美徳の力
雨が、地面を叩いていた。
誰も動かなかった。
ただ、焦げた匂いだけが静かに広がっていく。
ネルドの腕の中へ、崩れるようにフランの身体が倒れ込んだ。
「……おい」
ホノリウスの声が、低く落ちた。
周囲の空気が凍りつく。
ホノリウスは、倒れたフランとネルドを見下ろしていた。気怠げだった顔から、さっきまでの薄い退屈が消えている。
「誰が解放しろっつった」
衛兵の一人が青ざめた顔で膝をつく。
「も、申し訳──」
「クソが……めんどくせぇことになりやがったぜ」
ネルドの耳にはその声は届かず、腕の中のフランだけを見ていた。
「……フ、フラン?」
フランの瞼が、かすかに震えた。
「ネルド……大丈夫……大丈夫だよ……」
「フラン! 喋るな! 喋らなくていい! すぐに治療を!」
フランは小さく首を横に振った。
「ううん。自分の最後ぐらいはわかる……」
「そんなこと言うな!」
「私の故郷にはね……言い伝えがあるの……」
「そんなこと今はいい! とにかく早く止血を!」
ネルドの声は震えていた。
フランは震えた手を自分の首元へ伸ばし、胸元にかかっていたネックレスをそっと外した。
角と金槌が交差し、その中心に炎を模った装飾。
その瞬間、ホノリウスの目がわずかに動いた。
「ん?」
フランはネックレスを握りしめ、途切れそうな声で続ける。
「耐えてたら必ず……陽は上がるから……救いの炎が現れるの……」
「なんだよそれ……」
ネルドの目から、涙がこぼれた。
雨と混ざって、頬を伝う。
フランは弱く微笑んだ。
「あなたとの約束……守れなくてごめんね?」
「いい……そんなこと……俺のほうこそ……君を守れなくて……」
「あなたと過ごした時は……私にとって……」
フランの声が、そこで細くなった。
「フラン……?」
ネルドは目を見開く。
「おい、嘘だよな……フラン? フラン!」
腕の中の身体から、力が抜けていく。
「いつもみたいに返事……してくれよ……」
雨が降り続く中、フランはもう答えなかった。
ネルドは震える手で、フランの手からネックレスを受け取った。
それを自分の首にかける。
そして、強く握りしめた。
その瞬間。
ネルドの中に、何かが流れ込んできた。
温かく、柔らかく、しかし焼けるほど痛い何か。
フランの声。
フランの笑顔。
一緒にベルナーレへ行こうと約束した日の温もり。
そのすべてが、胸の奥へ流れ込んでくる。
その時、ネルドの体の奥で何かが切れる音がした。
ネルドの白い体毛が、ゆっくりと赤く染まり始めた。雨に濡れた毛先から、血のような色が広がっていく。
その光景を見ていたホノリウスは目を細めた。
「面白い場面に出くわしたな。助かったぜ」
ネルドから禍々しい気配が、雨の中に膨れ上がる。
肩が大きく上下に動き、鼻息が荒くなる。開いた口から、だらりと涎が落ちた。
それでもネルドは気にしなかった。
赤く濁った瞳が、眼前の獲物を捉えていた。
その姿はまさに猛獣だった。
ホノリウスは興味深そうに呟いた。
「おー、えらい変わりようだ。これが美徳の力ってやつか?」
ホノリウスとは違い、周りの衛兵たちは震えながら後ずさった。
「し、将軍……これは……!」
次の瞬間。
ネルドの姿が消えた。
ネルドの腕が、一人の衛兵を鎧ごと地面へ叩き潰した。
鎧がひしゃげ、血飛沫が雨に混ざった。
「ひっ」
別の衛兵が悲鳴を上げる。
だが、ネルドは止まらない。
獣のような唸り声を上げながら、次々と衛兵へ襲いかかる。
無造作に振るわれた爪が、鎧ごと肉を裂いた。
剣を構える暇も、逃げる暇もない。
赤い影が雨の中を跳ね、地面に血が広がっていく。
ネルドはそのまま街へ飛び出した。
ホノリウスは、その光景を見て息を吐いた。
「……あーあ。完全に暴走しやがった」
市場では、雨を避けながら営業していた商人たちが、突然の轟音に振り返った。
次の瞬間、屋台が吹き飛んだ。
木片が散り、果物が泥の上を転がり、悲鳴が上がった。
ネルドは目につく者へ襲いかかっていく。
男も。
女も。
逃げ惑う子供すら。
もう敵味方の区別はなかった。
「おい!! ネルド!!」
血を吐きながら、レオパルドがふらつく足で叫んだ。
腹には、ホノリウスに斬られた深い傷がある。片手で傷口を押さえながら、それでも必死に声を張り上げる。
「やめろ!! 何やってんだお前!!」
バッファも、片腕を押さえながら叫んだ。
折れているのか、腕は不自然に垂れている。
「戻れ!! しっかりしろ!!」
額から血を流しながら、エレファが壁へ手をついて叫ぶ。
だが、ネルドは反応しなかった。
赤く染まった瞳は、ただ次の獲物を探している。
ホノリウスはゆっくりと歩きながら、暴れ回るネルドを見上げた。
「力に喰われる奴はめんどうだ」
ネルドが咆哮を上げ、地面を蹴る。
ホノリウスは面倒臭そうに肩を落とした。
「しゃーねぇ」
ホノリウスが手を空へ掲げると、無数の雨粒が頭上へ吸い寄せられ、一本の鋭い槍が形成されていく。
ネルドの爪が、ホノリウスへ振り下ろされる。
その直前。
「鎮め……」
ホノリウスの声とともに、雨の槍がネルドの胸を貫いた。
勢いを失った身体が、ホノリウスの目前で崩れ落ちた。赤く染まった毛並みが泥に沈み、爪が力なく地面を引っかいた。
ネルドを貫いた雨は、何事もなかったように、再び街へ降り注いだ。




