第8章 第10話:全部見せなくても、隣には立てる
翌日の放課後、澪は旧校舎の渡り廊下で、朔を待っていた。
窓の外では、夕方の光が中庭を薄く染めている。
木々の葉が風に揺れ、その影が床の上でゆっくり動いていた。遠くから部活の掛け声が聞こえ、誰かが廊下を走る足音が一瞬だけ響いて、すぐに遠ざかる。
この場所には、もう何度も来ている。
正体を明かした場所。
怖いことを言葉にした場所。
逃げないと決めた場所。
だからだろうか。
ここに立つと、胸の奥が少しだけ静かになる。
昨日、朔は言ってくれた。
全部言わないことと、嘘をつくことは同じじゃない。
隠れるためじゃなく、守るための線もある。
どこまで誰に見せるかは、澪が決めていい。
その言葉に救われた。
確かに救われた。
でも、完全に迷いが消えたわけではない。
隠さない恋を選んだはずなのに、全部を見せないでいること。
ノアの正体を、アステリオの仲間に話していないこと。
現実の澪と、VRのノアの間に、まだ境界線を置いていること。
それを自分で選んでいいと言われても、胸の奥ではまだ問いが残っていた。
隠さないって、結局どういうことなのだろう。
窓ガラスに映る自分を見る。
制服姿の朝倉澪。
鞄の内側には、朔とお揃いの星のチャーム。
外からは見えない。
でも、確かにそこにある。
見せていないもの。
でも、嘘ではないもの。
その違いを、今日はもう少しちゃんと考えたかった。
「澪」
声がして振り向くと、朔が廊下の向こうから歩いてきていた。
鞄を肩にかけ、少しだけ急いできたように見える。
目が合うと、彼は小さく息を整えた。
「待たせた?」
「ううん」
「そっか」
朔は澪の隣まで来て、窓の外へ視線を向けた。
しばらく、二人とも黙っていた。
沈黙は重すぎない。
でも、何でもない沈黙でもない。
先に口を開いたのは、澪だった。
「昨日のこと」
「うん」
「ずっと考えてた」
「うん」
「朔が言ってくれたこと、わかった気がした」
「うん」
「全部言わないことと、嘘をつくことは同じじゃないって」
「うん」
「守るための線もあるって」
言葉にしながら、胸の奥を確かめる。
「でも」
澪は窓の外を見たまま続けた。
「まだ、少し怖い」
「何が?」
「境界線を持つこと」
朔は静かにこちらを見る。
「境界線」
「うん」
「自分で決めていいって言われると、少し楽になる」
「うん」
「でも同時に、怖くもなる」
「どうして」
「自分で決めた線が、逃げるための線なのか、守るための線なのか」
澪は指先を握った。
「自分でもわからなくなりそうだから」
朔はすぐには答えなかった。
いつものように、ちゃんと考えてくれている沈黙だった。
それが今はありがたかった。
「たぶん」
朔がゆっくり言う。
「一回で完璧には決められないんじゃないか」
「……一回で?」
「うん」
「これは逃げじゃない、これは守るためって、最初から全部きれいに分けるのは難しいと思う」
「うん」
「だから、そのたびに考えればいい」
朔は澪を見る。
「一人でじゃなくて」
その最後の一言に、胸が少し温かくなる。
「一人でじゃなくて」
「うん」
「俺にも言って」
「うん」
「これは逃げかなって思ったら、一緒に考える」
「うん」
「これは守るためだって思えるなら、それも一緒に確認する」
朔の声は落ち着いていた。
「全部、澪一人で判定しなくていい」
その言葉に、澪は息を止めた。
判定。
その言い方が、妙にしっくりきた。
自分はずっと、自分自身を裁こうとしていたのかもしれない。
これは嘘。
これは逃げ。
これはずるい。
これは許されない。
そうやって、ひとつひとつに判決を下そうとしていた。
でも恋人になるということは、全部を一人で裁き続けることではないのかもしれない。
「私」
澪は小さく言った。
「また自分に罰を出しそうになる」
「うん」
「ノアのことで、朔を傷つけたから」
「うん」
「もう二度と隠しちゃだめだって」
「うん」
「少しでも言ってないことがあると、また同じことをしてる気がして」
喉の奥が熱くなる。
「恋人なら」
澪は続けた。
「全部見せなきゃいけないのかなって思った」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった重さがはっきり形を持った。
恋人なら、全部見せなきゃいけないのか。
好きと言い合った相手には、何も隠してはいけないのか。
そうしなければ、また不誠実になるのか。
ずっと、それが怖かった。
朔はしばらく黙っていた。
それから、はっきり言った。
