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無能令嬢と氷の皇帝 ~古代の叡智を目覚めさせた夜~  作者: 九十九 文


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第1話「婚約破棄の夜に、私はようやく自由になった」



 王都ラインハルトの社交シーズンを締めくくる「王立学院卒業舞踏会」は、今年も絢爛たる輝きの中に開幕した。

 大広間の水晶シャンデリアが五百本のろうそくを受けてきらめき、貴族令嬢たちのドレスが花壇のように咲き乱れる。楽団の奏でるワルツが石造りの天井に跳ね返り、笑い声と杯の音が混ざり合って、この夜だけは誰もが幸福であるように見えた。


 そんな幸福の絵画から、ひとつだけ遊離した存在がいた。


 アリシア・レンフィールド。

 辺境レンフィールド伯爵家の長女、十八歳。

 銀砂を混ぜたような淡いグレーのドレスを纏い、人の輪から少しだけ外れた柱の傍らに立っている。豊かな黒髪はきっちりと結い上げられ、整った顔立ちは感情というものを置き去りにしたかのように静かだ。「氷の令嬢」――いつの頃からかついたその異名が、確かに彼女を言い当てていた。


(あと十分。せめてあと十分だけ、この茶番に付き合えばいい)


 アリシアは胸の内でひそかに数えた。王族が退席すれば、自分も席を辞せる。そうすれば、今夜中に荷造りを終わらせられる。


 そう、彼女はもう決めていた。


 三年前から。


「アリシア!」


 甲高い声が広間を突き抜けた。

 第一王子ユリウス・ヴァンハルトが人垣を割って進み出てくる。二十歳、長身で金髪、誰もが「絵に描いたような王子」と称する顔立ち。その美貌の下に何が隠れているか、アリシアはもうすっかり熟知していた。


 浅さ。

 虚栄。

 そして、耐えがたいほどの凡庸さ。


「皆に聞いてほしいことがある」


 ユリウスは声を張った。楽団が止まる。人々がざわめきながら振り向く。彼の後ろに、義妹のエレナが寄り添っていた。淡いピンクのドレス、涙で濡れたような瞳、儚い美しさ。計算された儚さだとアリシアは知っていたが、それを言う必要はもうない。


「アリシア・レンフィールドとの婚約を、ここに破棄する」


 広間が凍った。


「余が真に愛しているのはエレナだ。お前のような冷たく感情のない女を、王妃にするわけにはいかない。辺境の伯爵家に戻り、静かに暮らすがいい」


 どこかで誰かが笑い声を漏らした。それが合図になったように、くすくすとした笑いが広がっていく。


「まあ、あの令嬢ではね……」

「王子もようやくお気づきになられたのね」

「氷みたいな女より、エレナ様の方がよほど……」


 貴族たちの声が、蜂の巣を突いたように騒がしくなる。


 アリシアは動かなかった。

 まばたきすらしなかった。


(三年。ちゃんと三年、待った)


 胸の奥でひとつの感情が静かに広がっていく。怒りではない。屈辱でもない。それはもっと澄んだ何か――春の雪解けのように、ゆっくりと解ける、安堵だった。


 彼女はユリウスに向かって、ゆるりと微笑んだ。


 それが、広間の空気をもう一度凍らせた。

 泣くでもなく、怒るでもなく。鉄の微笑み。


「かしこまりました、ユリウス殿下」


 声は穏やかで、低く、怖いほど落ち着いていた。


「ようやく、あなたという“枷”から解放されました。ありがとうございます、殿下。あなたの……その、見事なまでの無能ぶりが、私に決断させてくれました」


 静寂。


「む……無能、だと?」


「殿下は三年間、私の傍らにいながら、私が何をしているか一度も問いませんでした。私の部屋に積まれた設計図も、工房に通う時間も、帝国から届いた書簡も――ただの一度も。婚約者の才能に興味を持てない方が、国を治めるのは難しいかと存じます」


 ユリウスの顔が紅潮した。「き……貴様、今なんと……!」


「ご健勝で」


 アリシアはそれだけ言うと、深く、優雅に、完璧な礼をした。

 まるで長年の取引を締めくくるような、清々しい礼だった。


 そして踵を返す。


「ま、待て!」ユリウスが叫ぶ。「無能な令嬢が何を偉そうに! お前など、この国のどこにも居場所はないぞ!」


 アリシアは足を止めなかった。

 ただ、歩きながらひとりごちる。心の中で、誰にも聞こえぬ声で。


(あなたたちは半年後に、私の足元に泣きついてくる。その顔を見るのが少しだけ楽しみだわ)


 背後で義妹エレナが「お姉様……」と小声で呟いたのが聞こえた。が、彼女は振り返らなかった。

 広間を出る直前、柱の陰でひとり立っていた老齢の男爵が、アリシアに小さく頷いた。帝国の観察員だ。三ヶ月前から王都に滞在している。


 アリシアはかすかに頷き返した。


 誰も知らない。

 彼女の胸元に、帝国皇帝からの極秘書簡が静かに忍ばせてあることを。


  *  *  *


 その夜、アリシアは屋敷に戻ると、荷造りを始めた。

 継母が廊下から覗いていた。義妹が泣きながら「姉様、やり過ぎよ」と言いに来た。使用人たちが戸惑い顔で右往左往した。


 アリシアはどれにも取り合わなかった。


 必要なものは少ない。

 設計図を詰めた三つの革鞄、母の形見である銀のコンパス、そして才能――それだけあれば十分だった。


 夜明け前、馬車は王都を出た。


  *  *  *


 それから三ヶ月後。


 帝国が主催する「第七回大陸魔導技術博覧会」の会場に、ひとつの嵐が訪れた。


 演壇に立った黒髪の若い女が、一枚の設計図を広げた瞬間、会場が静まり返ったのだ。


 大陸最高峰の技術者たちが集まる中、彼らの顔色が次々と変わっていく。


「……古代魔導工学の、第三位相干渉式……?」

「馬鹿な。二百年前に失われ……た技術だぞ。」

「いや、待て。これは……動く。理論上、これは動くんだ……!」


 会場の隅から隅まで、驚愕の声が波紋のように広がった。


 演壇の女は、周囲の反応に首をかしげながら小さく呟いた。


「……これくらい当然では、ないのですか?」


         ――第2話へ続く――

"""



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