第9章 第2話:まだ内側にある星
翌朝、澪は鞄の前でしばらく動けずにいた。
机の上に置いた鞄。
その内側のファスナーには、青い星のチャームがついている。
昨日の夜、アステリオで告知された《星冠祭》。
積み重ねられた絆と歩みを、星の記憶として可視化する祭。
ノアとアークの記録も、きっと対象になる。
怖い。
でも、見たい。
そう思えた。
ノアとしてアークの隣にいた時間を、もう消したくないと思えた。
隠していた痛みも、言えなかった苦しさも、全部なかったことにはしたくないと思えた。
それなら。
澪は星のチャームに指をかける。
外側につけてみる。
ほんの少しだけ、そう思った。
内ポケットのファスナーからチャームを外し、鞄の外側にある金具へ近づける。
青い星が朝の光を受けて、小さくきらめいた。
ここにつければ、見える。
学校へ行けば、誰かが気づくかもしれない。
夏希はたぶんすぐ気づく。
ひなも見る。
凛花や由良も、きっと。
そして、クラスの誰かが言うかもしれない。
朝倉、それ神谷とお揃い?
そう想像した瞬間、指が止まった。
心臓が少しだけ速くなる。
嫌ではない。
でも、まだ怖い。
澪はしばらく金具の前で固まっていた。
それから、ゆっくりと息を吐く。
「……まだ」
小さく呟いて、星のチャームを元の場所へ戻した。
鞄の内側。
開ければ見える。
外からは見えない。
そこに青い星が揺れる。
隠している。
そう思うと少し苦しい。
でも、昨日朔と話したことを思い出す。
逃げるためではなく、大事にするための線。
まだ話せないことは、まだ話せないと言うこと。
全部を見せなくても、隣には立てること。
今は、まだ内側。
それは逃げだろうか。
それとも準備だろうか。
澪は鞄を閉じた。
答えはまだ出ない。
でも、今日はそれを持ったまま行くしかない。
玄関を出ると、朝の空気は少し冷たかった。
空はよく晴れている。
住宅街の屋根に淡い光が落ちていて、どこかの家から朝食の匂いが漂ってきた。
いつもの曲がり角へ向かう。
角の向こうには、朔がいた。
制服姿で、鞄を肩にかけている。
澪に気づくと、顔を上げた。
「おはよ」
「おはよう」
挨拶を交わす。
それだけで、胸の奥が少し落ち着いた。
澪はすぐに、朔の鞄へ視線を向けてしまった。
月のチャームは、見えない。
「……内側?」
澪が小さく聞くと、朔はすぐに意味を察したようだった。
「内側」
「そっか」
「澪は?」
「内側」
「そっか」
二人は少しだけ黙った。
並んで歩き出す。
朝の道には、学校へ向かう生徒の姿が少しずつ増えていく。
手は繋がない。
でも、歩幅は自然に合っていた。
「迷った?」
朔が聞いた。
澪は少しだけ笑う。
「わかる?」
「わかる」
「外につけようとした」
「うん」
「でも、やめた」
「うん」
「まだ怖かった」
「うん」
朔は責めなかった。
残念そうにも見えなかった。
ただ、澪の言葉をそのまま受け取ってくれる。
それがありがたくて、少しだけ胸が痛い。
「朔は?」
澪が聞く。
「俺も迷った」
「本当に?」
「うん」
「外につけようとした?」
「した」
「でも?」
「やめた」
「どうして」
朔は少しだけ考えるように前を見た。
「澪がどうするかわからなかったから」
「……私に合わせた?」
「合わせたというか」
朔は言葉を探す。
「一緒に出したいと思った」
その一言に、胸が静かに鳴る。
「一緒に」
「うん」
「俺だけ外につけてもいいけど」
「うん」
「澪が内側にしてるなら、俺も今日は内側でいいと思った」
「……」
「出したくなった時に、一緒に出そう」
澪は鞄の持ち手を握りしめた。
「いいの?」
「何が」
「待ってくれるの」
「待つ」
「朔は、外につけたかった?」
「少し」
「ごめん」
「謝らない」
すぐに返ってきた。
澪は思わず顔を上げる。
朔は少しだけ困ったように笑っていた。
「澪が悪いことしたわけじゃない」
「でも」
「出したくなった時でいい」
「……うん」
「内側でも、あるのは本当だろ」
「うん」
