憂鬱の雨
フランたちがアパルトヘイムへ来て一年。
マーランたちの着任から、半年が過ぎていた。
アパルトヘイムの空気は、この一年で確実に変わっていた。
怒号が鉱山に響き、岩を削る音よりも鞭の音が耳に残る。夜に聞こえていた笑い声も途絶え、獣人たちの顔からは生気が失われつつあった。
かつて、鎮まりの街と呼ばれた場所。
その街は今、静かに歪み始めていた。
寝床の片隅でネルドは天井を見上げていた。
その横でフランが膝を抱えている。
「……もう、限界だ」
「ネルド……」
ネルドは膝の上で拳を握り締めていた。
「同胞が、何人倒れたと思う? 子供まで鞭で打たれて……俺たちは、なんでこんな目に遭ってまでここで働かないとならない!」
握りしめた拳が震え、爪が掌に食い込む。
「あいつら全員殺してでも……」
「ネルド! ダメよ!」
フランの声が、鋭く響いた。
ネルドは息を呑み、フランへ視線を向けた。
「フラン……君もボロボロじゃないか……」
フランの頬は痩せ細り、毛並みには艶が全く感じられない。手首には包帯が巻かれ、指先には細かな傷がいくつも残っていた。
それでも、フランは首を横に振った。
「ダメ。耐えるのよ」
「なんで──」
「ネルド、早まるな」
言いかけたネルドを、低い声が止めた。
ゾウの獣人、エレファだった。
彼も疲れ切っていた。大きな体は以前より痩せ、目の下には濃い影が落ちている。
ネルドは立ち上がり、エレファに詰め寄った。
「このままだと死人が出るぞ!」
エレファは苦い顔をしたまま、静かにネルドの肩を叩く。
「噂で聞いた話だが、王国は魔王軍との戦に向けて資金が必要らしい。今だけだ。そのうち前みたいに戻れる」
「そんなこと俺たちに関係──」
「あるよ」
次に遮ったのはフランだった。
「フラン?」
フランは胸元のネックレスを握りながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私は魔王軍が完全に悪だとは思わない。でも……私たちが人間に生かされてきた歴史は事実でしょう」
ネルドは何も言えなかった。
フランは弱く、だが優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。この残酷さもいつか終わるわ。人間の心の善を信じましょう」
ネルドは震える拳をゆっくりとほどいた。
だが、その目から怒りの色は消えていない。
「あぁ……わかった」
その時だった。
外から、鈍い地響きが響いた。
寝床がわずかに揺れ、積まれていた器が音を鳴らす。
エレファは眉を寄せた。
「……なんだ?」
ネルドはすぐに外へ出た。
空には、いつの間にか灰色の雲が広がっていた。
ついさっきまで乾いていたはずの空から、冷たい雨が落ちてくる。
「……雨?」
ネルドは空を見上げた。
その雨は、何かの始まりを告げるように、赤茶色の大地を静かに濡らしていた。
街の入口では、雨の中マーランとフェールトが並んで立っていた。
そこへ、王国軍の旗がゆっくりと近づいてくる。
鎧の擦れる音。
馬の蹄。
規則正しい行軍。
やがて先頭の軍馬が止まり、馬上の男が面倒臭そうに頭を掻いていた。
長い金髪を無造作に垂らし、肩を超えるその髪はろくに手入れもされていない。
色白の肌に、痩せ細った長身。
口元には無精髭。
濃紺の王国軍の軍服を肩に羽織っているものの、中の白いシャツは皺だらけだった。
男は雨に濡れた前髪を鬱陶しそうに払い、気怠げに呟いた。
「はぁ……何で俺が王国を離れてこんなことまで来ねぇといけねぇんだ。あの2人が急に辞めるからだろ……」
それから、深くため息をつく。
「ったく。めんどくせぇ」
マーランが一歩前に出て、深く頭を下げた。
「お待ちしておりました。ホノリウス将軍」
「お前は?」
マーランとフェールトは揃って敬礼した。
「この街の管理を任されております、ダニエル・マーランと申します」
続いて、隣の男を示す。
「こちらは、ヘンドリック・フェールト。以後、お見知り置きを」
ホノリウスは気の抜けた声で返した。
「あぁ……」
マーランは丁寧な笑みを浮かべる。
「長旅大変でしたでしょう。どうぞ、宿を準備しております」
だが、ホノリウスは馬から降りる気配もなく、首を横へ傾けた。
「いや……後でいい。だるいから先に用事を済ませる」
マーランの眉がわずかに動く。
「用事……とは? ただの視察と聞いておりますが」
「あぁ、視察だよ」
ホノリウスは雨空を見上げ、気怠そうに続けた。
「獣どもを1箇所に集めておけ。えーっと、お前名前なんだっけ」
「……マーランと申します」
「よし、マーラン。早く行け」
短い命令だったが、マーランは深く頭を下げた。
「かしこまりました」
マーランは足早に鉱山の方へ向かい、フェールトもすぐにその後を追った。
残されたホノリウスは、馬上でぼんやりと空を見上げていた。
「鬱陶しい雨だな……憂鬱だぜ……」




