第9章 第3話:負けた恋が、背中を押す
放課後の廊下は、夕方の光に少しだけ沈んでいた。
窓の外では、校庭へ向かう運動部の声が遠く響いている。教室から漏れる笑い声や、鞄の金具が鳴る音、誰かが階段を駆け下りていく足音。それらはいつもと同じ放課後の音なのに、澪の耳には少し遠く聞こえた。
廊下の先に、凛花が立っている。
背筋を伸ばし、鞄を片手に持った姿は、相変わらずまっすぐだった。
夕方の光が彼女の横顔を淡く照らしていて、その表情は静かだけれど、どこか覚悟を決めているようにも見えた。
澪は鞄の持ち手を握り直す。
内側では、星のチャームが小さく揺れた。
まだ外には出せない星。
でも、もう捨ててもいない星。
隠れるためではなく、大事にするために内側へ置いているもの。
そう思えるようになってきた。
けれど、それでもまだ、外側につける勇気は出ない。
凛花は、その迷いを見抜いたのだろうか。
「行こう」
凛花が短く言った。
「うん」
澪は頷き、凛花の隣へ並ぶ。
二人が向かったのは、屋上前の階段だった。
以前、凛花と真正面から話した場所。
彼女が悔しいと言い、ちゃんと負けると言った場所に近い。
階段の踊り場には、人の気配がほとんどなかった。
窓から差し込む夕日が、床に四角い光を落としている。空は橙色から少しずつ紫へ変わり始めていた。
凛花は踊り場で立ち止まる。
澪も、その少し手前で足を止めた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
沈黙は重い。
けれど、以前のような鋭い痛みだけではなかった。
あの時よりも、少しだけ呼吸ができる。
先に口を開いたのは、凛花だった。
「朝倉さん」
「うん」
「まだ、見られるのが怖い?」
いきなり核心だった。
澪は思わず言葉に詰まる。
凛花は、やっぱりまっすぐだった。
遠回しな探り方をしない。
逃げ道を作ってくれない代わりに、こちらをちゃんと一人の相手として見てくれる。
「……怖い」
澪は正直に答えた。
「まだ、怖い」
凛花は小さく頷く。
「鞄」
「え?」
「外には何もついてなかった」
澪の胸が小さく跳ねる。
やっぱり、見ていた。
「星のチャーム、まだ内側?」
「……うん」
「神谷くんも?」
「うん」
「そう」
凛花は窓の外へ視線を向けた。
沈黙。
澪は鞄の持ち手を握る手に力を込める。
「凛花さん」
「何」
「責める?」
思わず聞いてしまった。
凛花は少しだけ目を瞬かせる。
それから、ほんのわずかに眉を寄せた。
「責めてほしいの?」
「……わからない」
「朝倉さんらしい」
「どういう意味」
「自分で自分を責めきれない時、誰かに代わりに責めてもらおうとするところ」
その言葉が胸に刺さる。
図星だった。
澪は何も言えなくなる。
凛花はため息をつくでもなく、淡々と続けた。
「責めない」
「……」
「まだ怖いこと自体は、責めることじゃない」
「うん」
「でも」
凛花は澪を見た。
「逃げ続けるなら、たぶん言う」
その声は厳しかった。
でも、冷たくはなかった。
「逃げ続けるなら」
澪は小さく繰り返す。
「そう」
「今の私は、逃げてる?」
聞くのは少し怖かった。
凛花はすぐには答えなかった。
澪の顔を見て、鞄を見て、それからまた目を合わせる。
「迷ってる」
凛花は言った。
「逃げてるというより、迷ってる」
その言葉に、胸の奥が少し震えた。
逃げている。
そう言われる覚悟をしていた。
けれど凛花は、そう断じなかった。
「迷ってる?」
「ええ」
「どう違うの」
「逃げてる時は、見ないふりをする」
「うん」
「迷ってる時は、見てるけど動けない」
凛花はまっすぐ言う。
「今の朝倉さんは、見てる」
澪の喉が少し熱くなる。
「見てるかな」
「見てる」
「怖くて、内側に戻したのに」
「戻したことを、ちゃんと気にしてる」
「うん」
「神谷くんとも話してるんでしょ」
「うん」
「夏希さんにも、ひなにも」
「……うん」
「なら、完全には逃げてない」
その言葉に、少しだけ救われそうになって、澪は自分を止めた。
救われすぎてはいけない。
そう思ってしまう癖が、まだある。
凛花はそれも見抜いたように、少しだけ目を細める。
「でも、甘いことだけ言うつもりはない」
「うん」
「勝ったなら、ちゃんと隣に立ちなさい」
その言葉は、まっすぐ澪の胸に届いた。
勝ったなら。
恋で勝った人が、負けた人に謝るのは違う。
以前、凛花はそう言った。
その言葉の続きのようだった。
「それ、厳しいね」
澪は小さく言った。
凛花は少しだけ口元を動かす。
「厳しく言えるくらいには、本気で好きだったから」
胸が、ぎゅっと痛んだ。
凛花は朔を本気で好きだった。
