1.
エピローグです。
ルーク視点。
「……本当に良かったの?」
「お前だって納得しただろう」
「そう言われればそうなんだけど、でも僕よりヴォルフの方が……」
「俺の方が、何だって?」
「なんでもないでーす」
波の音に隠れてしまうくらい小さい声だったはずなのに、隣にいたヴォルフにはしっかりと届いていた。
僕が会話を打ち切るような返事をしたからか、そのままヴォルフは遠くを見るように目を細める。それに倣う訳じゃないけれど、同じように視線を先へと向ける。
目の前に広がるのは、海。それから湿り気を帯び始めた雲。ああ、そろそろ雨の多い時期になるんだろう。鼻先をピクリと動かせば、潮の匂いだけではなくて雨が大地を濡らした時の土の香りも届いた。
思っていたよりもリュムに近づいていたみたいだ。
「ねえ、ヴォルフ」
器用に片目だけで僕の詰まった言葉の先を促すように示してきたヴォルフに、へらりと笑ってから続きを紡ぐ。
「これ、現実だよね」
「夢だと思うなら、ほっぺた抓ってあげましょうか?」
「セレちゃん!」
くすくすと笑いながらこちらに寄ってきたのは、先ほどまでの格好から随分と馴染んだ姿に着替えたセレちゃん。
綺麗に編みこまれていた髪の毛は解かれて、ふわふわした金髪が風に揺れている。手櫛で整えているけれど、所々に残ってしまった編んでいた時の癖は直らないようだ。
それから、夕陽が完全に落ちる前の空のような色をしたドレスも、着替えてしまった。すごく似合っていたけれど、動き回るのには向かないから、と。若葉色のワンピースは、ドレスとは違って装飾もほとんどないけれど、なんというか、セレちゃんらしいなと思う。
そう、僕たちは今セレちゃんと一緒に、リュムに向かう船の上にいる。
誰もが僕らの様子を気にしているみたいに視線は飛んでくるけれど、ヴォルフが一睨みするから声をかけてくることはない。獣人だけだったら何でもなかったんだろうけれど、ヒト族、それもとびきりおめかしをした女性も一緒になって出港間際の船に飛び込んだんだから、無理もないとは思うけど。
「それでルーク? ほっぺたに必要かしら?」
指を摘まんで見せてくるセレちゃんはとても楽しそうに笑っている。その表情は、僕らがずっと焦がれていたもので。じわじわと自分の頬に熱が上がっているのを止められそうにない。
「摘ままれる前から赤くしてどうする」
「そっ……んなこと、ないよ」
語尾がどんどん小さくなっていくのは自分でも分かっていたけれど、それより何もされていないのに真っ赤になっているだろう頬を隠す方が優先だ。
ヴォルフだって同じ気持ちなはずなのに、どうしてか表情に出ないのが何だか無性に羨ましくなった。
「本当に? 熱出ちゃってない? 顔真っ赤よ」
「風に当たっていれば治まるだろ」
「あー、うん。大丈夫」
焦ったように次から次へと心配の声をかけてくれるセレちゃんには申し訳ないけれど、今は顔を見たらいけない気がする。暗いから分からないだろうと思っていたのに、真っ赤だと言われちゃうし。
せめてこれ以上顔を見せないように、とデッキに設置された手すりにもたれ掛かって、どうにかそれだけを告げる。
赤くなった顔を鎮めようと、あの日の行動を思い返していたんだけど、それは逆効果だったようだ。
だって、どうしたって思い出すのはセレちゃんの姿。そして、その姿を普通に受け入れていた、ヴォルフ。
モジュールで見たどの建物よりも大きくてきれいな家で、きれいな服を着て、笑っていた姿。
匂いが違うのは、香り付きのお風呂に入っていたからそれに隠れてしまったんだろうと言っていたけれど、あんなに変わっていたなら、いっそセレちゃんに似た別のヒトだと言ってくれた方が信じられたのに。
「でも、もう夜も遅いんだし、部屋に戻った方がいいんじゃないかしら」
「俺が責任もって連れて行くから、お前は先に戻ってろ」
疲れてるだろ、とヴォルフが労わるように告げた声色は、とても優しく。それを受けたセレちゃんも、苦笑いながらも否定はしなかった。
疲れていないはずがない。そして、きっと一人で考える時間が必要だという事も、ヴォルフはちゃんと分かっている。
