れ込めた雨雲のさらに上では、遠い雷鳴が、響いていた。

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