第9章 第1話:最終イベントの告知
アステリオの中央広場にログインした瞬間、ノアは空を見上げた。
いつもの夜空とは違っていた。
頭上には、星を編んだような巨大な環が浮かんでいる。
青白い光の輪が幾重にも重なり、ゆっくりと回転していた。広場の噴水から立ち上る粒子も、今日はいつもより明るく、まるで星屑が水面から空へ帰っていくように舞っている。
広場全体が、何かを待っていた。
プレイヤーたちもざわついている。
あちこちでチャットウィンドウが開き、掲示板の速報を確認する声や、イベント予想をする声が飛び交っていた。
『今日、公式発表あるらしいぞ』
『大型アップデート?』
『星冠祭って名前だけ出てたやつ?』
『記念イベント系じゃないの?』
『絆記録がどうとか書いてあった』
絆記録。
その言葉が耳に入った瞬間、ノアの胸が小さく鳴った。
前回の大型イベント、《星環試練・双影の迷宮》。
あの最奥で、ノアとアークは声だけを頼りに互いを信じた。
見えない場所で選び、進み、支え合った。
怖かった。
でも、確かに信じられた。
その感覚は、今も胸の奥に残っている。
信じることも、恋の続き。
自分でそう思えた夜だった。
ノアは広場の端へ移動し、人の流れから少しだけ外れる。
足元の石畳には、今日だけの特別な魔導紋が浮かんでいた。星と月、剣と花、鏡のような模様。それらが光の線で結ばれ、中央の噴水へ集まっている。
まるで、今までの道がどこかへ繋がっていくみたいだった。
『ノア』
個別回線に声が入る。
振り向く前に、胸が少しだけあたたかくなった。
「アーク」
黒い装備のアークが、人混みの向こうから歩いてくる。
広場の光を受けて、背中の剣が淡く反射していた。
見慣れた姿。
でも、今はその姿を見るだけで少し安心する。
『早かったな』
「アークも」
『公式発表、気になって』
「うん」
「広場、すごいね」
『ああ』
アークも空を見上げる。
『いつものイベント前より、演出が大きい』
「星冠祭って、何なんだろう」
『告知文だけだと、記念イベントっぽかったけど』
「絆記録って聞こえた」
『俺も見た』
アークは少しだけ表情を引き締める。
『過去の連携履歴を使うらしい』
「……連携履歴」
『パーティ活動とか、ペア戦闘とか、長く一緒にいた相手との記録を可視化するって』
「可視化」
その言葉が、胸に引っかかった。
可視化。
見えるようになる。
ノアとアークの時間が。
ずっと隠していた頃の時間も。
正体を言えずに苦しかった頃の連携も。
好きなのに、名前の奥を見せられなかった時間も。
それが、イベントとして他の誰かにも見えるのだろうか。
ノアは自分の手を見下ろした。
アバターの細い指先。
現実の澪とは違う手。
けれど、アークと何度も繋いだ手。
ノアとして積み重ねた時間は、本物だ。
そう思えるようになってきた。
でも、それを誰かに見られることには、まだ少し怖さがある。
『ノア』
アークが低く呼ぶ。
『大丈夫?』
「……うん」
反射的に答えてから、すぐに首を振る。
「違う」
『うん』
「少し、怖い」
言えた。
前なら、大丈夫だと言い切っていたかもしれない。
怖さを隠して、平気なふりをしていたかもしれない。
でも今は、それをしないと決めている。
『俺も』
アークは静かに言った。
「アークも?」
『うん』
『俺たちの記録が見えるってことだろ』
「うん」
『嬉しい気もする』
「うん」
『でも、怖い』
「……うん」
『ノアと過ごした時間は大事だけど』
アークは少しだけ言葉を探すように間を置いた。
『あの頃のノアが苦しかったことも知ってるから』
胸の奥が静かに痛んだ。
アークは、ノアの時間をきれいなものだけとして見ていない。
楽しかったことも、連携がうまくいったことも、笑ったことも。
でも、その裏にあった澪の痛みも知っている。