「俺たちが知ってる」
「うん」
「今はそれでいい」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
今はそれでいい。
完璧ではない。
勇気が足りないのかもしれない。
でも、今日の自分を罰にしなくていい。
「ありがとう」
澪が言うと、朔は小さく頷いた。
「うん」
「でも」
「うん」
「いつか、外につけたい」
その言葉は、自分の中から自然に出た。
朔がこちらを見る。
「うん」
「まだ怖いけど」
「うん」
「外につけたい気持ちもある」
「うん」
「だから」
澪は少しだけ息を吸う。
「その時は、一緒につけて」
朔の表情がやわらかくなった。
「もちろん」
「うん」
「一緒につける」
短い約束。
でも、その約束だけで足取りが少し軽くなった。
学校に着くと、教室はいつも通りざわついていた。
澪が席に着くなり、夏希が後ろから声をかけてくる。
「朝倉」
「……何」
「今日は内側?」
いきなりだった。
澪は鞄を机に置く手を止める。
「何で」
「顔」
「もう本当に禁止にしたい」
「あと、鞄の置き方」
「置き方まで?」
「外に何もついてないのに、ちょっと気にしてた」
「観察しすぎ」
「友達だからね」
夏希は軽く笑った。
それから、澪の隣の席に腰を下ろす。
「迷ったんでしょ」
「……うん」
「外につけようとして、やめた?」
「うん」
「神谷は?」
「内側」
「合わせてくれた?」
「一緒に出したいって言ってくれた」
言いながら、少しだけ顔が熱くなる。
夏希は一瞬黙った。
それから、にやりと笑う。
「いい彼氏じゃん」
「……うん」
「そこは否定しないんだ」
「しない」
「強くなったねえ」
「茶化さないで」
「半分本気」
夏希はそう言って、少しだけ真面目な顔になる。
「で、朝倉」
「うん」
「外につけないの、逃げだと思ってる?」
鋭い。
澪はすぐには答えられなかった。
「……少し」
「やっぱり」
「でも、準備中なのかなとも思う」
「それでいいんじゃない」
「いいの?」
「隠れてるんじゃなくて、準備中ってことでしょ」
夏希はあっさり言った。
「準備中」
「そう」
「そんな簡単に」
「簡単じゃないから準備してるんでしょ」
その言葉に、澪は少しだけ目を瞬かせる。
夏希はいつも、こういうところで迷いを単純にしてくれる。
雑に切り捨てるわけではなく、絡まりすぎた糸を少しだけほどいてくれる。
「内側にあるんでしょ」
「うん」
「捨ててない」
「うん」
「なかったことにもしてない」
「うん」
「でも、まだ外に出すのは怖い」
「うん」
「なら、準備中」
夏希は軽く肩をすくめる。
「それでよくない?」
澪は少しだけ笑った。
「夏希、時々すごいね」
「時々?」
「よくすごい」
「よろしい」
夏希は満足そうに頷いた。
「外につけたら、ちゃんと見るから」
「……見るの?」
「見るでしょ」
「からかわない?」
「少しは」
「夏希」
「でも、ちゃんと喜ぶ」
その言葉に、胸が温かくなった。
「ありがとう」
「はいはい。受け取る」
午前中は、いつもより少しだけ落ち着いて過ごせた。
チャームは内側にある。
外からは見えない。
でも、自分が準備中なのだと思うと、少し息がしやすかった。
隠している。
そう責めるだけではなく、
まだ出せないものを、大事に持っている。
それでいいのだと、少しだけ思えた。
昼休み、ひなが教室へやってきた。
「朝倉先輩」
「何?」
「星、今日は内側ですか?」
やっぱり気づかれている。
澪は少しだけ苦笑した。
「うん」
「外につけるか迷いました?」
「迷った」
「ですよね」
「そんなにわかる?」
「わかります」
ひなは胸を張った。
「わたし、朝倉先輩の顔を読む力が上がってます」
「上げなくていい」
「勝手に上がりました」
その明るさに、澪は少し笑う。
ひなは澪の鞄を見て、それから小さく言った。
「見える場所につけたら、ちゃんと見ます」
その声は、いつもより少し静かだった。
澪は顔を上げる。
「ひな」
「はい」