だからこそ、澪が中途半端に隠れ続けることを許したくないのだ。
それは責めではない。
凛花の恋が、本気だった証だ。
「神谷くんの隣」
凛花は続ける。
「立ちたかった」
「……うん」
「私も、ちゃんと立つつもりだった」
「うん」
「負けたけど、その気持ちは軽くない」
「うん」
「だから、朝倉さんが選ばれたのに、ずっと下を向いてるなら腹が立つ」
澪は唇を噛んだ。
厳しい。
でも、正しい。
「私」
澪はゆっくり言う。
「幸せになるって決めた」
「うん」
「凛花さんにも、白瀬さんにも、ひなにも、ちゃんとそう言った」
「うん」
「でも、見られるのが怖いと、すぐに足が止まる」
「うん」
「星のチャームも、外につけようとしたけど、できなかった」
「うん」
「そのたびに、まだ逃げてるって思う」
言葉にすると、胸の奥にあった重さが少し形になる。
「逃げるのが嫌なのに」
「うん」
「怖くて、動けなくなる」
凛花は静かに聞いていた。
その姿勢が、以前より少しやわらかく感じる。
鋭さはある。
でも、突き放すためではなく、受け止めたうえで押し返すための鋭さだった。
「朝倉さん」
「うん」
「怖いまま立てばいい」
澪は顔を上げる。
「怖いまま?」
「怖さが消えるまで待っていたら、たぶんずっと動けない」
「……」
「私も怖かった」
「凛花さんも?」
「当たり前でしょ」
凛花は少しだけ眉を上げる。
「好きだって伝える時も、負けたって認める時も、怖くなかったわけじゃない」
「……そうなの?」
「そう見えなかった?」
「見えなかった」
「なら、少しはうまくやれてたのね」
凛花はわずかに笑った。
「でも、怖かった」
その声は静かだった。
「神谷くんに好きって言うのも」
「うん」
「朝倉さんに負けたって言うのも」
「うん」
「ちゃんと負けるって決めるのも」
「うん」
「全部、怖かった」
澪は何も言えなかった。
凛花は強い。
けれど、それは怖くないから強いのではなかった。
怖くても、逃げないことを選んできたから強いのだ。
「だから」
凛花は澪を見る。
「朝倉さんにも、怖くない人になれとは言わない」
「うん」
「怖いまま、神谷くんの隣に立てばいい」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。
怖いまま、隣に立つ。
それなら、自分にもできるかもしれない。
怖さが消える日を待つのではなく。
怖いと知ったまま、一歩だけ進む。
「私」
澪は小さく言う。
「凛花さんに、背中を押されてる?」
「そう見える?」
「うん」
「なら、そう」
凛花はあっさり言った。
「どうして」
「言ったでしょ」
「うん」
「中途半端に隠れてるのを見たくないから」
「……」
「私が本気で好きだった人を、朝倉さんが選んで、選ばれたなら」
凛花の目は、まっすぐだった。
「ちゃんと幸せになってほしい」
澪の目の奥が熱くなる。
「凛花さん」
「泣かないで」
「まだ泣いてない」
「泣きそう」
「……うん」
「そこで泣かれると、私が悪者みたいになる」
「ごめん」
「謝らない」
いつかと同じやり取り。
でも、そこにある温度は少し変わっていた。
痛みは残っている。
悔しさも、完全には消えていないだろう。
それでも、二人の間には以前より少しだけ違う信頼があった。
「朝倉さん」
「うん」
「星のチャーム」
「うん」
「外につける日が来たら、ちゃんと見る」
澪は息を止めた。
「凛花さんも?」
「見る」
「つらくない?」
「少しは」
凛花は正直に言った。
「でも、見ないふりをしたくない」
「……」
「朝倉さんが逃げずに外へ出したものなら、私も逃げずに見る」
その言葉が、胸に深く刺さる。
ひなも同じことを言ってくれた。
外につけたら、ちゃんと見ると。
凛花も、そう言ってくれる。
それは祝福だけではない。
まだ痛みを抱えたままの視線だ。
でも、だからこそ重い。
「怖いね」
澪は思わず呟いた。
凛花は頷く。
「怖いでしょ」
「うん」
「でも、見られて終わりじゃない」
「うん」
「見られて、それでも立っているところから始まることもある」
澪はその言葉を胸の中で繰り返した。
見られて終わりじゃない。
見られて、それでも立つ。
隠れない恋は、ずっとそういうことだったのかもしれない。
「私」
澪は鞄に触れた。
「まだ、明日すぐ外につけられるかはわからない」
「うん」
「でも、外につけたいとは思ってる」
「うん」
「怖いけど」
「うん」
「朔と一緒に、外に出したい」
凛花は小さく頷いた。
「なら、その気持ちはなくさないで」
「うん」
「怖いからって、外に出したい気持ちまでなかったことにしないで」
その言葉に、澪は静かに頷いた。