「全部見せてもらうために付き合ったわけじゃない」
澪は顔を上げる。
朔の目は、まっすぐだった。
「俺は」
彼は続ける。
「澪の全部を、俺が知る権利をもらったと思ってるわけじゃない」
「……」
「恋人になったからって、澪の全部を開けて見せろなんて思ってない」
「うん」
「知りたいことはある」
「うん」
「でも、それは奪うものじゃなくて、澪が渡してくれるなら受け取るものだと思ってる」
胸の奥が、じんと震えた。
「朔」
「うん」
「そんなふうに考えてたの?」
「うん」
「……ずるい」
「え」
「そういうの、ずるい」
澪は目を伏せる。
優しすぎる。
でも、その優しさに甘えるのが怖くもある。
自分で自分を許せない時、朔は簡単に許しすぎてしまうのではないかと不安になる。
けれど、朔は続けた。
「でも、逃げてると思ったら言う」
「え」
「澪が本当に逃げてると思ったら、止める」
その声は少しだけ強かった。
「それは言う」
「……うん」
「優しくするだけが、隣にいることじゃないと思うから」
澪は胸が熱くなった。
ただ甘やかすのではなく。
ただ許すのでもなく。
ちゃんと見て、必要なら止めると言ってくれる。
それが、今の澪にはとても心強かった。
「じゃあ」
澪は小さく聞く。
「隠さないって、何?」
ずっと胸にあった問いだった。
朔は少し考えた。
窓の外の夕方の光が、彼の横顔を淡く照らしている。
「逃げるための嘘をつかないこと、かな」
静かな声だった。
「逃げるための嘘」
「うん」
「怖いからって、相手を遠ざけるために嘘をつくとか」
「うん」
「自分だけが楽になるために、相手に違うものを見せるとか」
「うん」
「本当は話すべきことを、向き合いたくないからごまかすとか」
朔は澪を見る。
「それは、隠さないって決めたなら、やめたい」
「うん」
「でも」
朔の声が少しやわらかくなる。
「まだ話せないことを、ちゃんとまだ話せないって言うのは、嘘じゃないと思う」
澪は息を飲んだ。
「まだ話せないって言う」
「うん」
「黙ってごまかすんじゃなくて」
「うん」
「今はここまでって、自分で線を引く」
「うん」
「それは逃げじゃなくて、誠実な線の引き方なんじゃないかな」
誠実な線。
その言葉が、胸の奥に深く落ちた。
隠さない。
それは、すべてを無防備に晒すことではない。
それは、相手を信じて、今言えることと言えないことを自分で選ぶこと。
そして、逃げるための嘘で相手を遠ざけないこと。
少しだけ、見えてきた気がした。
「じゃあ」
澪はゆっくり言う。
「セレスたちに、ノアの正体をまだ話せないのは」
「うん」
「嘘じゃない?」
「俺はそう思う」
「でも、関係が変わったことは話した」
「うん」
「言える範囲で」
「うん」
「それで、今はいい?」
朔は静かに頷いた。
「今は、それでいい」
その言葉に、澪の胸から少しだけ力が抜けた。
完全に解決したわけではない。
でも、今はそれでいいと言ってもらえたことが、こんなにもありがたい。
「いつか」
澪は窓の外を見る。
「話したいと思う日が来るのかな」
「来るかもしれない」
「来ないかもしれない」
「それでもいい」
「いいの?」
「うん」
「セレスたちを信じてないみたいにならない?」
「信じることと、全部明かすことは同じじゃない」
朔はそう言った。
「信じてるからこそ、話せることもある」
「うん」
「でも、大事だからこそ、守ることもある」
「うん」
「そこは矛盾しないと思う」
澪は静かに頷いた。
信じることと、全部明かすことは同じではない。
その言葉も、きっとこれから何度も思い出すことになる。
「私」
澪は胸に手を当てた。
「隠さないって、もっと強くならなきゃいけないことだと思ってた」
「強く?」
「うん」
「何を言われても平気で、全部見せられて、堂々として」
「うん」
「そうなれない自分は、まだ逃げてるんだと思ってた」
朔は静かに聞いている。
「でも」
澪は続ける。
「怖くてもいいのかな」
「いい」
「全部見せられなくても?」
「いい」
「今はここまでって言っても?」
「いい」
迷いなく返ってくる言葉に、目の奥が熱くなる。
「でも、嘘で逃げない」
澪は自分で言った。
「うん」
「怖いことは、怖いって言う」
「うん」
「まだ話せないことは、まだ話せないって言う」
「うん」
「隠れるためじゃなく、大事にするために線を引く」
朔は頷いた。
「それが、今の俺たちの“隠さない”でいいんじゃないか」
その言葉に、澪は小さく息を吐いた。
胸の奥にずっとあった硬い結び目が、少しだけほどけた気がした。
「……うん」