だからこそ、その記録が外へ出ることを、ただ喜ぶだけではいられないのだろう。
「私たちの時間が、外に出るんだね」
ノアは小さく言った。
『うん』
「怖い」
『うん』
「でも」
ノアは広場の空を見上げる。
星の環がゆっくり回っている。
「消したくはない」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に出た。
隠していた時間だった。
苦しかった時間だった。
後悔もある。
朔を傷つけたこともある。
それでも、アークの隣にいた時間を、なかったことにはしたくない。
ノアとして走った戦場。
アークと交わした短い合図。
水鏡庭で笑ったこと。
星骸の渡り廊で触れた言葉。
全部、確かに自分の一部だ。
アークが静かに頷いた。
『俺も、消したくない』
「うん」
『怖いけど、俺は消したくない』
「私も」
ノアは少しだけ笑った。
「消したくない」
その時、広場全体に鐘の音が鳴り響いた。
低く、澄んだ音。
噴水の粒子が一斉に空へ舞い上がり、中央の星環が強く輝く。
プレイヤーたちの声が一瞬で静まった。
空に巨大なシステムウィンドウが開く。
《公式記念イベント告知》
《星冠祭》
《近日開催》
広場がどよめく。
続いて、説明文が光の文字として浮かび上がった。
《星冠祭は、アステリオで積み重ねられた絆と歩みを祝福する記念祭です》
《共に戦った記録、支え合った記録、交わした選択が、星の記憶として可視化されます》
《長く行動を共にした仲間、特別な連携を重ねたパートナーには、専用の星冠記録が開示されます》
ノアの胸が強く鳴った。
専用の星冠記録。
その言葉の下に、いくつかの映像サンプルが流れる。
プレイヤー同士が背中合わせに戦う姿。
倒れた仲間を支える姿。
同じ場所で何度も挑戦し、最後に勝利する姿。
まるで、誰かの思い出が星の中に閉じ込められたみたいだった。
美しい。
けれど、少し怖い。
あれが、ノアとアークにも起きるのかもしれない。
自分たちの記録が、星として形になる。
『やっぱり』
アークが言った。
『対象になりそうだな』
「うん」
「私たち、かなり一緒に戦ってる」
『連携回数も多い』
「イベントのペアギミックも」
『記録に入ってるだろうな』
ノアは黙って頷いた。
星環試練の最奥。
声だけで繋がった試練。
あれも、きっと記録されている。
あの時の自分たちは、怖さを隠さなかった。
信じた。
それは誇れる記録のはずだ。
でも、その前の記録はどうだろう。
ノアが澪であることを隠していた頃。
アークの隣にいたい一心で、ノアとして近づいていた頃。
あの時間も、星になるのだろうか。
それを見た時、自分はどう感じるのだろう。
広場に、さらに詳細が表示される。
《星冠祭では、記録の公開範囲を各プレイヤーが選択できます》
《個人記録、パーティ記録、ペア記録の一部は、本人の承認により公開可能です》
《公開は任意です》
「任意……」
ノアは小さく呟いた。
全部が勝手に公開されるわけではない。
それを知って、少しだけ安心する。
でも同時に、選ばなければいけないということでもある。
見せるのか。
見せないのか。
どこまで見せるのか。
それは、今まで何度も向き合ってきた問いと同じだった。
隠さないとは何か。
全部を見せることなのか。
守るために線を引くことなのか。
逃げるための嘘をつかないことなのか。
アステリオは、またその問いをノアの前へ差し出してきた。
『ノア』
アークの声が近い。
『今すぐ決めなくていい』
「……うん」
『任意って書いてある』
「うん」
『俺たちで決めよう』
「うん」
その言葉に、少し呼吸が楽になる。
俺たちで決める。
一人で裁かない。
一人で罰にしない。
何度も約束してきたことだ。
「怖いね」
『怖い』
