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無能令嬢と氷の皇帝 ~古代の叡智を目覚めさせた夜~  作者: 九十九 文


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第4話「ざまぁ、あるいは超越という名の終止符」



 帝国がアリシアの発明を次々と採用し始めてから、隣国ヴァンハルト王国の焦りは日を追うごとに増した。


・「魔素生成装置」の実用化。

・老朽化した国境要塞の自動修復魔法陣。

・新型の通信用魔導網、完成まであと一ヶ月。


 これだけで帝国の国力は、従来比で一・七倍の試算が出た。

 隣国にしてみれば、地政学的な均衡が完全に崩れたも同然である。


 ヴァンハルト王国が「アリシア・レンフィールドを引き渡せ」という要求を帝国に突きつけてきたのは、そういう事情があった。


「断れ」


 レオンハルトは使者の顔を見ることもなく言った。


「陛下、断れば戦争の口実を……」


「帝国が恐れる相手ではない。次の言葉は持ち帰らなくていい」


 使者が青ざめて退出した。後日、王国は改めて「直接交渉」を要求してきた。交渉の場はヴァンハルト王都の宮廷。王族と全貴族の前での公開会談を要求する、という条件である。


「これは恥をかかせる罠だ」ハインツが言った。「公開の場でアリシア顧問が拒否すれば、外交上の侮辱として利用されます。受け入れれば、引き渡しに同意したとも取れる。いずれにせよ帝国が不利な構図です」


「アリシアに相談しろ」


 ハインツがまた目を丸くした。「顧問に……?」


「彼女の問題だ。彼女が決める」


  *  *  *


 相談を受けたアリシアは、しばらく沈黙した後、静かに言った。


「私が行きます」


「……顧問」


「私の問題だ、と陛下がおっしゃるなら、そうです。私が自分で決着をつけます」


 彼女の目は揺れていなかった。三ヶ月前、婚約破棄の夜に見せた、あの冷徹な静けさが戻っていた。しかし、今は違う。あのときの静けさは「感じないようにしている」冷静さであった。


 今の静けさは「もう超えた」という、もっと高いところからの落ち着きだった。


「ただし、条件を一つ。私に何も制限をつけないでください。私のやり方でやらせてください」


  *  *  *


 ヴァンハルト王都、宮廷大広間。


 アリシアが入場した瞬間、場の空気が変わった。

 帝国の技術顧問として、銀と黒の正装で。三ヶ月前まで「氷の令嬢」と嘲っていた貴族たちが、誰ひとり目を合わせられなかった。


 玉座には国王。その隣に、第一王子ユリウス。そして、王子の隣に義妹エレナが座っていた。


 アリシアはそちらを、意識して見なかった。


 演壇に立ち、傍らに置かれた布をひとつ外す。


 その下から現れたのは、金属製の筒状の装置だった。

 直径三十センチ、長さ一メートル。先端に複雑な術式が刻み込まれた、精巧な機械。


「これは私が先週完成させた『魔導収束砲』の試作機です」


 静粛が満ちた。


「帝国魔素生成装置から供給された純粋魔素を収束・解放する装置です。最大出力での照射範囲は直径五百メートル。この国の軍事拠点のほとんどは、この半径内に収まります」


 国王が硬直した。貴族たちが息を呑む。


「誤解なきよう申し上げますが、私はこれを使う気がありません。使いたくない。それが本心です」


 一拍置いて、アリシアは続けた。


「ただ、この帝国と同盟する私の提案を、あなたたちが拒否した場合の選択肢として、これが存在することを、お知らせしておきたかった。戦争より、交渉の方が双方にとって効率的です。賢い選択をしてください」


 淡々としていた。感情的でも高圧的でもない。教師が生徒に方程式を教えるような、静かな確信の声だった。


 それがかえって、場の全員の背筋を凍らせた。


 国王がようやく声を絞り出した。「…………条件を聞こう」


「ありがとうございます。では三点」アリシアは準備していた書類を広げた。「一、帝国との魔導技術協力協定の締結。二、今後二十年間の魔素取引における帝国優遇。三――」


 彼女はここで初めて、ユリウスに目を向けた。


「私に対して行われた公衆の面前での侮辱と、三年間の人格毀損に対する、王族としての公式謝罪。王国の名において、全国民の前で」


 広間がざわめいた。


 ユリウスが立ち上がった。「……な……なんだと……! 貴様、まさか俺に……!」


「王子殿下」


 アリシアの声が、静かに割り込んだ。


「あなたは三年前、私を『無能な令嬢』と断じ、公衆の前で婚約を破棄しました。その場に居合わせた貴族たちが笑った。あなたもその笑いを否定しなかった。あれは婚約破棄ではなく、人格の公開処刑でした」


