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決起の咆哮

 フランが連れて行かれて数日が過ぎていた。


 ネルドは仕事終わりに、いつもの場所に1人で座っていた。だが、かつて隣にあった温もりはそこにはなく、湯気の立つルイボスティーもない。


 雨音だけが静かに響き、ネルドはただ膝の上で拳を握りしめていた。


 そこに、エレファがゆっくりと近づき、隣に腰を下ろした。


「大丈夫だ。そのうち戻ってくる」


「……そのうちって、いつだ」


 エレファは何も言えなかった。


「1人で連れて行かれて……何をさせられてるのかわかったものじゃない……」


 バッファとレオパルドもネルドの前に立った。

 バッファがネルドの肩に手を置く。


「まあ、殺されはしねぇだろ」


 レオパルドも続ける。


「むしろ俺らよりマシな暮らしかもな」


 ネルドは二人を睨んだ。


「……そういう問題じゃないだろ」


 レオパルドはばつが悪そうに視線を逸らした。


「俺らに当たるなよ。フランがいつも言ってたじゃねえか」


 バッファが低く呟く。


「この残酷さもいつか終わる。人間の心の善を信じましょうってな」


 そこで、彼の声が少しだけ沈んだ。


「ただ……俺らもそろそろ限界だ。お前が動くなら……」




 その時、雨の中から衛兵が近づいてきた。

 濡れた外套を乱暴に払いながら、寝床の前で声を張り上げた。


「マーラン様よりお達しがある。速やかに広場に集まれ!」


 ネルドはゆっくりと立ち上がった。


「次はなんだ……」




 鉱山の広場に、獣人たちが集められた。

 その背は、何度も裂かれ、雨と血で濡れている。


 痩せ細った身体。震える足。

 立っているだけで精一杯の者もいた。


 もう、誰が倒れてもおかしくなかった。


 広場の前方には、マーランとフェールトが立っていた。


 マーランは杖に手を添え、いつものように薄い笑みを浮かべている。フェールトは書類の束を抱え、無表情に獣人たちを見渡していた。


 そして、マーランが口を開く。


「諸君に通達がある」


 広場が静まり返り、雨音だけが間を埋める。


「王国は現在、魔王軍との戦時体制下にある。それに伴い、アパルトヘイムの運営方針も変更される」


 フェールトが書類を開いた。


「王国の戦時財政が安定するまで、獣人労働者の契約満了、退去、賃金精算を凍結する」


 獣人たちがざわめいた。


「……は?」

「凍結……?」


 フェールトは構わず続ける。


「労働契約は自動延長。期間は未定」


 マーランが杖の先で地面を軽く叩いた。


「諸君らには、引き続き王国のため尽力してもらう」


 ネルドの喉から、低い声が漏れた。


「……ふざけるな」


 マーランは続ける。


「なお、未払い賃金については王国側で管理する。戦時財政安定後、順次精算予定だ」


 ネルドの拳が震えた。

 爪が掌に食い込み、血が滲む。


「じゃあ……俺たちは……いつまで働けばいい……?」


 マーランは感情のない声で答えた。


「王国が安定するまでだ」


「そんな曖昧な話があるか!!」


 フェールトが書類から目を上げる。


「無断退去は逃亡と見なし、処罰対象とする」


 その瞬間、ネルドの脳裏にフランの声が蘇った。


『ベルナーレに戻りたいな』

『絶対一緒に行こうね!』


 ネルドは一歩前に出た。


「おい! フランはどうした!」


 広場の空気が張り詰め、マーランの目がわずかに細くなった。


「なんで戻ってこない! 何をさせてるんだ!」


 マーランは静かに答えた。


「現在、別区画にて労働環境調整中だ」


「フランに会わせろ!」


「却下だ」


 マーランは杖を突き直し、冷淡に続けた。


「繰り返すが、現在は戦時体制下だ。逆らえば、逃亡及び反逆行為と見なす」


 フェールトも淡々と告げる。


「処罰対象となるので、軽率な行動は控えるように」


 ネルドは歯を食いしばった。


「ふざけるな……なんで……なんで俺たちがこんな目に遭わないといけないんだ!」


 雨が頬を濡らした。

 それが雨なのか、別の何かなのか、自分でも分からなかった。


「これまでに何人の同胞が倒れたと思ってる!

 それでも……それでも耐えてきた俺たちから……まだ奪うのか!」


 マーランは一同を見渡し、短く告げる。


「勘違いするな。君たちの代わりなどいくらでもいる」


「以上だ」


 それだけだった。


 マーランたちは、衛兵を引き連れて足早に広場を後にした。


 残された獣人たちの間には、重苦しい沈黙だけが広がった。


 誰も声を出せなかった。


 怒りも、悲しみも、絶望も、すべてが喉の奥で固まっている。


 ネルドは俯いたまま、小さく呟いた。


「終わりだな……」


 その声を、雨音だけが掻き消していた。




 その頃。


 富裕層の屋敷の裏手。


 人気のない石造りの倉庫。その片隅で、フランは静かに膝を抱えていた。


 窓はなく、湿った空気だけが淀んでいる。


 外の雨音も遠い。


 灯りは壁に掛けられた小さなランプだけだった。薄い光が、冷たい石床の上に弱く落ちている。


 フランは胸元のネックレスを握りしめていた。


 角と金槌。

 そして、炎。


 震える指で、それを包み込む。


「ネルド……耐えてね……」


 小さな声は、倉庫の壁に吸い込まれて消えた。




 富裕層区域の屋敷では、ホノリウスがソファに深く腰を沈めていた。


 片手には酒瓶。

 足元には脱ぎ捨てられた外套。

 窓の外では、相変わらず雨が降っている。


 机の上には、フェールトから提出された管理書類が置かれていた。


 ホノリウスはそれを退屈そうに眺めていた。


「……あーあ」


 酒瓶を揺らしながら、面倒臭そうに頭を掻いた。


「悪手だろこれ」


 書類には、契約凍結、退去禁止、賃金精算延期、労働継続の文字が並んでいる。


「めんどくせぇことにならねぇといいけどよ」


 それ以上読む気も失せたように、書類を机へ放った。




 寝床に戻った獣人たちは、ネルドを中心に立っていた。


 誰も座らない。

 誰も器を手に取らない。


 疲労困憊の身体で、それでも全員の目に怒りが宿っている。


 ネルドはゆっくりと顔を上げた。


「もう、限界だろ……」


 エレファが、深く頷いた。


「ああ……俺には守る家族がいる」


 レオパルドは濡れた前髪を掻き上げ、苦い顔で息を吐いた。


「俺は死ぬのは怖い……でもこのまま生きる方がもっと怖ぇ」


 バッファは鼻を鳴らし、ネルドの肩を強く叩いた。


「やっとかよ……とっくに覚悟は決まってるぜ」


 ネルドは拳を握り締めた。


 今まで押し殺してきたもの。

 飲み込んできた言葉。

 耐えてきた痛み。

 フランと交わした未来。


 すべてが、胸の奥で燃えていた。


「自由を勝ち取るためなら死も怖くねえ」


 ネルドの声が、雨音を裂いた。


「……行くぞ」


 獣人たちが、一斉に吠えた。


「おお!」


 その声は、怒りであり、悲鳴であり、祈りだった。


 獣たちは、自らの足につけられた鎖を断ち切るために咆哮を上げた。

 尊厳を奪い返すために上げたその咆哮は、雨音と共に鉱山に響き渡った。

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