「でも、少し見たい気もする」
『俺も』
「私たちの記録」
『うん』
「ノアとして、アークと積み重ねた時間」
『うん』
「怖いけど、見たい」
アークは小さく頷いた。
『じゃあ、まずは二人で見る』
「うん」
『公開するかどうかは、そのあと考える』
「うん」
『セレスたちに見せたいかどうかも』
「うん」
『無理に決めない』
「……うん」
ノアは胸に手を当てる。
怖さは消えない。
でも、道筋があると少しだけ立っていられる。
広場には、さらに祝祭の演出が広がっていた。
星冠祭の開催日。
参加条件。
特別クエスト。
記念称号。
限定エリア。
プレイヤーたちは興奮した様子で話し始める。
『やばい、絶対参加する』
『ペア記録とか熱いな』
『これ、相方いる人めちゃくちゃ盛り上がるやつ』
『ソロ勢には関係ない?』
『パーティ記録もあるって』
『称号欲しい!』
その中で、ノアは静かに立っていた。
隣にアークがいる。
それだけで、ざわめきの中でも自分を見失わずにいられる。
そこへ、明るい声が飛んできた。
『ノアさん! アークさん!』
ピピだった。
セレスとフレアも一緒にいる。
三人とも、今の告知を見ていたのだろう。
ピピはもう目を輝かせていた。
『見ました!? 星冠祭! 絆記録ですよ! 絶対わたしたち対象ですよね!』
『落ち着きなさい』
フレアが言う。
『無理です! これは落ち着けません!』
セレスは穏やかに微笑んでいる。
『とても綺麗なイベントになりそうですね』
ピピはノアとアークを交互に見た。
そして、期待に満ちた声で言う。
『ノアさんとアークさんのペア記録、すごそうです!』
ノアの胸が跳ねる。
ピピに悪気はない。
むしろ、心から楽しみにしている声だった。
だからこそ、すぐには返事ができなかった。
アークが一歩だけノアの隣に寄る。
『まだ、どうするかは決めてない』
彼は静かに言った。
ピピが目を瞬かせる。
『公開範囲のことですか?』
『うん』
『あ……そうですよね』
ピピは少しだけ表情を変えた。
勢いだけではなく、ちゃんと察した顔になる。
『すみません。見たいって思っちゃいましたけど、二人の記録ですもんね』
その素直な言葉に、ノアは少し救われた。
「ううん」
「見たいって言ってくれるの、嫌じゃない」
『ほんとですか?』
「うん」
「でも、まだ少し怖い」
ノアは正直に言った。
ピピはこくこくと頷く。
『じゃあ、待ちます!』
「待つ?」
『はい! ノアさんとアークさんが、見せてもいいって思ったら見せてください』
『ピピにしては良い距離感』
フレアが言う。
『今ちょっと褒められました!?』
『少し』
『やりました!』
ピピが嬉しそうにする。
セレスがノアへ視線を向けた。
『大切な記録ほど、見せるのに勇気がいりますよね』
「……うん」
『見せなくても、消えるわけではありません』
その言葉が、胸に静かに届いた。
見せなくても、消えるわけではない。
内側につけた星のチャームと同じだ。
見えなくても、そこにある。
大事にしているから、すぐに外へ出さないこともある。
『でも』
セレスはやさしく続ける。
『いつか見せたいと思えた時には、きっととても綺麗に見えると思います』
「うん」
「ありがとう」
ノアは小さく頷いた。
フレアは腕を組んだまま、淡々と言った。
『戦闘記録としては、ノアとアークの連携は公開価値が高い』
『フレアさん、雰囲気!』
ピピが突っ込む。
『事実を言っただけ』
『でも今はもう少し情緒を!』
『情緒はセレス担当』
『分担制なんですか!?』
そのやり取りに、ノアは思わず笑ってしまった。
笑える。
それだけで、少し楽になる。
ピピがぱっと顔を明るくした。
『でも、星冠祭は五人でも参加しましょうね!』
『もちろん』
セレスが頷く。
『パーティ記録もありますし』
