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無能令嬢と氷の皇帝 ~古代の叡智を目覚めさせた夜~  作者: 九十九 文


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 第3話「氷の壁に、最初のひびが入った夜」



 帝国城に来て一ヶ月が過ぎた頃、アリシアは「空気から魔素を生成する装置」の試作品を完成させた。


 それがどういう意味を持つか、彼女は説明した。「現在の魔導技術は、地中の魔素鉱脈に依存しています。鉱脈の枯渇が文明の限界でした。しかし、この装置があれば、空気中の微量魔素を濃縮して生成できる。鉱脈がなくとも魔導技術が使えるのです」


 会議室が静まり返った。


 参謀長が額に手を当てた。「……それは、帝国の資源戦略が根本から……」

「外交政策も変わる……」宰相が椅子から半立ちになった。

「魔素鉱脈を持たない小国が突然、独立できるようになる……」


 誰かが呟いた。「世界が変わる」


 アリシアは首をかしげた。「世界が変わる……? 理論的には半世紀前に実現できていたはずですが。なぜ誰も試みなかったのですか?」


 また沈黙。


 レオンハルトは会議室の上座で、口元にかすかな苦笑を浮かべた。この一ヶ月で何度この光景を見たか。世界を変える発明を「なぜこれで驚くのか」という顔で提出する女を、帝国中が驚愕と混乱で受け止める光景を。


 彼は気づいていた。

 アリシアは才能を誇らない。誇れないのではなく、誇ることを考えていないのだ。ただ「わからないことをわかるようにする」ことに、純粋に没入しているだけである。


(こいつは……本当に不思議な女だ)


 その思いは日々、確かな熱を帯びていた。


  *  *  *


 事件は満月の夜に起きた。


 アリシアが深夜の工房で作業をしていたとき、窓の外に人影が動いた。

 彼女は気づかなかった。設計図に没頭していたからではなく、城内は安全なはずだという無意識の信頼があったからだ。


 後ろから気配が迫った瞬間、アリシアは身を翻した。

 だが間に合わなかった。


 刃が閃いた。


 しかし、それより速く、別の体が割り込んできた。


 鈍い衝撃音。

 暗殺者の刃は、アリシアの肩口ではなく、レオンハルトの左腕に食い込んでいた。


「陛下……!」


「うるさい」


 彼は低く呟きながら、刃を持つ暗殺者の腕を折った。追加の二人が飛び込んでくる前に、背後の扉から護衛が駆けつけ、あっという間に取り押さえた。


 静寂が戻る。


 アリシアは凍りついていた。


 目の前に、左腕から血を流す皇帝が立っている。礼服の袖が赤く濡れていた。夜の冷気の中で、その血の色だけがやけに鮮やかだった。


「……なぜ」


 声が、出た。


「なぜあなたが、私のために傷つくんですか」


 レオンハルトはアリシアを見た。

 彼女の顔から、あの鉄の仮面が初めてはがれかけていた。瞳が揺れている。口元が小さく震えている。


「それが当然だろう。お前が大事だからだ」


「大事……?」


「研究が失われては困る」


「……それは」


「嘘だ」


 突然の訂正に、アリシアが目を見開いた。


 レオンハルトは視線を逸らさなかった。珍しく、少し決まり悪そうな顔をしていた。


「研究が失われては困るというのは……半分は本当だ。だが半分は嘘だ。お前に傷ついてほしくなかった。それだけだ」


 また沈黙。


 アリシアの目から、一粒の涙が伝った。


 彼女自身が一番驚いたように見えた。己の頬に触れ、指先の濡れを見つめる。まるで、自分の体が自分の命令を聞かなかったことが信じられないとでもいうように。


「……私は」


 声が揺れた。


「私は、もう誰の前でも泣かないと決めていたのに」


「……ああ」


「あなたは……私のルールを壊すんですか」


 レオンハルトはゆっくり近づいた。

 傷ついた左腕ではなく、右手をそっと伸ばして、アリシアの頬に触れた。


 体温だった。


 生きている人間の、あたりまえの温度。なのにアリシアは、その感触に胸が痛くなるほど驚いた。こんなふうに誰かに触れられたのが、いつ以来だったか。継母にも義妹にも元婚約者にも、こんなふうに触れられたことはなかった。


 皇帝の右手の熱が、頬を通じて胸の奥まで伝わってくるような気がした。


「泣いていい」レオンハルトが静かに言った。「お前のルールは、今この瞬間だけは――私が預かる」


 アリシアは何も答えなかった。

 ただ、かすかに目を閉じた。


  *  *  *


 翌朝。


 暗殺者の背後に、帝国内の貴族派閥「旧守派」がいることがわかった。

 アリシアの台頭を「身分秩序の破壊」とみなし、貴族社会の象徴として排除しようとした者たちだ。


 レオンハルトは負傷した腕に包帯を巻いたまま、旧守派の長老格の伯爵を謁見の間に呼びつけた。


「アリシア・レンフィールドに危害を加えようとした者は、この帝国に生きる資格がない。これは命令ではなく、警告だ」


 声に感情がなかった。だからこそ、その場にいた全員が背筋を凍らせた。


「彼女を傷つけようとする者は、帝国の敵として扱う。身分を問わない」


「し、しかし陛下……あのような出自の女が、技術顧問などという要職に……」


「出自を問うのは弱者の習性だ。お前たちが百年かけて解決できなかった問題を、彼女は三日で解決した。それ以上の評価基準など、何が必要だ」


 伯爵が口を閉じた。


 謁見が終わり、ハインツが廊下でそっと耳打ちした。「……陛下。あの左腕、また血が滲んでおります」


「後で処置する」


「今すぐ……」


「後で処置すると言った」


 ハインツは小声でぼやいた。「……まったく。陛下が他人を庇ったのを、生まれてはじめて見ました」


 レオンハルトは答えなかった。


 廊下の奥に、遠く、工房へ向かうアリシアの後ろ姿が見えた。

 夜の出来事を引きずるでもなく、いつも通りに資料を抱えて歩いている。しかし昨夜の瞳の揺れを、彼はまだ覚えていた。


(あいつに……笑っていてほしい)


 その感情に、彼はようやく名前をつけた。


 けれどそれを言葉にするには、まだほんの少しだけ時間が必要だった。


         ――第4話へ続く――


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