最後の選択
小屋の中には、沈黙と雨音だけが残っていた。
エレファは、すべてを語り終えてからも、しばらく顔を上げなかった。
ルーシアも、カラカも、ただ黙って聞いていた。
この街にも、かつては笑いがあったこと。
ネルドとフランが、未来を約束していたこと。
そして、そのすべてが壊されたこと。
エレファは、ゆっくりと息を吐いた。
「俺たちはなんとか生き延びた。いや、生かされた」
太い指が、自分の首輪に触れる。
「衛兵たちに鎮圧されてからすぐに、魔力が練れないようにこの首輪を付けられた」
鉄の輪は、雨と汗と血で何度も錆びつきながら、それでも獣人たちの首を縛り続けている。
「ホノリウスが街を去ってからすぐにアサグが来た。それからは検問も厳しくなり、次第に飯も酷くなっていってな」
エレファは、外へと視線を向けた。
小屋の隙間から見えるのは、降り続く雨と、遠くに霞む鉱山だけだった。
「それから三年間、ネルドは仕事終わりに外で空を見上げてる。フランを殺したからか、罪のない人間に手をかけてしまったからなのか……」
ルーシアの唇が震えた。
「そんな……」
カラカは俯いたまま、腕を組んでいた。
「力……暴走……」
「どうした?」
カラカは隣にいるルーシアに顔を向けた。
「なぁ、ルーシア。ネルドの中にも……」
ルーシアは小さく頷く。
「えぇ。おそらくね」
それだけ聞くと、カラカは立ち上がった。
「どこへ行くんだ?」
エレファが尋ねると、カラカは扉へ向かいながら答えた。
「ちょっと説教してくる」
ルーシアは、その背中を見つめることしかできなかった。
外では、ネルドが一人で空を見上げていた。
雨に濡れた白い毛並み。
胸元で握りしめられたネックレス。
角と金槌と炎を模ったそれは、冷たい雨の中で小さく揺れている。
カラカはその背後で足を止めた。
「まだ、陽が上がるのを待ってんのか?」
ネルドは振り返らなかった。
「あぁ、耐えてたら必ず上がる。雨も止む。俺たちは……みんなで帰るんだ」
「みんなって誰のことだよ」
そこで、ネルドがゆっくりと振り返った。
「は?」
「聞いたぜ、お前の過去も。フランって言うやつのことも」
ネルドの表情が険しくなる。
「あいつら……」
カラカは言いにくそうに一度だけ視線を落とした。
「言いにくいけどよ。みんなで帰るって夢……無理だぞ」
ネルドの目が大きく開かれた。
「どういうことだ?」
カラカは真っ直ぐに告げた。
「お前らの仲間。子供達。全員……殺されてたよ」
ネルドの顔から血の気が引いた。
「なっ……ふざけるな! そんなわけがない!」
「本当だよ」
「嘘をつくな! 契約したんだ! 王国の情勢が落ち着くまで働けば──」
その言葉を遮るように、カラカがネルドの胸ぐらを掴んだ。
「いつまでも現実から目を逸らしてるんじゃねぇよ!」
ネルドの目が揺れる。
カラカは、さらに強く掴み上げた。
「お前も……気づいてるんだろ? あいつらがそんな契約守るわけねぇってことぐらい」
「それでも……」
「でももへったくれもねぇよ」
カラカの声が低くなる。
「お前が耐えることを選び続けた間に、助けられたかもしれない命まで消えたんだ!」
次の瞬間、ネルドの手がカラカの胸ぐらを掴み返した。
「でたらめを言うな! お前に何がわかる!」
ネルドの声が震えていた。
「恋人も、仲間も、同胞の子供たちも……何もかも失った俺の……」
ネルドの牙が軋む。
「何がわかるっていうんだよ!!」
カラカは静かに、短く答えた。
「わかるよ」
「だからなんで」
「俺は国を失った」
その瞬間ネルドの手がわずかに緩んだ。
「民も友人も家族も。一人残らず。数万の命を一晩で失った」
ネルドの瞳が揺れた。
「っな……!」
二人は、ほとんど同時に手を離した。
しばらく、雨音だけが響いた。
ネルドが掠れた声で尋ねる。
「お前、名前はなんて言ったか」
「カラカ・ルミアラニ」
ネルドは息を呑む。
「ルミアラニ……あの滅ぼされた夢の国の王族か」
「ああ」
カラカは雨の向こうにある鉱山を見ながら答えた。黒い煙が、灰色の空へ滲んでいる。
ネルドが低く呟いた。
「お前は、今何をしようとしてる」
カラカは、少しだけ口の端を上げた。
「そんなの……言わなくてもわかるだろ?」
その目には、迷いがなかった。
「陽を上げようとしてんだ」
ネルドはネックレスを握りしめた。
「そうか……強いな、お前は」
「お前はどうすんだ?」
ネルドは言葉を詰まらせた。
「俺は……」
その瞬間。
カラカの拳が、ネルドの頬を打った。
鈍い音が雨の中に響き、ネルドの巨体が地面へ倒れ込んだ。
「おい! いつまでも待ってんじゃねえよ!」
カラカは倒れたネルドの胸ぐらを掴み上げた。
「陽は自分たちであげるもんだ!」
カラカは吠えるように続けた。
「掴みたい未来は自分で手に取りやがれ! 待ってても誰も助けちゃくれねぇぞ!」
カラカは手を離した。
ネルドの身体が泥の上に落ちる。
カラカはそのまま、見下ろしながら言った。
「ネルド……お前は二度、選択を誤った」
雨音が強くなる。
「これが三度目、おそらく最後だ」
ネルドは地面に手をつき、ゆっくりと顔を上げると、カラカの声が低く落ちた。
「選べ」
ネルドはネックレスを握ると、フランの声が蘇った。
『耐えてたら必ず陽は上がる。救いの炎が現れるの』
ネルドはかすれた声で尋ねた。
「お前なら……お前ならどうする?」
カラカは迷わず答えた。
「俺なら……全部取りに行く」
ネルドの指に力が入り、ネックレスが掌の中で軋む。
ネルドがゆっくりと立ち上がると、その瞳から、迷いは消えていた。
「もう耐える理由はないか……」
ネルドは雨の空を見上げた。
「俺たちの陽は……俺たちで上げる」
その声には、三年分の重みがあった。
「せめてあいつらも道連れにな」
カラカは口の端を歪めた。
「あぁ、行こうぜ」




