5.
「お嬢様って、誰かと間違ってない?」
わたしを背に庇ったまま、少しだけ振り返ったルークの表情には戸惑いの色が濃く見える。それは、目の前の男性がわたしに向かって呼び掛けた言葉が理由だろう。
ルークはわたしに確認するように声をかけたのに、反応したのは男性の方が早かった。
「お前たちと一緒にするな。私がお嬢様を見間違えるはずがないだろう」
「……って言ってるけど?」
「ええ、わたしの顔見知りよ」
認めたくはない、だけどここで無視をしたところで何の意味もない。それなら、この場で、二人きりになることが絶対にない状況で、話を進めてしまった方がいい。さっき、一瞬しか姿を見れなかったから記憶に引っかかることはなかったのだけれど、声まで聞こえれば、思い出すものはあった。
「顔見知りなんて、悲しい事を仰らないでくださいませ」
「わたしの大切なヒトを馬鹿にするなら、顔見知りでも十分すぎるわ」
あの家で両親と共にいるのだから、そうだろうとは分かっていたけれど、あからさまに二人を馬鹿にした物言いには憤りを感じる。わたしが彼に言葉を返したことは少ないけれど、穏やかな笑みを浮かべたままの口で、悲しいなんてよく言えたものだ。
ヴォルフもルークも、同族から悪意を投げられることを経験しているからか、目の前の男性を警戒しているけれど、言葉には何の反応も示さなかった。
ただ、わたしが彼の言葉に棘を含んで返していることに合わせるように、ルークの言葉がいつもよりそっけない。
「顔見知りさん、何の用ですか」
「それは、お嬢様が良くご存じなのでは?」
自分から言うつもりはないのか、茶色の瞳をスッと細めてわたしの事を見つめている。
家で着ていた仕立てのいいスーツは脱いできているが、良い素材を使っていることが分かるシャツに、アイロンの利いたパンツ。それだけでもリュムのなかでは多少浮いて見えるのに、革靴。長く歩くのには向いていないし、汚れた時の手入れが大変なはずなのに、履いている靴は艶々とした光を保っている。
デーナに来れなくなったから、こちらに進路を変更した船にでも乗っていたのだろうか。もう少しタイミングがずれていれば良かったのに、なんてどうにもならない事を思わず頭の中に浮かべてしまう。
「母や父はもちろん来ないでしょうけれど、あなたが来るとも思っていなかったわ。スティーブ」
「覚えていてくださいましたか。セレネお嬢様」
名前を出したことで、ようやく表情を変えて満足そうに笑う男性、スティーブはわたしの家の一切を取り仕切る執事、とでも言えばいいのだろうか。両親の顔をほとんど見ることのなかったわたしにとっては、困った時に声をかけるのは決まってスティーブだった。それでも、自分の事は自分で出来るように、と言われていたから頼ったのは数える程度しかないのだけれど。
「セレちゃん、本当に?」
「黙っていてごめんなさい。モジュールでの話だから、今のわたしには関係ない事かと思って」
そう、関係ないのだと思っていたのだ。モジュールの家から飛び出して来て、リュムで過ごしていても何も連絡がなかったのは、向こうだってわたしの事をもう関係ないものだとしているのだと思っていたのに、どうして今更。
「セレネがそう判断したならそれでいい。後で話してくれるんだろう?」
「そうね。二人には聞いてほしいわ。でも、その前に」
スティーブから視線は外さないヴォルフの表情は、わたしからは見えない。だけど、その声はいつもと変わらず優しいままで。
ここまで告げられて何も話さない、そうわたしが決めても二人はきっと何も言わずに頷いてくれるだろう。だけど、二人にはちゃんと話しておきたい。その時間を作るためには、目の前でわたし達が話しているのを微笑んだままで待っている彼に、どうにかして引いてもらわないと。
「お話は済みましたか? それでは、参りましょう」
「勝手に話を進めないでくれるかしら。わたしは戻るつもりなんてないのよ」
