鎮まりの街
四年前。
昼の鉱山には、鉱石を削る音が明るく響いていた。
空は青く、暖かな陽の光が赤茶色の大地を照らしている。足場はしっかりと組まれ、崩落を恐れる必要もない。屈強な獣人たちが、汗を光らせながら岩を掘り、鉱石を運び、また次の岩へと向かっていた。
誰かが休憩を取れば、人間の作業員が水を渡す。足元を滑らせた者がいれば、近くの者が肩を貸して立ち上がらせる。
鞭の音はない。
悲鳴もない。
代わりに、声を掛け合うたび、明るい笑い声が陽気に弾んでいた。
力仕事は主に若く屈強な男たちが担い、女や老人たちは炊事や鉱石の選別作業を行う。誰もが、それぞれ自分にできる仕事をこなしていた。
ここは、鉱山の街アパルトヘイム。
通称、鎮まりの街。
「いやー、今日も疲れたな!!」
「ああ! お疲れさん!」
仕事を終えた獣人たちは、笑いながら鉱山を後にした。
鉱山の麓には、真新しい建物が並んでいた。
トタン屋根は綺麗に張り替えられ、雨漏りや隙間風に悩まされることもない。
その前では、女たちが夕食の支度をして待っていた。湯気の立つ大鍋からは、肉と香草の匂いが漂っている。
ゾウの獣人、エレファが、ネルドたちと一緒に帰ってくる。
そこへ、小さな子供が走ってきた。
「お父さんおかえりなさい! 明日は市場に行ける日だよね?」
エレファは大きな手で子供の頭を撫でた。
「そうか、もう週末か。明日は美味いルイボスティーでも飲むか!」
子供が声を上げて喜ぶ。
その様子を見て、エレファはネルドへ顔を向けた。
「ネルド! お前もどうだ?」
ネルドは首を横に振った。
「いや、明日は用事がある」
「用事? 休みの日になんかあるのか?」
「あぁ、明日は新しい奴らが来るらしい。その迎えだ」
エレファは呆れたように笑った。
「休みの日に仕事か」
「その代わりどこかで休みでも取るさ」
エレファは声を立てて笑い、ネルドの肩を軽く叩いた。
夕食の鍋を囲み、獣人たちの夜は静かに更けていった。
翌朝。
ネルドは、街の入口に続く街道で一人、雲一つない青い空を見上げていた。
「いい天気だ」
遠くから、荷馬車の音が近づいてくる。
ネルドは目を細め、街道の先を見据えた。
やがて砂埃を巻き上げながら、荷馬車が止まった。荷台から、獣人たちが次々と降りてくる。
黒い体毛の水牛の獣人が、地面に降りるなり大きく伸びをした。
「ったく、長旅だったぜ」
斑模様の豹の獣人は、舌打ちをしながら荷物を肩に担いだ。
その後ろから降りてくる獣人たちも、どこか癖の強そうな連中ばかりだった。
その最後尾。
鹿の獣人の女が顔を俯かせたまま、ゆっくりと荷台から降りてきた。
茶色の柔らかい毛並み。細い肩。
胸元には、小さなネックレスが揺れている。
ネルドは、その姿から目が離せなかった。
やや遅れて、咳払いをする。
「みんな、長旅お疲れ様。俺はネルド。お前たちの案内を任されてる」
ネルドは荷馬車から降りた獣人たちを見回した。
「まずは名前だけ聞かせてくれ。寝床と作業班の割り振りがある」
黒い体毛の水牛の獣人が、腹を押さえながら片手を上げた。
「スロボ・バッファだ。なんか食い物はねーのか?」
ネルドは少しだけ目を瞬かせた。
「……腹が減ってるのか?」
「見りゃ分かるだろ。こっちは長旅だったんだ」
斑模様の豹の獣人が、舌打ちをしながら荷物を肩に担ぎ直した。
「ハニ・レオパルド。俺も同じだ。説明は飯の後にしてくれ」
「なら、先に市場に向かうか」
レオパルドが眉を寄せた。
「金なんかねーぞ。だからこの街に働きにきたんだ」
「今日ぐらい俺が出すさ」
「本当か!?」
バッファは豪快に笑いながらネルドの肩を抱き寄せた。
「よし! 今日からお前は親友だ!」
レオパルドは呆れたように呟き、バッファの腕越しにネルドの肩を軽く叩いた。
「言っとくけどよ、俺らはめちゃくちゃ食うぞ?」
「……手心加えてくれると助かる」
獣人たちの間に、軽い笑いが起こった。
その輪の外で、鹿の獣人の女だけが、相変わらず俯いていた。
市場に着くと、新入りたちは目を輝かせた。