「それがいい」
澪は頷いた。
夕方の光が、渡り廊下に長く伸びている。
窓の外の風が、木々を揺らしていた。
少し前まで、ここは正体を明かした怖い場所だった。
今は、少しずつ自分の輪郭を取り戻す場所にもなっている。
「朔」
「何」
「全部見せなくても、隣には立てる?」
不安が、最後にもう一度顔を出した。
朔は少しだけ目を細めた。
そして、澪のほうへ半歩近づく。
「立てる」
短く、はっきり。
「俺も、澪に全部を完璧に見せられてるわけじゃない」
「え?」
「怖いこともある」
「うん」
「言葉にするのが遅いこともある」
「うん」
「澪に嫌われたくなくて、言い方を選びすぎることもある」
意外な告白だった。
澪は目を瞬かせる。
「朔も?」
「ある」
「……そっか」
「だから、俺も練習する」
「練習?」
「逃げるために黙らない練習」
朔は少しだけ苦く笑った。
「澪だけじゃない」
その言葉で、胸がまた熱くなる。
自分だけが不完全なのではない。
朔もまた、恋人として隣に立つために練習している。
怖いことを言う練習。
黙らない練習。
相手を信じる練習。
「じゃあ」
澪は少しだけ笑った。
「二人で練習?」
「そうだな」
「恋人の練習」
「言い方」
「変?」
「いや」
朔は少し照れたように目を逸らす。
「ちょっと来る」
「仕返し」
「最近、仕返し増えたな」
「朔がずっとずるいから」
「それは否定できない」
二人で少し笑った。
笑える。
それだけで、少し救われた。
渡り廊下を出て、二人は校門へ向かった。
教室での視線はまだ少し怖い。
でも、昨日より少しだけ息がしやすかった。
校門を出て、住宅街へ続く道に入る。
人通りが減ったところで、朔が手を差し出した。
「今は?」
「うん」
澪はその手を取った。
繋いだ手は、いつものようにあたたかい。
でも今日は、その温度に少し違う意味を感じた。
全部見せていない。
全部知っているわけでもない。
それでも、こうして隣に立てる。
手を繋いで歩ける。
「朔」
「何」
「私、まだたぶん考えすぎる」
「うん」
「また、これは嘘かなとか、逃げかなとか思う」
「うん」
「その時は」
「言って」
「うん」
「俺も言う」
「うん」
「一緒に考える」
何度も繰り返した約束。
でも、繰り返すたびに少しずつ強くなる。
「あと」
朔が続ける。
「今度、アステリオでイベントあるだろ」
「あ、大型イベント?」
「うん」
「五人で参加するやつ?」
「そう」
期間限定の大型イベント。
ペアギミックや信頼度判定があると、ピピが騒いでいたやつだ。
「それ、一緒に出よう」
「うん」
「ノアとアークとして」
「うん」
「セレスたちとも」
「うん」
「関係を話したあとだから、たぶん少し照れるけど」
「かなり照れると思う」
「でも」
朔は繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「今の俺たちで、ちゃんと行きたい」
その言葉に、胸が温かくなる。
「私も」
「うん」
「ノアとして、ちゃんと行きたい」
「うん」
「全部見せてなくても」
「うん」
「ちゃんと隣に立ちたい」
言えた。
それは今日、自分が一番欲しかった言葉だったのかもしれない。
朔は静かに頷いた。
「立てる」
「うん」
「一緒に」
短い言葉。
でも、それで十分だった。
家の前に着く頃には、空はもう薄暗かった。
街灯が灯り、住宅街に夜の気配が降りている。
二人は玄関前で立ち止まった。
手を離す前に、澪は朔を見る。
「今日は、話せてよかった」
「俺も」
「少し、息ができるようになった」
「そっか」
「うん」
「なら、よかった」
朔はやわらかく笑う。
「また明日」
「うん」
「また明日」
手を離す。
指先に残る温度が、今日の答えのように思えた。
自室へ戻ると、澪は鞄を机の上に置いた。
内側の星のチャームに触れる。
外には見えない。
でも、嘘ではない。
隠れるためだけではない。
今は、大事にするためにここにある。
澪はスマート端末を開いた。
朔からのメッセージが届く。
『大型イベント、予定空けといて』
『ノアとアークで行こう』
澪は自然に笑った。
『うん』
『今の私たちで行こう』
送信してから、星のチャームをもう一度指先で揺らす。
全部見せなくても、隣には立てる。
その言葉を、今日は少しだけ信じられた。
澪は静かに息を吐いた。
逃げるための嘘をつかない。
怖いことを隠さない。
まだ話せないことは、まだ話せないと言う。
守るための線を、自分で選ぶ。
それが今の自分たちの、隠さない恋なのだと思った。