「エドナ様もレオナード様も、セレネ様がお戻りにならない事に心を痛めておられます」
きっぱり告げてみても、スティーブの表情は変わらない。眉ひとつ動かさずに両親が心配していると言われても、全く信じられない。むしろ、わたしがいなくなったことをきちんと把握していたのか、と逆に驚いた。
「あの二人に限ってそんなはずはないわ。おばあちゃん達の事を知らせても手紙ひとつ送ってこなかったのに」
あの時、たまたま来ていたアロンズさんが最速で届けると言ったのだ。あの町からデーナまではかなりの距離があったけれど、当時それが分からないわたしに、カレンダーを見せて、この日までには必ず届く、そう約束してくれた。
だからこそ、わたしは両親が来ることはなくても、手紙の返事は届くと、そう信じていたのに。
「お仕事の都合がつかなかったのです。リュムに行けず、マリアンヌ様を見送れない事でエドナ様は落胆しておいででした」
「いつもそうよ。一番大事なのは仕事、それから、嫌いなものは獣人。
移住するくらい嫌いなリュムには来れなくても、手紙くらいなら送れたはずでしょう?」
「セレちゃん……」
「多少は聞いていたが、な」
こんな事情だから、二人に伝えられなかったのだ。話したら、余計な心配をかけてしまう。わたし自身だって、まだ完全に諦めたわけではないから。本当に僅か、いつか両親からの手紙が届くのではないかと期待をする気持ちが残っているから。
抑え込んでいたはずの感情が、スティーブの言葉でどんどんとかき乱されていく。
「お咎めの言葉、私でよろしければいくらでも聞きましょう。ですがセレネ様に会いたいと思われているお二方のお気持ちを、汲んではいただけないでしょうか」
「スティーブのお願いでも聞けない事はあるわ」
自分の実の母であるおばあちゃん達のことに、まだ何も返事がないこと。スティーブの言葉が真実なら、どうして、何か一筆でも持たせなかったのか。町の場所だって教えてある。港からは遠いけれど、花を届けることも不可能ではないのに。
だけど、スティーブは鞄ひとつ持ち合わせていないし、靴の光沢を失っていない。それが両親の答えなのだというのなら、わたしだって答える必要はないはずだ。
「お二方からは、どんな手段を用いてもセレネ様を連れて帰ってこいと言付かっておりますゆえ」
スッと出してわたしに見えるように掲げたのは、ガラスの瓶に入った液体。スティーブの手よりも少しだけ大きい瓶の中で、緑色が揺れている。
何でもないただの液体をこの状況で晒すわけがない。わたしが旅をしていることも、獣人と一緒にいる事も知らないはずだけれど、両親ならその程度の事は予想しているだろう。
ならば、あの液体はわたしに害をなすものではない。
「お嬢様、どうしてそのような獣人を庇うのですか」
「獣人、じゃないわ。ヴォルフとルークだからよ」
この考え方が両親に理解してもらえなくて、わたしはあの家を飛び出したのだけれど。
「わたしにとって大切な二人なのだから、当たり前でしょ!」
ヴォルフとルークに庇われたままではいられない。だからこそ、瓶を掲げるスティーブの前に立って、ようやく彼の目が見えた。
記憶に残っているよりも目元の皺が増えているし、よく見れば茶色の髪には白いものが混じり始めている。それでも、わたしを見る瞳はあの時と同じ、何も感情を読み取らせない淡々としたもの。
「お嬢様、知っていますか。モジュールでは獣人の事も研究しているのですよ」
「それが、何の関係があるのかしら」
「これは、人間には効果はありませんが、獣人には猛毒だと言われている薬です」
自分たちの事をヒト族、ではなく人間とそう呼ぶのはモジュールに住んでいる者だけだ。
蓋を開けるようなしぐさをするだけで、ヴォルフとルークの警戒心を煽るだけなのに、それさえも分かっているというように、僅かにスティーブの口元が歪む。
「まさか、こんなところで使うつもり!?」