「し、しかし実際お前は何もできない冷たい女で……!」


「何もできない、ですか」


 アリシアは少しだけ首をかしげた。

 そのしぐさが、かえって恐ろしかった。


「では、なぜ今あなたは私を怖いと思っているのですか」


 ユリウスが黙った。


「あなたは今、私を必要としている。そうでしょう? 魔導技術協力がなければ、この国は帝国に技術的に従属する。あなたはそれを防ぐために私を呼んだ。しかし三年前、あなたは私を『必要ない』と判断した。この矛盾を、どう説明しますか」


 返答がなかった。


 アリシアは続けた。ただし、声に怒りはなかった。


「私はあなたを責めるために来たのではありません。ただ、あなたが犯したことを、あなた自身に理解してほしかった。間違いを認められない者が権力を持つのは、国民にとっての不幸です。あなたが王子であるなら、この場でそれを示してください」


 ユリウスの顔が白くなり、赤くなり、また白くなった。


 見ていた。


 三年前の舞踏会で自分が何をしたか。公衆の前で人を笑いものにした、あの瞬間を。そして今この瞬間、立場が逆転し、しかしアリシアはかつての自分と違って、人を笑いものにしようとしていない。


 ユリウスはゆっくりと、膝をついた。


 義妹エレナが息を呑んだ。

 広間が静まり返った。


「……すまなかった」


 小さな声だった。しかし確かな声だった。


「公衆の面前で、俺はお前を侮辱した。それは……間違いだった」


 アリシアはユリウスを見た。

 ただ、見た。


 怒りがなかった。憎しみもなかった。哀れみさえない。ただ「終わった」という、どこか遠くを見るような目だった。


「ありがとう、ユリウス殿下。それで十分です」


 彼女は書類を閉じた。


「交渉は成立です。以後は書面でやり取りしましょう。今後、私が直接この国に来ることはないと思いますので」


 踵を返す前に、エレナと一瞬目が合った。

 エレナは泣いていた。「お姉様、ごめんなさい……」と唇が動いた。


 アリシアは何も言わなかった。

 ただ、小さく首を振った。


 それは許しでも、拒絶でもなかった。

 ただの「もういい」だった。


  *  *  *


 帰りの馬車の中。


 アリシアはしばらく窓の外を見ていた。

 夕暮れの荒野が流れていく。三ヶ月前に通った、王都を出た夜の道と同じ景色。


 隣には、護衛名目でついてきたレオンハルトが座っていた。


「……よかったのか?」


「何が」


「もっと痛めつけてもよかったのに」


 アリシアは少し考えた。


「……もうどうでもよかったんです。怒りも、憎しみも、とっくに消えていて。今日行ったのは復讐のためじゃない。彼らが将来また誰かを傷つけないように、ただそれだけのためです」


「超然としているな」


「そうかもしれません。ただ……」


 彼女は窓から視線を外し、レオンハルトを見た。


「守りたい人ができると、どうでもいいことが増えるんですよ。限られた感情は、大切なものに使いたいから」


 レオンハルトは黙って、アリシアの横顔を見た。


 夕陽が彼女の横顔を金色に染めていた。窓から流れる風が、結い上げた黒髪の一筋を揺らす。


 胸が痛かった。


 恋と呼ぶには遅すぎるくらい遅く気づいた感情が、今は疑う余地なく彼の中に根を張っていた。


(美しい。こんなに誰かを美しいと思ったのは、はじめてだ)


「……アリシア」


「はい」


「大切なものに、私は入っているか」


 アリシアが少し沈黙した。

 それから、かすかに顔を赤らめ、窓の外に顔を戻した。


「……馬鹿なことを聞かないでください」


 否定しなかった。


 レオンハルトは、馬車が揺れる中で、ひそかに口の端を上げた。


         ――第5話へ続く――


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