約束の夕陽
フランたちがアパルトヘイムへ来てから、数週間が経っていた。
ネルドとフランは、よく二人でいるようになっていた。
鉱山の昼休み。寝床の前。市場からの帰り道でも。
最初は、ただ隣にいるだけだった。
それがいつの間にか、誰かがネルドを探せば、自然とフランの姿も一緒に見つかるようになっていた。
その日も、仕事終わりの夕暮れの中、二人は寝床の外に並んで座っていた。
遠くの赤茶色の大地が陽を受けて輝いている。風に乗って、炊事場から香草と肉の匂いが流れてきた。
フランは膝の上で手を重ね、静かに呟いた。
「ねぇ、ネルド、ここも悪くないところね。少し窮屈だけど……みんな優しい。あと、あなたもいる」
ネルドは少し照れたように視線を逸らした。
「あぁ」
短く答え、空を見上げた。
いつもの空。
その隣に、フランがいる。
それだけで、ネルドの胸は静かに満たされていた。
しばらくして、ネルドが口を開いた。
「……フラン、君はどこから来たんだ?」
「ベルナーレってところよ」
「ベルナーレ……あの壁の街か。ずいぶん遠くから来たんだな」
「えぇ……」
フランの声が、少しだけ沈み、胸元のネックレスにそっと触れた。
「そのネックレス……」
「これ?」
フランは小さく首を傾げ、ネックレスをネルドに向けた。
角と金槌が交差し、その中心には炎を模った装飾がある。古びてはいたが、大切に磨かれているのが分かった。
「これはね、ベルナーレに伝わる和平の印なんだって」
「和平?」
「そう。昔、ベルナーレでドワーフたちと獣人族の争いがあったらしいんだけど、救いの炎が仲裁したんだって」
「へぇ……」
ネルドは真面目に頷いたつもりだった。
しかし、フランはすぐに頬を膨らませる。
「興味ないでしょ!」
「ははっ、そんなことないさ」
「本当にー?」
「あぁ」
ネルドが頷くと、フランは少しだけ笑った。
しかし、その笑みはすぐに薄くなった。
「ここもいいとこだけど……ベルナーレに戻りたいな」
その声は、風に紛れて消えてしまいそうなほどに小さかった。
「……行こう」
その声にフランが顔を上げた。
「えっ?」
「一緒に行こう、ベルナーレに。今すぐは無理だが、1年ぐらい働けば二人分の路銀は貯めれる。そしたら……」
言い終える前に、フランの瞳から涙がこぼれた。
「いや……か……?」
フランは首を横に振った。
「ううん……ちがう……嬉しくて……」
次の瞬間、フランがネルドに抱きついた。
ネルドの身体が一瞬固まった。
だが、優しくフランを抱き返した。
「絶対一緒に行こうね! 紹介したい人もいるの!」
ネルドはフランの背中に手を回し、優しく呟いた。
「あぁ、必ず行こう」
その約束は、夕陽の中で静かに結ばれた。
それからも、ネルドとフランは、しばしば寝床の外で並んで座っていた。
フランはネルドの肩にそっと頭を預ける。
二人の間には、湯気の立つルイボスティーが二杯。
仕事のこと。
故郷のこと。
まだ見ぬ未来のこと。
言葉は少しずつ増えていった。
時に笑い、時に黙り、時に手を握る。
ネルドは仕事の合間、自然とフランを目で探すようになっていた。
フランも少しずつ、仲間たちと笑い合うようになっていった。
エレファは、二人を見るたびに満足そうに頷いた。
「お似合いだな」
その言葉を聞くたび、バッファレオパルドは揶揄うように口笛を吹き、酒を煽った。
ネルドは困ったように目を逸らし、フランは頬を赤くして俯く。
幸せが、当たり前のように、そこにあった。
街は変わらず、鎮まっていた。
だが、半年後──
街に二人の男が来た。
一人は、白髪に痩せた老人。
杖を突き、痩せた肩に厚いマントを羽織っている。身体は枯れ枝のように細い。
もう一人は、四十がらみの大柄な男。
眼鏡の奥の目が、街の地形を測るように動いている。手には、分厚い書類の束が抱えられていた。
二人は、鉱山の広場に獣人たちを集めさせた。
老人が一歩前に出る。
「私は、ダニエル・マーラン。国王陛下より、この街の財政再建を任された」
大柄な男も続く。
「ヘンドリック・フェールト。街の管理体制を見直す」
獣人たちは互いに顔を見合わせた。
