選別の雨
アパルトヘイムの市場は、昼を過ぎても賑わっていた。露店に客が群がり、香辛料の匂いと値切りの声に満ちている。
その喧騒に、雨の音が混ざり始めた。
林檎を手に取ろうとした男の手に、冷たい雫が落ちる。
男は眉をひそめ、空を見上げた。
「おいおい、なんだこの雨」
雨脚は次第に強まり、赤茶色の大地をゆっくりと泥へ変えていく。
市場の商人たちは慌ただしく商品を片付け始めた。
「……さっきまで、あんなに晴れてたのにな」
その頃、獣人たちは鉱山の広場に集められていた。
広場の奥にはマーランとフェールトが立ち、その背後には衛兵たちが控えている。
ネルドは眉間に皺を寄せ、低く呟いた。
「次は何をするつもりだ……?」
隣に立つエレファが、雨に濡れた顔をしかめる。
「さぁ……ただ、いい予感はしないな」
その時、広場の端から一人の男がだるそうに歩いてきた。
長い金髪は雨に濡れ、頬や首筋へ張り付いている。濃紺の軍服を肩に羽織り、皺だらけの白いシャツを覗かせていた。
勲章も付いていなければ威厳もない。
それでも、彼が近づくにつれて、衛兵たちの背筋が自然と伸びていく。
ネルドはその姿に目を細めた。
「誰だ……」
その隣で、フランの手が胸元のネックレスを掴んだ。その手は小さく震えている。
「フラン? どうした?」
フランは青ざめた顔で首を横に振った。
「ううん、大丈夫」
「本当か? あの男を知ってるのか?」
フランは雨の向こうから歩いてくる男を見つめたまま、小さく頷いた。
「うん……見るのは初めてだけど……あの人はホノリウス・アウグスト」
エレファが息を呑む。
「王国が誇る三大将軍の一人か」
ネルドの目がさらに鋭くなる。
「いい噂は聞かないが……こんなところは何しにきたんだ……」
ホノリウスは獣人たちの前で足を止め、面倒臭そうに首を鳴らす。
「あぁ……別に危害は加えねぇから安心しろ。すぐ済むからそのまま立っとけ」
そう言って、ホノリウスは獣人たちの列へ歩き出した。
一人ずつ、顔を見て回る。
その視線は何かを探しているようでいて、同時に興味を失っているようにも見えた。
ネルドは警戒を強める。
「何がしたいんだ?」
やがて、フランの前で足を止めた。
ホノリウスは気怠げな目で彼女を見下ろした。
「お前だな……」
フランは震えを隠すように、ネックレスを握ったまま顔を上げた。
「わ、私に何か用でしょうか」
「お前もわかってるだろ」
「何のことでしょうか」
ホノリウスは小さく舌打ちした。
「はぐらかすなよ、めんどくせぇ。お前さ、王国に来る気はないか?」
フランの瞳が揺れる。
「私が王国に?」
「あぁ。客人として迎え入れよう。こんな泥臭い鉱山よりいいだろ?」
広場にざわめきが広がる。
「獣人を王国の客人として?」
「どういうことだ?」
だが、フランは小さく首を横に振り、震える声で答えた。
「も、申し訳ございません……お断りさせていただきます」
その言葉にホノリウスは一切表情を変えなかった。
「あぁ、そう。ならいいや」
あまりにもあっさりとした返答だった。
その背後に控えていた衛兵が、思わず口を挟んだ。
「よろしいのですか?」
「あぁ、断る理由に興味はねぇし、説得するのもめんどくせぇ。ダメでしたって報告しとけ」
「ですが──」
「うるせぇな」
ホノリウスの声が、少しだけ低くなる。
「俺がいいって言ったらいいんだよ。殺されてぇのか?」
次の瞬間。
鈍い音が響いた。
衛兵の身体が、糸を切られたように崩れ落ちる。
誰も、ホノリウスが剣を抜いたことに気づかなかった。
「……がっ……」
衛兵は地面に倒れ、泥の上でかすかに痙攣した。雨が血を薄め、赤黒い筋を作っていく。
ホノリウスは面倒臭そうに剣を振り、血を払った。