「ええ。どんな手段でも構わない、と言いましたよね」
本物かどうか、じゃない。本物だったら取り返しのつかない事になる。
モジュールで作られたというのなら解毒剤は存在しないだろうし、あったとしてもそれを取りにモジュールへ行って帰ってくる間にどれだけのヒトが被害に遭うと思っているのか。
持たせただろう両親にも、そんな物を平気で取り出すスティーブにも、さっきまでとは比べ物にならないほどの感情がこみ上げてくる。
「セレちゃん、あれ、奪えばいい?」
「望め、セレネ。俺たちはお前の味方だ」
感情を落ち着けるように深く息を吐いたわたしを、安心させるようにルークが軽く肩を叩く。ヴォルフはさらに一歩前に出て味方だと、自分の背中を見せてくれる。
これで、わたし達とスティーブの距離はおおよそ三歩分。わたしの目測が確かなら、二人は一歩踏み込むだけで詰められる距離だ。
「随分な自信だな。お前らよりも私がこの手を振り下ろす方が早かったらどうする」
「ヒト族に俺たちが追いつけないなんてことがあるとでも?」
「試してみる?」
ぐっと瓶を握りながらも、自分の腕を真横にしたスティーブは、更に煽るような言葉を続ける。
確かに、二人の速さならスティーブが手を動かすよりも早く動けるだろう。だけど、瓶の中身、あの液体が飛び散る事まで防げるとは限らない。
「ダメよ! 二人に、町のみんなに何かあったら……!」
「それでは、セレネお嬢様。私がこの手を振るわないために、どうすればいいかお分かりですね」
「……分かりました」
「セレネ!」
「セレちゃん!?」
にっこりと笑顔を見せるのはスティーブ。わたしはもちろん、ヴォルフとルークだって苦虫を噛み潰したような表情をしているのに、それを見ても教師が正解を見つけた子供を褒めるような態度を崩さない。
「その代わり、薬はわたしにちょうだい。
どこか、知らないところで使われるわけにはいかないもの」
わたしが帰ったところで、この薬が使われてしまったら何の意味もない。そう思って薬を手放すように、こちらに寄越せと手を出した。
「ええ、構いませんよ。モジュールでは買えるものですから」
思っていたよりもあっさりとわたしに手渡してきながらも、小さく告げたのも、本当かどうかは分からない。だけど、これからモジュールに向かうのだから、これはわたしが調べればいいだけだ。もらった薬が割れないようにタオルに包み、わたしの後ろで悔しそうな表情を浮かべていたヴォルフにそっと渡す。
「ヴォルフ、お願い。これを届けて。きっと今後のために使ってくれる」
タオルを取り出すときに、一緒に出した極彩色の羽根。スティーブからは見えない位置で出したから、届ける先が誰なのかまでは分からないはずだ。告げた言葉だって、出来る限り音量は落とした。ヴォルフとルークなら、一言も違わず聞こえているだろう。
何かを言いたそうにしながらも黙って受け取ってくれて、これできっと大丈夫だと安心して、離そうとした手をぐっと握られる。
「だが、お前の望みはどうするんだ。まだ地図は埋まっていないだろう」
「仕方ないわ。誰かを犠牲にしてまで続けるわけにはいかないもの」
ルークの瞳が揺らいでいるのが分かる。口を開くと、感情のままに吼えてしまいそうだからぐっと堪えていることにも。
ヴォルフがどんな思いでいるのか、握られた手から伝わる温度と微かな震えだって、分からないほど鈍感ではない。
だけどわたしの勝手で、他の誰かが傷つくなんてあってはならないし、そこまでして続けなければならない旅ではない。それで傷つくのがわたしだけならば、それでいい。背後にいるスティーブに、わたしの気持ちをさらけ出してやることなんて、絶対にしたくない。
「よろしいですか。船の時間が迫っております」
「二人とも、今までありがとう。
……さようなら」
わたしが逃げないようにか、急いでいるからなのかスティーブに掴まれた腕は、冷たかった。




