2.
ヴォルフ視点。
一瞬にして固まったルークの姿を見て、噛み殺せなかった笑いが漏れる。
セレネに休め、とは確かに伝えた。それを受けたセレネも一度は戻ろうとしたけれど、俺たちが動かないことに気づいてからは、こっそりと様子を伺っていた。気づかないルークが呟いていた本音は、全部セレネにも聞こえていたのだ。
もちろん、俺が隠していたわけではないし、セレネも本気で隠れようとも思っていなかった。ルークが気づかなかったのは、セレネの匂いがいつもと違うというのもあるだろうが、それ以上にそこまで気を回す余裕がなかったからだ。自分の考えで、頭がいっぱいだったから。
「ルークの言葉は、聞こえていたな?」
波は穏やかで、周りにヒトはいない。この静寂を破るのは、時折聞こえて来る汽笛だけ。
確認の意味も込めて問いかけてみれば、セレネは迷う事なく頷いた。
「ごめんなさい、立ち聞きなんて」
「あ、それはいいんだけど……」
こちらに近づいてきて頭を下げたセレネに、ルークが慌てて声を上げる。思っていたよりも近い位置にいたセレネに驚いてのけ反ったルークが、後ろが海だという事を思い出したようにゆっくりと体勢を戻す。
どうしたらいいのか分からなくなったように視線を彷徨わせている様子にくすくすと笑い出したセレネが、自分の座っているところの隣を手で叩く。ほんのりと頬を赤く染めたルークが、セレネの示した位置から少しだけ間隔を開けて座った。あの様子だとすぐ隣に座るのは気恥ずかしいのだろう。そんな気持ちを当然のように読み取れるようになった自分の変化は、まだ慣れない。
「それで、さっきのルークの話だが」
「もう! 全部聞こえてたわよ!」
分かっているのに聞いてくるなんて、とセレネが怒った様子を見せると途端にルークが肩を縮こまらせた。自分の想像が相手に伝わったことか、その答えを聞かされることにか、とにかくセレネから何かしらの反応があるとは分かっているのだろう。俯いて、甲板の板目から一向に視線を上げようとしない。
「ね、ルーク。わたし、あの家でどう見えていた?」
「どうって、そりゃ可愛い……」
まだ熱に浮かされているのか、ぼんやりとした調子で答えたルークは、自分がいま何を言葉にしたのか思い当たったようだ。パシッといい音が響いたので、視線をそちらに向けて見れば自分の口を手で覆っているルークの姿。
焦ったように視線をセレネと合わせようとしないルークは、どんどんと顔を赤くしていく。わざと自分と合わせようとしていない姿も、顔色の変わりようと見たセレネは、小さく笑みをこぼした。
「ありがとう。でも、それはね、飾りたてたお人形と一緒なの」
褒められたことは嬉しそうにしていたセレネだったが、その表情はすぐに変わってしまう。お人形、と繰り返したルークは、いまいち何のことだか分かっていないようだ。
少しだけ困ったように眉を下げていたけれど、セレネも同意が得られるとは思っていなかったようで、すぐに言葉を続けていた。
「あそこにいたのは、リィグレット家のご令嬢。ここにいるのは、セレネ。
それなら、どうかしら」
「分かったような、気がする?」
何となくだけど、と笑ったルークの顔はいつもと同じように見えた。それを見たセレネも十分だと笑っていたから、きっともうこの話題はここまでだ。そのまま他愛もない会話を始めた二人の様子を見ながら、思い出すのはセレネがお人形と称したモジュールにいる時の姿。
「人形、か……」
モジュールでセレネの家に着いた時、ルークの顔は明らかに強張っていた。無理もない、モジュールで見てきたどの建物よりも大きく立派な構えをしていたのに、これが個人の家だと聞いていたのだから。
辺りを見渡す時間も、気持ちの余裕もなかったから呆気に取られることはなかったが、少しでも余裕を持っていたなら俺だってその大きさに圧倒されていたに違いない。
隣にいるルークが俺以上に呆けて、そして今から自分が飛び込もうとしているものの大きさに戸惑う様子を見せたから、動けただけ。俺だけだったら、きっとあんなに迷いなく動き出すことは出来なかった。
「行けるか」
「う、うん……!」
門の前に立っていた男から始まり、家に入るまでには相当揉めた。それは当然だろう、関わりなんて持っているはずがない獣人、忌み嫌っている種族が約束もなく訪ねてきたのだから。
