第2話「対等な契約、あるいは最初の亀裂」
博覧会の会場はガラス張りの大ドームだった。
帝都ヴァイゼンの中心部に建てられたそのドームは、国中の魔導技術者が年に一度集まる「聖地」とも言うべき場所で、今年は特に各国から三百名以上の専門家が集結していた。
それが、全員凍りついている。
演壇に立つ黒髪の女の設計図を前に、三百名が一斉に言葉を失っていた。
「……古代魔導炉の制御機構か? いや、違う。これは魔素の位相を正しく同期させているのだ」
「第三位相干渉式だ。教科書には『理論のみ存在、実現不可能』と書いてある……」
「だが、計算が合っている。すべて合っている……!」
ざわめきが膨らんでいく中、最前列の特別席でひとりの男が静かに立ち上がった。
背が高かった。
それだけで空気が変わる。会場の前半分がざわめきを止め、思わず息を呑む。
ヴァイゼン帝国皇帝、レオンハルト・ヴァイゼン、二十八歳。
漆黒の礼服に金の肩章。整った顔立ちに無表情という仮面を貼り付けた、とにかく近づきがたい佇まい。「孤高の王」「人外の皇帝」「生きた彫刻」――噂に事欠かない。
彼は演壇のアリシアを見ていた。
ただ、じっと見ていた。
(……変わった女だ)
彼の目が細くなった。
この手の博覧会で、演者が周囲の反応に「当然では?」と首をかしげるのを初めて見た。媚びがない。承認を求めていない。ただ「なぜこれがわからないのか」という純粋な疑問だけがある。
レオンハルトは隣の側近に声をかけた。「あの女を、こちらへ連れてこい」
側近のハインツが目を丸くした。「……陛下が、みずから人を呼び寄せることをお決めになるとは……」
「早くしろ」
* * *
控室に通されたアリシアは、皇帝が入ってきた瞬間、立ち上がって礼をした。それだけだった。
媚びない。おびえない。ただ礼儀として礼をする。
ハインツは心の中で「ほう」と思った。皇帝を前にするとたいていの者は過剰に緊張するか、逆に取り繕いすぎる。この女にはどちらもない。
「アリシア・レンフィールド」
レオンハルトの声は低く、よく通る。
「私の直属の技術顧問になれ。待遇は一等顧問官。この帝国で最上位の技術職だ」
アリシアは少し沈黙した。
その沈黙の間に彼女が何かを計算しているのを、レオンハルトは感じ取った。おじけづいているのではない。条件を精査しているのだ。
「……条件があります」
「聞こう」
「私は誰の“所有物”にもなりません。一等顧問官という地位は喜んで受けますが、それは雇用契約であって、主従契約ではない。私の研究成果は私に帰属し、陛下の命令であっても研究の方向性に干渉することは認めません。また私の身辺の安全については帝国が責任を持つこと――これが最低条件です」
沈黙。
ハインツが硬直した。皇帝に向かって「条件がある」などと言う人間を、これまで見たことがない。
レオンハルトは……少しの間、この女の顔を見た。
怯えていない。虚勢でもない。本当に、ただそれが当然だと思っている目だ。
(こいつは、私が皇帝だということを、どうでもいいと思っている)
はじめて感じる感覚だった。
皇帝という肩書きで人を動かすことに、レオンハルトは慣れすぎていた。それが当然で、それしか知らなかった。それが今、目の前の女に軽やかに無効化されている。
「……承諾する」
「すべての条件を?」
「ああ」
アリシアはわずかに目を細めた。何かを確かめるように。
「陛下は……目が澄んでいますね」
今度はレオンハルトが黙った。
「今まで会った権力者の中で、これほど目が澄んだ方はいなかった。嘘をつく方の目は、いつも少し濁っています。あなたの目は澄んでいる。だから信用します」
ハインツが口を開けたまま固まった。
皇帝に向かって「目が澄んでいるから信用する」と言う人間が存在するとは。
レオンハルトは――自分でも気づかぬうちに、喉元に熱いものが込み上げるのを感じた。
(この女は……私を『皇帝』として見ていない。一人の人間として、見ている)
それがどれだけ珍しいことか、どれだけ飢えていたことか、彼自身が一番よく知っていた。
* * *
帝国に着任してから三日後。
アリシアは城の地下深くにある「魔導炉制御室」に、書類の束を抱えて現れた。
帝国の魔導炉は建国から百五十年が経過し、現在は出力が最盛期の三割にまで落ちていた。歴代の技術顧問が数十年かけても原因を突き止められなかった問題だ。
「あの……レンフィールド顧問」
担当技師の一人が恐る恐る声をかけた。三十年のキャリアを持つベテランだ。
「以前から申し上げている通り、この魔導炉は部品の老朽化と魔素流路の目詰まりが複合的に……」
「違います」
「……は?」
「流路の問題ではありません。制御術式の根幹にある位相同期式が、百五十年前の帝国建設時に誤って設定されたまま、一度も修正されていないのです。だからずっと、本来の三割しか出力できていない。完全な設計ミスです。直しますね」
技師が頬を引きつらせた。「……そんな馬鹿な。建国時からの設計にミスがあるなど……」
「あ、もちろん建国時の技師が悪いわけではありません。当時の工学水準では発見できなかった問題です。ただ直せばいい話なので」
三十年のキャリアが消沈する音がした。
アリシアは躊躇なく制御盤の前に座り、古代魔導の術式を淡々と書き換え始めた。指先が盤面の上を滑るたびに、淡い光が走る。
一時間後。
魔導炉が唸った。
今まで聞いたことのない、低く力強い音。室内の明かりが一斉に増した。計器の針が跳ね上がり、技師たちが悲鳴に近い声を上げた。
「……出力、九十七パーセント……!」
「嘘だろ……たった三日で……!」
「し、三十年、三十年かかってもできなかったことを……!」
担当技師が立ちつくしたまま、目から涙をこぼした。
アリシアは書類を片手に振り返った。
「あの……皆さん、どうかしましたか? 位相同期を正しくするだけなのに、そんなに難しかったんですか?」
沈黙。
「……あなた、本当に人間ですか?」
技師の言葉は半分本気だった。
* * *
報告を受けたレオンハルトは、書斎の窓から夕暮れの帝都を眺めながら、しばらく動かなかった。
「三日か」
「はい」ハインツが答えた。「陛下。三十年の懸案が、文字通り三日で解決しました。城中の技術者が呆然としております」
「……彼女は何と言っていた」
「『これくらい当然では』と」
レオンハルトは窓の外を見たまま、ゆっくりと息を吐いた。
(そうか。これくらい当然、か)
心のどこかが、じわりと温かくなった。
孤独だった、とは違う。それとは別の感覚だった。
(もっと……知りたい)
その感情に、彼は名前をまだ持っていなかった。
――第3話へ続く――




