五十一話 料理の修行 基本編
今日は屋台が休み、普段なら用事を終わらせるか仕入れや仕込みをするが、今日は家で従業員二人の修行だ。一度しっかりと「基本」を教え込む日が必要だと判断したからだ。
二階から降りると、すでにアイリスとルナはエプロンをきっちりと締め、調理台の前に並んで立っていた。
「カケルさん!おはようございます!今日はどんな秘密特訓をしてくれるんですか!?」
「カケルさん、おはようございます。記録する準備はできています。よろしくお願いします」
二人のやる気は十分すぎるほどだった。俺は調理台の上にいくつもの野菜と、練習用の肉、そして基本の調味料を並べた。
「よし、じゃあ始めるか。今日は料理云々じゃなく料理人としての『絶対的な基本』を覚えてもらう。まずは――包丁の持ち方と切り方からだ」
俺はバルトが打ってくれた包丁ではなく、二人が普段使っている一般的な包丁を一本手にした。
「包丁でなにかを切っていて手元が狂う場合、なぜ狂うかといえば素材を『力』で切っているからだ。包丁というは、力で切れない。刃の重みとスライドで切るんだ」
俺は玉ねぎをまな板に置く。
「まず、持ち方だ。柄を握るな。親指と人差し指で刃の付け根を挟むように固定し、残りの指は添えるだけ。そして左手は『猫の手』。これは刃から指を守るためだけじゃない。包丁の側面を左手の指の関節に当てて、切る厚さをコントロールするためのガイドラインなんだ」
トントントントントン……!
軽快なリズムとともに一瞬にして狂いのない薄切りになっていく。まな板を叩く音は一定で無駄な力を一切入れていない。
「……すごいです。包丁の刃が、まるでカケルさんの体の一部みたいに進んで動いていますね」
アイリスが目を凝らして凝視している。
「さあ、二人ともやってみろ。まずは玉ねぎをそれぞれ三玉分だ」
ルナは「ドン!ドン!」と力を入れて切っている。
アイリスは壊れ物を扱うように慎重に切っている。
「ルナ、もっと力を抜け。アイリスは慎重すぎ」
俺は二人の後ろに立って、手取り足取り包丁を持つ角度や腕の振りを修正していった。最初はぎこちなかった二人だが、徐々に「トントントン」という軽いものへと変わっていった。アイリスやルナの顔から焦りが消え、刃の動きを楽しんでいるような表情に変わったとき手応えを感じた。
昼過ぎ、切り終えた大量の野菜を前に次のステップへ移る。
「ルナ、お前は魔力操作ができるから調整するのは得意だ。でも料理の火加減というなのは『強火=偉い』じゃない。食材に熱を伝えるための『時間とのコントロール』なんだ」
俺はフライパンに少量の油をひき、二人が切った野菜を投入した。
「強火で一気に炒めると水分が飛んで香ばしくなるが、焦げるリスクが上がるし最終的にパサついてしまう。弱火でじっくり炒めると、野菜の旨味は芯から引き出されるが、水分が出すぎてベチャベチャになる。だからまずは『中火』でフライパン全体の温度を一定に置く。そうすると野菜が油を吸って、パチパチと小さく弾ける気がするだろう? これが『ちょうどいい』ときの合図だ」
「パチパチ……あ、今、ちょっと大きくなりました!」
「二人ともやってみろ。この『火加減』を感覚的に理解しないとどの料理もうまくできないからな」
「カケルさん! 私、火の『気持ち』がちょっと分かってきた気がします!」
「火の気持ちじゃなくて、油の音を聞いて。でも、筋は悪くないぞ」
夕方になり、厨房には炒めた野菜や下茹でした肉の香りでいっぱいだ。
俺は小鉢に作ったスープを分けて入れた。
「美味しいですけど……ちょっと、物足りない気がします」とルナ。
「塩味が薄いですね。ベースの出汁はよく出ていますが、締まりがありません」とアイリス。
「正解だ。じゃあ、ここに塩をほんの少しだけ足す」
俺が指先でパラリと岩塩を加えると、スープの味が劇的に変化した。
「料理の味付けっていうのは、『足し算』じゃない。『引き算』であり、お互いの『比較』なんだ。味が少し薄いから醤油や塩をドバドバ足すと、出汁の旨味が全部死ぬ。逆にほんの少しの塩がもともとあった肉や野菜の旨味を引き出す。これを『対比効果』って言う」
俺はさらに、砂糖、酢、そしていくつかのスパイスを並べた。
「ルナ、お前の作ったスープ、醤油が強いと思ってハチミツを足したんだろ?それが間違いだ。甘みを足しすぎたら今度はキレがなくなる。そういう時はほんの少しの『酸味(酢)』を入れるんだ。味が引き締まって、しつこさが消えるぞ」
「っ!? 酸っぱいものを足すんですか!?」
二人はそれから、自分たちでスープに様々な調味料を数滴ずつ足し、味がどう変化するのか考えてみる「味覚の実験」を繰り返した。
二人の表情は、まるで未知の魔法の法則を解明している学者のようだった。
気づけば窓の外は完全に帳が下り、夜の静寂が街を包んでいる。調理台の上には二人が今日一日で組み立てた大量の「練習の成果」が並んでいる。
「よし、今日はここまで。……で、これが今日の晩飯だ」
今日一日で学んだ、包丁の切り方、火加減、味の調和――そのすべてが詰まった、名もなき料理だ。
「……おいしい。自分で切った野菜だから、なんだかいつもより美味しく感じます」
ルナがおいしそうに野菜炒めを頬張る。
「カケルさん、今日一日で料理というものの基本が重要であると痛感しました。私はまだカケルさんの足元にも及びません」
アイリスが静かに、しかし決意を秘めた目で言った。
「当たり前だ、俺は何年もこれだけを修行してきたからな。でもお前たち二人とも、今日一日で確実に成長してるよ。明日の屋台も頑張ってくれよ」
「「はいっ!!」」
二人の元気な声が、我が家のリビングに響き渡った。
夕食が終わり食器を片付け、二人がそれぞれの部屋へ戻っていった。静かになった厨房で俺はもう一度、使い込んだ調理器具たちを磨いた。
明日は屋台。俺の隣には少しだけ強くなった二人がいる。自分の店を持つという夢が、ほんの少しだけ現実の形を置いて考えてきたような気がした。俺は明日の快晴を願いながら心地よい疲労感とともに静かに火を落とした。