ましては家では婚約者との顔合わせが始まっている。例え約束があったとしても通せないだろう。
無理に押し入れないこともなかった。力だけならルークはこの場にいる誰よりも強いのは比べなくたって分かる。だけど、それをしてしまうということは、嫌悪感を刺激するだけにしかならないし、騒ぎを起こしたら最後、セレネに会う事すら叶わないと分かっていたから。
どうにか穏便な手段を取れないかと考えていて、思い浮かんだのは一つだけ。
「クリフォード家、ビリーからの頼まれごとだ」
「……当主に確認を取らせていただきます」
困ったら名前を出せ、と言われたからそれなりに通じると思ってはいたが、予想以上だった。俺たちの事を見ていた視線の色が変わる。家に入れる事すら拒んでいたのに、こちらへどうぞと案内されたのは玄関でも物置でもなく、招き入れるのに不都合ないよう整えられた部屋。
建物の中に入ってしまえばこちらのものだ。案内された部屋から、セレネの匂いを辿って移動すればいい。待っているように言われたけれど、部屋の前には誰もいなかったから抜け出すのは簡単だった。
「ヴォルフ、いいの?」
「あそこで待っていてもセレネには一生会えないぞ」
それは、確信。きっとビリーの名前から俺たちの事を調べることはするだろうけれど、そこからセレネに繋がるはずはない。ビリーとのつながりは俺たちだけのものなのだから。
わざわざ連れ戻した娘なのだから、またリュムに戻りたいと思わせるようなものに近づけることはしないだろう。
セレネに会えない、と聞いたらルークがぐっと表情を引き締めた。
「それは、嫌だなあ」
途中風呂に入ったらしくほとんど匂いを感じなくなっていたから、その先からはヒトの匂いの多い方を選んで動いた。俺たちが部屋にいない事はすぐに気づかれて、追いかけて来た奴らを振り切るように飛び込んだ先で見たもの。それが着飾ったセレネだった。その姿を思い出せば、人形というのは納得できる。それだけ、今まで見てきた姿と違っていて。何よりも綺麗だと素直に思った。
「だが、人形のように大人しくはなかったな」
ちょうど、セレネとルークの会話が途切れたタイミングだったようで、自分の声は思っていた以上に響いた。それを聞いた二人が、ぐるりと顔をこちらへ向ける。
きょとんとして目を丸くしているルークと、びっくりしたような表情のセレネ。似ているようで違う二人の顔が面白くて笑ってしまうと、それが気に入らなかったようで頬を膨らませながら文句を言ってきた。
「人形だったらそもそも、リュムに行っていないわ」
「違いない」
「え、それじゃあセレちゃんに会えなかったじゃん!」
ハッとしたように声を上げ、存在を確かめるようにぎゅっとセレネを抱いたルークのことを、あやすようにセレネがぽんぽんと優しく背中を叩く。
匂いを確かめるように肩に顔を埋めているルークは、張り詰めていたものがようやく緩んだようで、ゆるゆると顔を上げた時には、目元が少しだけ赤くなっていた。間近にいるセレネはもちろん、離れた位置にいる俺も分かったが、お互いそれを指摘することはしなかった。
「あ、お人形ってそういう事かあ」
「どういう事だと思ったの?」
セレネの手を握ったままのルークが、分かったと明るい声を出したので、セレネがにっこり笑って問いかける。さっきはいまいち分かっていなかった様子なのに、あの会話の中から何かを感じ取ったのだろう。
「だって、人形だったら自分で動けないけど、セレちゃんは自由に歩けるでしょ?」
どうだと胸を張るルークに、セレネが今度こそ目を丸くする。自由、と言葉にするのは簡単だけれど、モジュールでの立場があるセレネにはそれが一番難しくて、何よりも望んでいたことなんだろう。
リュムで自分の好きなところを好きなように歩き回るセレネの姿を見ているルークだからこそ、出た言葉だ。
「そうよ、そしてこれからも。わたしが好きに歩き回るのに付き合ってくれるかしら?」
ルークが握っている手を、ぎゅっと握り返して問いかけるセレネに、嬉しそうに笑ったルークが答えている。
自分の考えは、当たっていなかったと分かったのだろう。セレネがモジュールにいた方が幸せだっただろうとか、そういう事を考えていたのは、もうきっとルークの頭からは消え去っている。
「そして、ヴォルフにも」
こちらを向いたセレネは、金髪が光に照らされて月みたいに輝いて見えた。