マーランはそれを見て、薄く笑う。
「今日からこの街は、我々の管理下に置かれる。諸君らは、いつも通りに働けばいい」
広場にざわめきが広がる。
その中で、マーランは杖を石畳に一度叩きつけ、乾いた音が響く。
「心配することは何もない。ただ……今までのいつも通りが、少し変わるだけだ」
その言葉通り、街は静かに、しかし確実に変わっていった。
最初は、労働時間の延長だった。
日が暮れても、鉱山の鐘は鳴らず、赤茶色の大地に夜が降りても、獣人たちは岩を掘り続けた。
次に、女と老人にも鉱山労働が割り当てられた。
炊事と選別だけだった者たちが、岩を運ばされる。子供にも、鉱石の選別作業が課された。
手を止めれば、鞭が飛んだ。
休憩を取ろうとする者には、フェールトの部下が容赦なく鞭を振るった。
食事も、目に見えて変わった。
肉と香草の鍋は、薄い汁物に。
パンの量も、半分に減らされた。
そして、週末が消えた。
市場へ行く休息の日も、何の通達もないまま削られていった。
ある朝、エレファの子供が、父親の袖を引いて呟いた。
「お父さん……今日って、市場の日じゃないの?」
エレファは、しばらく何も言えなかった。
「……もう違うんだ」
「……ルイボスティー、飲みたかった……」
エレファは、子供の頭を撫でることしかできなかった。
獣人たちは、限界を迎えつつあった。
その夜。
寝床の隅で、フランは壁にもたれて座っていた。
頬は痩せ、毛並みは艶を失っている。胸元のネックレスだけが、弱い灯りを受けて小さく光っていた。
ネルドが隣に膝をつく。
「……大丈夫か?」
フランは薄く微笑んだ。
「……大丈夫よ」
ネルドは冷たい手をそっと握る。
フランはネルドの手を握り返した。
「あなたとの約束のためなら……耐えられる」
「フラン……」
ネルドの手に、わずかに力が入った。
「……今夜、マーランの執務室に行ってくる。もう少しだけでも、業務を軽くしてもらえないか、交渉してみる」
フランは少し不安そうにネルドを見た。
「ええ。でも……争ったらダメよ」
ネルドは目を伏せる。
「……あぁ」
立ち上がったネルドの背中を、フランは見つめることしかできなかった。
胸元のネックレスを、そっと握りしめながら。
その日の夜。
エレファとネルドは、マーランの執務室を訪ねた。
部屋の中には、紙と墨の匂いが満ちていた。壁には鉱山の地図と作業工程表が貼られ、卓の上には書類が積み重なっている。
マーランは椅子に座ったまま、書類から目を離さなかった。
エレファが一歩前に出る。
「マーラン殿。我々は、これまで通り真面目に働いてきた。なぜ、これほどまでに締め付けられねばならんのだ」
マーランは書類をめくった。
「ふむ」
杖の先で机を軽く叩く。
「君たちは、勘違いをしているな」
ネルドの眉が寄る。
「……勘違い?」
「ここは、君たちの街ではない。エルピディア王国の鉱山だ。国王陛下のご意向に沿って、生産を最大化する。それだけのことだ」
その言葉に、エレファの拳が震えた。
「しかし、子供にまで鞭を……」
「働かざる者、食うべからず。古い言葉だが、実に的を射ている」
ネルドの声が低くなる。
「俺たちは、奴隷じゃない」
そこで、マーランはようやく顔を上げた。
「ほう。では、君たちは何だと思っているのかね?」
ネルドは言葉を詰まらせた。
マーランは再び書類に目を落とす。
「不満があるなら、街を出るがいい。ただし……」
杖が、机をもう一度叩いた。
「家族を残してな」
その言葉に、エレファもネルド言い返せなかった。マーランはそれ以上、二人を見ることもなかった。
話は終わった。
そう告げるように、ただ書類の上へ視線を戻していた。
エレファとネルドが執務室を出た時、街の一角では槌音が響いていた。
街の西側。
今まで何もなかった場所に、白い石が積まれ始めている。設計図を広げたフェールトが、人間の職人たちに指示を出していた。
白い石の山。
組まれていく足場。
ネルドはその場に立ち尽くし、エレファは何も言わなかった。
何かが作られている。
そして同時に、何かが隔てられようとしている。
槌音だけが、夜の街に響き続けていた。