「うん」
「なくさない」
「ならいい」
凛花は少しだけ息を吐いた。
沈黙が落ちる。
今度の沈黙は、さっきより少しだけやわらかかった。
夕日がさらに傾き、踊り場の光が赤くなる。
窓の外では、校庭の声が少し遠ざかっていた。
「凛花さん」
「何」
「ありがとう」
「お礼を言われることじゃない」
「でも、言いたい」
「……なら、受け取る」
凛花は以前と同じように答えた。
その言い方が少しだけ照れているようで、澪は小さく笑った。
「何」
「凛花さん、受け取り方が少しやわらかくなった」
「気のせい」
「そうかな」
「そう」
凛花は目を逸らした。
その横顔は、以前より少しだけ近く感じた。
「朝倉さん」
「うん」
「私は、まだ完全に平気になったわけじゃない」
「うん」
「神谷くんを見ると、悔しさが戻る時もある」
「うん」
「でも」
凛花は澪を見る。
「あなたたちがちゃんと向き合っているなら、私は私の負け方を間違えずに済む」
「……」
「だから、ちゃんとしなさい」
最後は、やっぱり凛花らしい厳しさだった。
澪は深く頷いた。
「ちゃんとする」
「神谷くんのことも」
「うん」
「自分のことも」
「うん」
「自分を責めることを、誠実さと勘違いしないこと」
思いがけない言葉に、澪は目を瞬かせた。
「それ、白瀬さんみたい」
「……白瀬さんも同じようなこと言ったの?」
「うん」
「なら、よほどそう見えるんでしょ」
「そんなに?」
「そんなに」
凛花は少しだけ呆れたように言う。
「朝倉さんは、選ばれたことを罪みたいに持つ癖がある」
「……」
「それ、負けた側からすると、少し失礼」
胸が小さく痛んだ。
「失礼」
「ええ」
「どうして」
「私たちは、朝倉さんを苦しめるために好きだったわけじゃない」
凛花の声は静かだった。
「私は私の恋を本気でやった」
「うん」
「負けたのも、私のもの」
「うん」
「それを朝倉さんが全部罪悪感に変えたら、私の恋まで朝倉さんの問題になる」
その言葉は、鋭く深かった。
澪は何も言えなくなる。
「凛花さんの恋は、凛花さんのもの」
「そう」
「私が勝手に罰にしちゃだめ」
「そう」
「……うん」
澪はゆっくり頷いた。
凛花の恋を軽くしたくないと思っていた。
でも、自分が罪悪感ばかり抱えることもまた、凛花の恋を自分の罰に変えてしまうことだったのかもしれない。
それは違う。
「ちゃんと幸せになる」
澪は小さく言った。
「罰としてじゃなくて」
「うん」
「凛花さんの恋を、私の罪にしないで」
「うん」
「ちゃんと、私の恋として」
言葉にすると、胸の奥が熱くなった。
「朔の隣に立つ」
凛花は静かに頷いた。
「ならいい」
その一言が、許しではなく、認める言葉として届いた。
階段を下り、廊下へ戻る頃には、校舎の中はだいぶ静かになっていた。
部活へ向かった生徒たちの声が遠く響いているだけで、廊下にはほとんど人がいない。
昇降口の手前で、凛花が足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「うん」
「また明日」
凛花は少し歩き出してから、ふと振り返った。
「朝倉さん」
「何?」
「外につける日、神谷くんだけじゃなくて、ちゃんと自分でも決めなさい」
「……うん」
「誰かに押されただけじゃなくて」
「うん」
「自分で」
その言葉に、澪はまっすぐ頷いた。
「わかった」
「ならいい」
凛花は今度こそ背を向けて歩いていった。
その背中は、やっぱりまっすぐだった。
負けた恋を抱えて、それでも曲がらずに歩いていく背中。
澪はその場で、鞄の内側に触れた。
青い星が指先に当たる。
まだ内側。
でも、その星の意味は、少し変わっていた。
隠しているだけではない。
準備している。
怖いまま、いつか外へ出すために。
澪はスマート端末を取り出した。
朔へメッセージを打つ。
『凛花さんと話した』
『厳しかった』
『でも、背中押された』
少しして、返信が来る。
『大丈夫?』
澪は短く打つ。
『うん』
『怖いまま立てばいいって言われた』
すぐに既読がついた。
『篠宮さんらしい』
『強いな』
澪は画面を見つめて、小さく頷いた。
『うん』
『すごく強い』
送信してから、澪はもう一度鞄の内側の星に触れる。
負けた恋が、背中を押してくれた。
痛みを残したまま、それでも前を向いて。
その強さを、自分の罪悪感に変えてはいけない。
ちゃんと受け取って、自分の足で立たなければいけない。
昇降口を出ると、夕方の風が澪の頬を撫でた。
空には一番星が小さく光っていた。
青い星のチャームは、まだ鞄の内側で揺れている。
けれど澪は、その星が少しずつ外の光へ近づいているような気がした。




