老紳士の申し出
スラムの拠点での話し合いを終え、重い足取りで街へ戻った誠二は、気づけば足がいつもの居酒屋へと向かっていた。
カラリとドアを開けると、店内は相変わらずの喧噪に包まれている。誠二がカウンターの角の席に腰を下ろすと、まるで申し合わせたかのように、すぐ隣の席から低く落ち着いた声がかけられた。
「浮かない顔だね、セージさん」
振り向くと、そこにいたのは身なりの整った老紳士――グレイだった。上質なコートに身を包み、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべながら静かにグラスを傾けている。
「……またお会いしましたね、グレイさん」
「ふふ、私の唯一の楽しみは、こうして街の生きた噂話に耳を傾けることだからね。それにしても、今日の君は一際暗い影を背負っているように見えるが……何か壁にでもぶつかったかい?」
「……ハハ、隠せませんね」
誠二は自嘲気味に苦笑いを浮かべ、注文した麦酒に口をつけた。
グレイの醸し出す不思議な包容力に背中を押されるように、誠二は抱えていた苦しい胸の内をぽつぽつと打ち明け始めた。
「鍛冶屋の親方と相談して、少ない力で重い土砂を引き揚げる『複合滑車』の設計は上手くいったんです。ですが……肝心の資金が、どうしても足りなくて」
「ほう、滑車の設計は完成したのか。だが、資金か」
「はい。鍛冶屋の見積もり、掘削に必要な足場の資材費、作業員の最低限の手当……全てを合わせると相当な額になります。マフィアの元締めに相談しても『そこまでの余裕はない』と言われましたし、私個人の貯蓄や行商の報酬を叩きつけても、遠く及びません」
誠二は深くため息をつき、杯を見つめた。
「結局、スラムに金を出す物好きなんてこの街にはいない……それが現実なんですよね。技術ややり方は頭の中にあるのに、お金という壁一枚で何も進まない。悔しいですよ」
前世のコンサルタント時代にも何度も直面した、予算の壁によるプロジェクトの頓挫。異世界に来てまでその壁に阻まれる歯がゆさに、誠二は思わず唇を噛みしめた。
グレイは黙って誠二の言葉に耳を傾けていた。その瞳は、誠二の真摯な熱意と悔しさをじっと見定めているようだった。
としばらくの沈黙の後、グレイは静かにグラスをテーブルに置いた。
「――なるほどな。それだけの規模の計画なら、確かに膨大な金がかかるだろう」
「はい。ですから、どうにか別の迂回策がないか考えているところで……」
「私が出そうか」
「――え?」
誠二は一瞬、自分の耳を疑った。あまりにも唐突で、静かな提案だったからだ。
「私が出そう、と言ったんだよ。その井戸掘りに必要な資金を、ね」
「い、いや! グレイさん、冗談はおやめください。そんな見ず知らずの私に、そこまでの大金をポンと出していただけるわけが――」
「見ず知らずでもないだろう」
グレイは目元に優しい皺を寄せ、いたずらっぽく笑った。
「もう何度も、この店のカウンターで顔を合わせているじゃないか。君の真面目さも、その熱意も、私はよく知っているつもりだ」
「ですが……いくらなんでも、何の得もないスラムの井戸掘りにそんな額を投資するなんて、あまりにも理由がありません」
「理由ならあるさ。……年寄りにはね、時々こういう贅沢な『道楽』が必要なんだよ」
グレイは手元のグラスを軽く揺らし、琥珀色の液体を見つめながら言った。
「金なんてものはね、あの世まで持っていけるわけじゃない。死に金として溜め込んでおくくらいなら、君のような骨のある若者の『挑戦』に使った方が、よっぽど有意義な使い道というものだ」
「……本当に、いいんですか? 何の見返りも、利権もお約束できませんよ」
「ああ、構わないとも。ただし――ひとつだけ条件がある」
「条件……ですか?」
誠二の表情が引き締まった。やはりただの慈善事業ではないのかと警戒する誠二に、グレイは穏やかな笑みを深めた。
「うまくいったら、その報告を私に直接聞かせてくれ。スラムにどんな風に水が湧き、人々がどう変わったか……君の口からその続きの『物語』を聞かせてほしい。それだけでいい」
「そんな……それだけでいいんですか?」
「私にとってはね、それが一番価値のある報酬なんだよ。年を取ると、若い男の面白い挑戦を聞くことくらいしか、楽しみがなくてね」
目を細めて語るグレイの言葉を聞きながら、誠二はその瞳の奥にある、どこか遠くを見つめるような深い色を感じ取っていた。
(――ただの好事家や、噂好きの老人って感じでもないんだよな、この人は……)
この老紳士がただ者ではないことは確かだ。だが、その差し伸べられた手には一切の邪気がなく、純粋な期待と応援が込められていることを、誠二の直感が告げていた。
誠二は立ち上がり、グレイに向かって深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます、グレイさん! この御恩は、必ず結果でお返しします!」
「礼はいい。楽しみにしているよ、君が描く奇跡の続きをね」
グレイは杯を掲げると、静かに微笑んだ。誠二も弾む心で自分の杯を掲げ、カチンと小さな音を立てて二人の杯が触れ合った。
拙作、お読みいただきありがとうございます!
まだ試行錯誤してますので改稿する可能性があります。
よろしくお願いいたします。




