愚痴と、共感
スラム街での惨状と水源の調査を終えた帰り道、誠二は横を歩くルチアの言葉をなんとか交わしていた。
「セージ、今日のところは一度宿に戻って作戦を練り直しましょう。あのノエルという子の呪いだって、無闇に近づくのは危険すぎるわ!」
「ルチア、気持ちは分かりますけど……俺、ちょっと一人で考えをまとめたいんです。先に宿に戻って休んでいてください」
「えっ、一人で!? スラムの帰りによく分からない路地に入るなんて……ちょっと待ちなさいよ、セージ!」
背後から追いかけてこようとするルチアに対し、誠二は「大丈夫ですから!」と軽く手を振り、前世の営業回りで鍛えた足腰と持ち前の「規格外のタフさ」を発揮して、すばしっこく入り組んだ路地へと滑り込んだ。追跡をうまいこと振り切ったその足で立ち寄ったのは、いつもの小さな居酒屋だった。
路地裏にひっそりと佇むその店は、木製のドアを開けると、ほの暗い店内に酒と油の混ざった匂いが充満している。ルチアには悪いと思いつつも、思考をクリアにするには、一人で静かに麦酒の杯を傾けるこの時間が今の誠二には不可欠だった。
「今日も一人かい、セージさん」
「はい、マスター。ちょっと、考え事がありましてね」
誠二がカウンターの角の席に腰かけると、すぐ隣の席から、澄んだ上品な声がかけられた。
「お若いのに、難しい顔をしているね」
振り向くと、そこにいたのは身なりの整った一人の老紳士だった。
上質な生地で作られた濃紺のコートを着こなし、綺麗に整えられた白髪と白髭が印象的だ。ガタのきている木製のカウンターと、粗野な客が多いこの安居酒屋にはおよそ似つかわしくない、洗練された落ち着いた佇まいで静かに杯を傾けていた。
「……失礼ですが、こういう店には珍しい雰囲気の方ですね」
「私はね、噂話を集めるのが趣味でね。ここは、いい情報源なんだよ。人間の本音と街の生きた情報が、酒の勢いに乗って転がり込んでくる」
老紳士は目元に優しげな皺を刻み、柔らかく笑った。
初対面のはずだった。だが、誠二は不思議と彼に対して警戒心を抱かず、どこか懐かしいような気安さを感じていた。前世のコンサルタント時代に出会った、退職後もどこか飄々としていて懐の深かったベテラン取引先の担当者を、ふと思い出したのだ。
(――なんだろう、この人。妙に落ち着く空気を持っているな)
「お名前、伺ってもよろしいですか?」
「……グレイと呼んでくれれば十分だよ。年寄りの本名なんて、聞いたところで面白くもないだろう」
「グレイさん、ですか」
「よければ、その難しい顔の理由……その考え事とやらを、聞かせてもらえるかな。年寄りの暇つぶしに付き合ってくれると思ってね」
グレイは手元のお酒を一口含むと、誠二の顔をじっと見つめた。その瞳には、単なる物珍しさではない、深い洞察の色が宿っている。
「……実は、ですね」
誠二は少し迷ったものの、先ほどルチアを振り切ってまで一人になりたかった理由――スラム街で直面した二つの大きな問題を、ぽつぽつと語り始めた。
一つはスラム街の汚濁した水路と流行り病のこと。そしてもう一つは、奥深くで出会ったノエルという十六歳の少女と、彼女を苦しめる恐ろしい【呪い】のことだった。
「水の問題だけじゃないんです。……触れた者に強い精神毒や不運を撒き散らす、不気味な刻印を背負わされた少女がいて。放置すれば、その子自身の命だって……」
誠二がノエルの首元の刻印や、呪いの影響について語ると、グレイの表情からわずかに笑みが消え、その瞳に深い影が差した。
「……なるほどな。水の問題、それと不運を撒き散らす『呪い』を抱えた少女か。実は私も、スラムの惨状は昔から気になってはいたのだよ」
「ご存じなんですか、スラムのこと。それに、そういう呪いについても……?」
「まあ、それなりにな。あそこは……もう何年、いや何十年も放置されてきた場所だ。行政も手を出さない。利権や治安問題……権力者たちに『後回し』にされ続けてきたのがあの場所だ。そして、闇に葬られた実験体や呪詛の類も、そうした日陰に流れてつくものさ」
「深く正しい位置に井戸を掘れば、水質はかなり改善できると思うんです。ただ、井戸を掘るための頑丈な滑車や資材、そして何より資金が足りない。……それに、あの子の呪いだって、ただの医学や消毒じゃどうにもならない」
「資金と、呪いを抑える手段……か」
「はい。マフィアの元締めに話は通しましたが、彼らにも余裕はありません。呪い抑制の魔道具なんて、それこそ貴族か大富豪でもなきゃ手に入らないでしょうし……」
話しているうちに前世の予算不足や難題プロジェクトの苦い記憶が蘇ってきたのか、誠二は思わず小さく溜息をつき、ぼやくように呟いた。
「……女神様、もう少し予算とサポートをくれてもいいのに」
「――女神?」
グレイが、ぴくりと片眉を上げた。
誠二はハッとして慌てて自分の口を手で押さえた。異世界転生者であることや脳天気な女神の存在は、絶対に他人に漏らしてはならない秘密だった。
「い、いえ! なんでもありません、ただの独り言です! 気にしないでください」
「ふふ、面白いことを言う若者だね、君は」
グレイは追及することなく、心底楽しそうに声を上げて笑った。
「グレイさんは、この町のこと……特に裏の事情や珍しい呪いについてまで、随分と詳しいんですね」
「長く生きているとね、色々と知りたくなくても耳に入ってくるものだよ。私にもね……若い頃からの、未だに片付かない大きな『宿題』のようなものが残っていてね」
グレイは自嘲気味に呟き、遠くを見るような目で杯を傾けた。誠二も大人の引き際を弁えて深くは突っ込まなかったが、この老紳士がただの噂好きの老人ではないことを確信していた。
「さて、夜も更けてきた。セージさん、君の熱意のある話は良い酒の肴になったよ」
「こちらこそ、愚痴と悩みに付き合っていただいてありがとうございました」
グレイはカウンターに硬貨を置くと、優雅な所作で立ち上がった。誠二の言葉をしっかりと胸に刻んだような深い眼差しを残して、夜の街へと消えていった。
拙作、お読みいただきありがとうございます!
まだ試行錯誤してますので改稿する可能性があります。
よろしくお願いいたします。