ルイボスの茶葉の香りが、風に乗って通りに流れている。露店には林檎、葡萄、柑橘類が山のように積まれていた。ワインの樽が転がる音が、人間の客と店主の値切り合いの声と混ざる。
「うまそうな果物だ!」
「ワインまであるじゃねぇか!」
バッファとレオパルドが露店に駆け寄ろうとした、その時だった。
「待て!」
ネルドの声は、低く鋭かった。
バッファが足を止め振り返る。
「あぁ? なんだよ」
「ここでは、人間が先だ」
露店の前には、人間の客が三人、果物を品定めしていた。その後ろには、籠を抱えた獣人が一人、一定の距離を空けて黙って立っている。
ネルドは静かに続けた。
「俺たちが買えるのは、人間の客が全員終わった後だ。あと、値切るな。話しかけるな。ただ、欲しいものを言って、銭を出して、立ち去る。それだけだ」
バッファが低く呟く。
「なんだよ、それ」
「この街で働きたいなら、このルールだけは守ってくれ」
レオパルドは舌打ちした。
「……ふん」
2人が市場の中央へ向かおうとすると、ネルドはその肩を掴んだ。
「それと、もう一つ」
バッファが露骨に顔をしかめる。
「まだなんかあるのかよ」
ネルドは市場の中央を指さした。
赤茶色の土の広い通り。人間たちが行き交い、子供たちが駆け回っている。
「あそこは、人間の通り道だ。俺たちは通らない」
「……は?」
「俺たちは端を歩く。人間にぶつかるな。目を合わせるな」
バッファは拳を握り締め、苦々しく吐き捨てた。
「結局、この街も他所と一緒かよ」
ネルドは少しだけ黙った。
それから、穏やかな声で言う。
「そういうな。すぐに慣れるさ」
数日後。
バッファも、レオパルドも、すっかり仲間に溶け込んでいた。
鉱山で汗を流し、夜には酒を酌み交わし、笑い声を上げる。他の新入りたちも、それぞれの仕事を見つけ、街に馴染んでいった。
ただ一人。
鹿の獣人の女だけが、誰とも口を利かなかった。仕事の合間も、食事の時間も、いつも一人で隅に座っている。
胸元のネックレスを、そっと握りしめながら。
ネルドは、その姿を遠くから見つめていた。
バッファが笑いながら無理やり肩を組んだ。
「なんだ、お前あいつに惚れたのか?」
レオパルドも口元を歪める。
「話しかけてこいよ」
「別に、そんなんじゃない」
エレファが腕を組み、しみじみと頷く。
「ネルド、人を愛するのは恥ずかしいことじゃないぞ」
「だから──」
言いかけて、ネルドは言葉を切った。
もう一度、鹿の獣人の女を見る。
彼女は一人で膝を抱え、夕陽の方へ視線を落としていた。
ネルドは小さく息を吐いた。
「……いや、行ってくる」
仲間たちの口笛と冷やかしの声を背に、ネルドは歩き出した。
鹿の獣人のすぐ横に立つが、彼女は顔を上げなかった。
「……隣、いいか」
返事はなかった。
ネルドは少し迷いながらも、隣に腰を下ろした。
沈黙が落ちる。
遠くでは、仲間たちの笑い声が聞こえている。鍋の湯気が夕暮れに溶け、鉱山の方からは一日の終わりを告げる鐘の音が響いた。
ネルドは手元を見つめながら口を開く。
「……俺は、ネルド・マンデル。お前の名前は?」
鹿の獣人は、少しだけ顔を上げた。
茶色い瞳が震えている。
「……アネリーゼ・フラン」
再び、沈黙が落ちた。
ネルドは、何を話していいか分からなかった。膝の上で、握った拳が汗ばんでいる。
「フラン……飯は、ちゃんと食ってるか?」
「……あんまり」
「そうか……」
また会話が途切れた。
ネルドは自分の手元を見つめる。
立ち上がるべきか。
まだここにいるべきか。
判断がつかなかった。
その時、フランが小さく呟いた。
「……どうして、話しかけてきたんですか?」
ネルドは思わず顔を上げた。
フランは、まっすぐにネルドを見ていた。
「……気になってな」
「……なにが、ですか?」
「……分からん。ただ、なんとなくな」
フランは目を伏せた。
そして、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「……変な人ですね」
ネルドも、小さく笑った。
「よく言われる」
フランの胸元のネックレスが、わずかに揺れた。