「……言ったからには、付き合ってやるさ」
「うん……ありがとう」
あの日、ビリーと別れた僕たちはひたすらに西に走った。
たくさんのヒトが行き交っていたから、途中からは建物の上を文字通り飛んで移動して。整えられた街並みは、こういった時には便利だなと変な感想を抱いてしまったけれど、これがリュムにあってもこんな移動はしなかっただろう。
ヒト族の文字も読めるようになった僕たちなら、途中で見かけた馬車よりも大きくて速い乗り物に乗ることも出来たかもしれないけれど、西にあるリィグレット家の本家、ということしか分かっていない僕たちには、行き先も分からない乗り物に頼るのはただの賭けだ。
それに、フードで隠しているとはいえ獣人だと気づかれたときに逃げ場がない。リュムにある木と違って出っ張りもなくツルツルに均された壁を登るのは苦労したけれど、一度上がってしまえば見晴らしは良いし、邪魔するものは何もないから移動自体はすんなり出来た。
暗くなってもそこかしこに明かりがあって、逆にそっちに目を取られて飛び損ねたこともあったくらい。
ちょっとだけ期待していたけれど、移動したどこでも獣人を見つけることはなかった。ヒト族に紛れている、ってビリーが言っていたのに。かなり薄まっているから獣人の血を引いているという自覚もない奴はいるとは聞いていたけれど。確かに特徴的な耳を持っているヒトはいなかった。
「あんなに休みなく走ったの、初めてだったよ」
そうして、どうにか辿り着いたセレちゃんの家、そこに飛び込んでからの記憶は正直あんまり細かく思い出せない。
恰好はもちろん、匂いも違うセレちゃんをそうだと迷うことなく判断したヴォルフ。その背中を追うように動いていたから。
僕が戸惑って動けなくなっていたのを、当たり前のように引っ張ってくれた手は、悔しいけれどとても力強くて安心した。
「それに、セレちゃん。かっこよかったよねえ……」
囲まれて、身動きが取れなくなっていた僕たちを解放するように声を荒げたセレちゃんの姿は、忘れてと頼まれたけれどそれはどれだけお願いされても出来そうにない。
足元が隠れるくらいのドレスを着ているのに、さっと僕らの前に駆け寄って両手を広げた背中は、今まで見てきた何よりもかっこよかった。
「でもさ、僕思ったんだ」
嬉しかった。セレちゃんがそうして僕たちと一緒にいてくれることが。
当たり前だと思っていたことが、当たり前でなくなるなんて一瞬だって、この間思い知ったばかりなのに。
僕たちと一緒にいる事が、セレちゃんにも当たり前だったのかと思ったら嬉しくて。だけど、どうしても消えない考えがある。
「セレちゃんは、あそこにいた方が幸せなんじゃないのかなって」
見たこともない男と一緒に笑っていた。きっとあれが、婚約者という奴だろう。僕たちが飛び込んだ時に、慌てずにセレちゃんを守るように自分が前に出ていた。獣人に、丸腰のヒト族が敵うはずもないのに。
食事だって、きっと今まで食べていたよりも手の込んでいて美味しいものがきっと毎食出てくる。きれいなドレスだってたくさん用意されて、着飾っていられる。
「それを、セレネが望んでいると?」
「そうかもしれない、って思ってる」
今まで相槌すら入れずにずっと僕の吐き出す声を聞いてくれていたヴォルフが、ため息混じりに返してきた言葉に、ゆっくり頷く。
あのいけすかないスティーブという男に言われて、リュムを離れたときには頭に血が上って考えられなかったけれど、冷静になってから思えばモジュールはセレちゃんにとって生まれ故郷だ。
今回だって僕たちが勝手に迎えに行ったけれど、拒否すればあの場で僕たちは処罰されていただろう。
「だ、そうだがお前はどうなんだ」
明らかに僕ではない誰かに問いかけるようなヴォルフの声に、思わず声が漏れた。
だって、この場でその問いかけに答えられるのなんて一人しか思い浮かばない。目を見開いていると、予想通りの姿がヴォルフの背後から現れた。
「セレちゃん……」
部屋に戻ったはずのセレちゃんが、暗闇の中でも分かる程に苦笑いを浮かべてそこに立っていた。