『五人の記録なら、見たい』
ノアは自然に言った。
自分でも少し驚く。
でも、五人で戦った時間は見たいと思った。
セレスが支えてくれたこと。
フレアが冷静に導いてくれたこと。
ピピが明るく場を動かしてくれたこと。
アークが隣にいたこと。
それは、ちゃんと見たい。
『嬉しいです!』
ピピが笑う。
『じゃあ五人の星冠記録、絶対見ましょう!』
『公開するかは別として』
フレアが釘を刺す。
『はい、まずは自分たちで!』
セレスも微笑む。
『それがいいと思います』
その会話の中で、ノアは少しずつ胸の緊張がほどけていくのを感じていた。
全部をすぐに外へ出さなくていい。
でも、見たいと思えるものがある。
消したくないと思える時間がある。
それだけで、十分に前へ進んでいる気がした。
しばらく五人で星冠祭の告知内容を確認したあと、それぞれログアウトすることになった。
ピピは最後まで楽しみにしていると騒ぎ、フレアは攻略情報をまとめると言い、セレスは「無理のない範囲で楽しみましょう」と穏やかに締めた。
三人が去ったあと、ノアとアークは中央広場の噴水前に残った。
空にはまだ、星冠祭の光の文字が揺れている。
『ノア』
「うん」
『今日、どうだった?』
「怖かった」
『うん』
「でも、消したくないって思った」
『うん』
「前より、少しだけ」
ノアは胸の奥を確かめるように言った。
「ノアとしていた時間を、大事にしたいって思えた」
アークは静かに頷いた。
『俺も大事にしたい』
「うん」
『綺麗なところだけじゃなくて』
「うん」
『苦しかったところも、遠回りしたところも』
「うん」
『全部、今に繋がってるから』
その言葉に、ノアは目を伏せる。
今に繋がっている。
そう思えるようになるまで、随分遠くまで来た気がする。
「アーク」
『何』
「星冠祭、一緒に見たい」
『うん』
「私たちの記録」
『うん』
「怖いけど、見たい」
『見よう』
「うん」
『二人で』
「うん」
「二人で」
約束のように言葉を交わす。
ノアはそっと手を差し出した。
アークは迷わずその手を取る。
広場にはたくさんのプレイヤーがいる。
でも、今はもう、それが少しだけ怖くなくなっていた。
ここで手を繋いでいることを、誰かに見られるかもしれない。
それでも、今は離したくない。
『また明日』
アークが言う。
「うん」
「また明日」
ログアウトして現実へ戻ると、部屋は静かだった。
澪はベッドの端に座り、しばらく手のひらを見つめた。
アークと繋いでいた感覚は、もう現実には残っていない。
でも、胸の奥には確かに温度がある。
机の横に置いた鞄を手に取る。
内側のファスナーについた星のチャームを、そっと指で触れた。
青い小さな星。
まだ外からは見えない場所にある。
星冠祭。
星の記録。
見せること。
見せないこと。
消したくない時間。
澪はチャームを外側につけることを、一瞬だけ想像した。
学校で見える場所に揺れる青い星。
朔の鞄には、銀の月。
誰かが気づくかもしれない。
聞かれるかもしれない。
噂になるかもしれない。
まだ怖い。
でも、外に出したい気持ちも、確かにある。
「……まだ、内側」
小さく呟く。
でも、その言葉は諦めではなかった。
今はまだ内側。
けれど、いつか。
澪は星のチャームに触れたまま、スマート端末を見た。
朔からメッセージが届いている。
『星冠祭、一緒に見よう』
『怖くても』
澪は少しだけ笑って、返信を打った。
『うん』
『消したくないから、見たい』
送信してから、鞄の内側の星をもう一度見た。
隠していた時間。
苦しかった時間。
それでも、消したくない時間。
その全部が、いつか外の光に触れる日が来るのかもしれない。
澪は星のチャームをそっと揺らした。
青い小さな星が、鞄の内側で静かに光った。