「無理しなくていいよ」
「無理はちょっとします」
「ひな」
「でも、壊れる無理じゃないです」
ひなはそう言って笑った。
「まだ、ちょっと悔しいのは本当です」
「……うん」
「神谷先輩と朝倉先輩が並んでるのを見ると、胸がちくっとします」
「うん」
「でも、ちゃんと見たいです」
その言葉に、胸が痛んで、同時に温かくなる。
「どうして?」
「わたし、逃げないって決めたので」
ひなはまっすぐに言った。
「朝倉先輩が幸せになるところ、ちゃんと見ます」
「……」
「見ないふりをして、なかったことにしたら」
ひなの声が少しだけ揺れる。
「わたしの好きだった気持ちまで、負けたまま止まっちゃう気がするので」
澪は言葉を失った。
ひなは強い。
明るさの中に、ちゃんと痛みを持っている。
そして、その痛みごと前へ進もうとしている。
「だから」
ひなは笑う。
「外につけたら、ちゃんと見ます」
「うん」
「ちょっと悔しがってから、褒めます」
その言い方がひならしくて、澪は泣きそうになりながら笑った。
「ありがとう」
「お礼は受け取ります」
「うん」
「でも、急がなくていいです」
ひなは少しだけ声をやわらげた。
「朝倉先輩のタイミングで」
澪は静かに頷いた。
「うん」
「私のタイミングで」
ひなが去ったあと、澪は鞄の内側に触れた。
青い星は、まだそこにある。
見える場所にはない。
でも、誰かがそれを待ってくれている。
急かさずに。
責めずに。
ただ、見たいと言ってくれる。
それだけで、少し勇気が増える気がした。
放課後が近づく頃、澪は廊下で凛花とすれ違った。
凛花はいつも通り背筋を伸ばしていた。
目が合う。
ほんの一瞬だけ、彼女の視線が澪の鞄へ落ちた。
外側には何もついていない。
凛花はすぐに顔を上げる。
「朝倉さん」
「……うん」
「今日、少し時間ある?」
静かな声だった。
澪の胸が小さく鳴る。
凛花と話すのは、第7章で向き合って以来だ。
あの時、彼女は「ちゃんと負ける」と言った。
悔しいと認めながら、それでも背筋を曲げなかった。
その凛花が、今また澪を呼び止めている。
「ある」
澪は頷いた。
「放課後なら」
凛花は小さく頷く。
「じゃあ、終わったら少しだけ」
「うん」
凛花はそのまま廊下を歩いていった。
その背中は相変わらずまっすぐだった。
澪はその場に少し立ち止まる。
胸の奥に、静かな緊張が広がっていた。
チャームを外に出す勇気。
見られること。
選ばれた側として、隣に立つこと。
たぶん凛花は、そこから目を逸らさない。
放課後、終礼が終わると、教室にはいつものざわめきが広がった。
朔が澪の席へ近づいてくる。
「帰る?」
「うん。でも」
澪は少しだけ声を落とす。
「凛花さんに、少し話したいって言われた」
朔の表情が少しだけ変わる。
「そっか」
「うん」
「大丈夫?」
「たぶん」
「終わるまで待ってる?」
澪は少し考えてから、首を振った。
「今日は先に帰ってて」
「いいの?」
「うん」
「凛花さんと、ちゃんと話したい」
朔は静かに頷いた。
「わかった」
「ごめん」
「謝らない」
「……うん」
「終わったらメッセージして」
「うん」
「無理はするな」
「うん」
「でも、逃げなくていい」
その言葉に、澪は少しだけ笑った。
「わかってる」
「ならいい」
朔は澪の鞄へちらりと視線を向けた。
「星」
「うん」
「今日は内側でいい」
「うん」
「いつか外に出す時は、一緒に」
「うん」
「約束」
短くそう言って、朔は教室を出ていった。
その背中を見送りながら、澪は鞄の持ち手を握った。
まだ内側にある星。
でも、その星はもう、ただ隠れているだけではない。
自分が外に出す日を待っている。
それを見てくれる人たちがいる。
隣で一緒に出してくれる人がいる。
そう思うと、怖さの奥に、小さな光が灯るようだった。
放課後の廊下で、凛花が待っていた。
夕方の光が窓から差し込み、彼女の横顔を淡く照らしている。
澪は深呼吸をして、歩き出す。
鞄の内側で、青い星が小さく揺れた。