「あぁ、悪い。静かにさせるつもりだったんだが……もう殺してたな」
獣人たちがざわつき、衛兵たちでさえ顔を青ざめさせていた。
ホノリウスはゆっくりと獣人たちへ向き直った。
「まぁ、この通りだ。逆らうやつは誰でも殺すから。死にたくねぇなら、死ぬ気で働けよ」
それだけ言って、歩き出そうとした時、フランが声をあげた。
「な、なんで……」
「あぁ?」
ホノリウスが面倒臭そうに振り返る。
フランは震えながらも、目を逸らさなかった。
「なんでそんなことができるんですか……一つ一つの命が希望なのに……」
「希望?」
ホノリウスの目が、初めて少しだけ動いた。
「お前、名前は?」
「アネリーゼ・フランです」
ホノリウスはしばらく黙っていた。
雨音が広場を満たす。
やがて、彼は気怠げに言った。
「フラン、この世界に希望はあるか?」
フランは迷わなかった。
「あります」
その答えを聞いて、ホノリウスは小さく息を吐いた。
「だとしたらお前はわかってない。歴史の勉強をしてこい」
それだけ言い残し、ホノリウスは背を向けた。
そして、マーランの耳元へ歩み寄る。
濡れた金髪の隙間から、低い声が落ちた。
「あの鹿は何があっても殺すな。お前の命に変えてもな」
マーランの顔がわずかに引きつる。
「か、かしこまりました……」
ホノリウスはもう興味を失ったように歩き出した。
王国軍の兵たちが、その後に続く。
鉱山の広場には、雨と血と、言葉を失った獣人たちだけが残されていた。
その後。
執務室で、マーランとフェールトは向かい合っていた。窓の外では、雨が降り続いている。
先に口を開いたのは、フェールトだった。
「マーランさん。あの将軍がここに何の用が? あのメスの鹿がなんだっていうんでしょうか」
マーランは椅子に腰掛け、杖を膝の上に置いていた。
「さぁ、分からん。たかが獣一匹、なんだというのだ」
フェールトは眼鏡の奥の目を細める。
「面倒ですね」
「あぁ。困った」
マーランは杖の先で、机を軽く叩いた。
「王国本部からの命令は?」
「……生産性を、上げろと」
「そうだ。締め付けは、緩められん。むしろ、もっと強化せねばならん」
「しかし、それでは」
マーランがフェールトの言葉を引き取る。
「あの鹿は、いつ死んでもおかしくない」
フェールトが静かに口を開いた。
「……一つ、案があります」
「言ってみろ」
「あのメス鹿を、富裕層エリアに移しましょう。建設はまだ途中ですが、すでに居住可能な区画はあります。あそこなら、鉱山の労働からは切り離せる。……死なせずに、生かしておける」
マーランは考え込む。
「名目は?」
「家政の補助あたりが妥当でしょう。メスの獣人を一人、富裕層の使用人として雇い入れる。不自然ではありません」
「他の獣人は?」
「従来通り、いえ、それ以上に締め付けます。あの一頭だけが特別だと、表向きは見せないように」
マーランはしばらく杖の先を見つめていた。
やがて、薄く笑う。
「……それしかないか」
「はい」
「明日、あの鹿を呼び出せ。話は、私が直接する」
フェールトは静かに頭を下げた。
翌朝。
マーランの執務室に、フランは呼び出されていた。部屋の中には紙とインクの匂いが満ちている。
フランは胸元のネックレスを握りしめたまま、部屋の中央に立っている。
マーランは机の向こう側で、淡々と告げた。
「メスに鉱山の仕事はきついだろう。新しく街にできた富裕層での仕事をあてがうから、そっちに移動してくれ」
フランは顔を上げる。
「……私だけ、ですか?」
「とりあえず試しだ。後から他のメスや老人、子供たちもそっちに移動してもらう」
その言葉に、フランの瞳がわずかに揺れた。
「……わかりました」
マーランは満足げに頷いた。
その日以降、フランが鉱山に戻ることはなかった。




