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星を隠さぬ君の隣で  作者: 最後に残った形


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第8章 第9話:ノアのままでは、全部は言えない


 翌朝、澪は目覚めてすぐ、昨夜のことを思い出した。


 薄明の水鏡庭。

 セレス、フレア、ピピの顔。

 ノアとして、アークの隣に立って言った言葉。


 ――アークは、私にとって大事な人です。


 思い出すだけで、胸の奥が少し熱くなる。


 怖かった。

 でも、言えてよかった。

 三人はちゃんと聞いてくれた。

 ピピは騒いで、フレアは冷静に見抜いて、セレスはやさしく受け止めてくれた。


 おめでとう、と言ってくれた。

 話す相手に選んでくれて嬉しい、と言ってくれた。


 それは確かに救いだった。


 けれど、胸の奥にはまだ小さな棘が残っている。


 ノアとアークの関係が変わったことは話せた。

 でも、ノアが朝倉澪であることは言っていない。

 アークが神谷朔であることも言っていない。


 現実でも特別な関係になった。

 そう言った。

 でも、その現実の名前までは伏せた。


 それは、本当に誠実だったのだろうか。


 澪はベッドの上で、膝を抱えた。


 全部を話す必要はない。

 そう頭ではわかっている。


 アステリオの仲間だからといって、現実の個人情報まで全部明かす必要はない。

 相手を信じていないからではなく、守るべき線があるから。

 朔も、たぶんそう言ってくれる。


 それでも、澪の中には不安が残っていた。


 隠さない恋を選ぶと決めた。

 嘘で逃げないと決めた。

 それなのに、自分はまたノアのまま、全部を言わずにいる。


 これは、前と何が違うのだろう。


「……また、隠れてるのかな」


 呟いた声は、朝の部屋に小さく落ちた。


 机の上には、フルダイブ装置がある。

 その隣には、昨日持ち帰った鞄。

 内側には、朔とお揃いの星のチャームがついている。


 外からは見えない。

 でも、そこにある。


 大事にするために内側につけている。

 そう朔と話した。


 でも、内側にしまうことと、隠すことの境界はどこにあるのだろう。


 澪は答えを見つけられないまま、制服に着替えた。


 通学路で朔と会うと、彼はいつもの場所に立っていた。

 朝の光の中で、端末を見ているようで、実際にはあまり見ていない。

 澪に気づくと顔を上げる。


「おはよ」

「おはよう」


 挨拶は、もう少し自然になっていた。

 でも、澪の中の迷いまでは消えていない。


 朔はすぐにそれに気づいたらしい。


「昨日のこと?」

 歩き出してすぐ、そう聞いた。


 澪は少しだけ驚いて横を見る。


「わかる?」

「わかる」

「そんなに?」

「澪、考え込んでる時、歩くの少し遅くなる」

「……そうなんだ」

「あと、俺のほうを見たいのに見ない感じになる」

「見てる」

「見てない」

「……見てないかも」

 認めると、朔は少しだけ苦笑した。


「昨日の最後のメッセージ」

「うん」

「まだ少し考えてるってやつ」

「うん」

「今も?」

「うん」

 澪は小さく頷いた。


 朝の通学路には、同じ学校の生徒がちらほらいる。

 だから深い話をするには少し落ち着かない。

 それでも、少しだけ言葉をこぼしたかった。


「言えて嬉しかった」

「うん」

「三人が受け止めてくれたのも、本当に嬉しかった」

「うん」

「でも」

 澪は鞄の持ち手を握る。

「ノアのままでは、全部は言えないなって思った」

 朔は黙って聞いていた。


「ノアが私だってことは言ってない」

「うん」

「アークが朔だってことも言ってない」

「うん」

「現実でも特別な関係って言ったけど、その現実の名前は隠した」

「うん」

「それが、また嘘みたいに思えて」

 言葉にした瞬間、胸が少し痛んだ。


 朔はすぐには返事をしなかった。

 横断歩道の手前で立ち止まり、赤信号を見上げる。


 車が通り過ぎる音。

 自転車のベル。

 朝のざわめき。


 その中で、朔は静かに言った。


「放課後、ちゃんと話そう」

「……うん」

「今ここだと、たぶん足りない」

「うん」

「でも、一つだけ」

「何?」

「一人で結論出さないで」

 その言葉が、胸に落ちた。


「……うん」

「また自分だけで悪いほうに考えそうだから」

「そんなに?」

「そんなに」

 朔は少しだけ困ったように笑った。


「一緒に考えるって言った」

「うん」

「だから、放課後」

「うん」

「ちゃんと話す」


 信号が青に変わる。

 二人は並んで歩き出した。


 それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。


 学校へ着くと、教室には相変わらず小さな視線があった。

 朔が昨日、人前で「一緒に帰ろう」と言ったからか、二人の関係はもうかなり周囲に伝わり始めている。


 誰かが明確に何かを言うわけではない。

 でも、視線が少しだけ増えた。

 澪と朔が目を合わせると、何人かが軽く反応する。


 昨日よりは、少しだけ慣れた。

 けれど、完全に平気にはまだ遠い。


 席に着くと、夏希がすぐに声をかけてきた。


「朝倉」

「……何」

「今日も考え込んでる」

「顔?」

「顔」

「もう慣れてきた」

「それはそれでどうなの」

 夏希は少しだけ笑ったあと、声を落とした。


「今度は何?」

「アステリオのこと」

「神谷には?」

「放課後話す」

「ならいい」

 夏希はあっさり頷いた。


「聞かないの?」

「聞いてほしそうなら聞く」

「……まだ、うまく言えない」

「じゃあ神谷に先に言いな」

「うん」

「朝倉は、最初に言う相手を間違えると余計に絡まる」

「何それ」

「経験則」

「そんなに?」

「そんなに」

 みんなに見抜かれすぎている気がする。


 澪は少しだけ頬を膨らませた。

 夏希はそれを見て、いつもの調子で笑う。


「まあ、絡まったらほどけばいいでしょ」

「ほどけるかな」

「一人だと無理でも、二人なら何とかなるんじゃない?」

 その言葉に、澪は小さく頷いた。


「……うん」

「じゃ、授業」

「うん」


 午前中の授業は、少し上の空だった。

 黒板の文字を写していても、ノアのことが頭から離れない。


 ノア。

 澪。

 どちらも自分。


 朔はそう言ってくれた。

 ノアも澪も、どっちも君だったと。

 ノアと過ごした時間も恋の一部だったと。


 だから、ノアを捨てなくていい。

 隠れるためだけの名前にしなくていい。


 でも、セレスたちにとってのノアは、まだノアのままだ。

 現実の澪を知らない。

 それは自然なことなのに、胸の奥で何かが引っかかる。


 自分は、また半分だけを見せているのではないか。


 昼休み、ひなが声をかけてきたが、今日は深く聞かずに「無理しないでくださいね」とだけ言ってくれた。

 凛花はいつも通り静かだった。

 由良は目が合うと、少しだけ心配そうに微笑んだ。


 みんな、それぞれの距離で見てくれている。


 そのことがありがたくて、少しだけ苦しい。


 放課後、朔は昨日と同じように、澪の席へ来た。


 教室の中で、数人がちらりと見る。

 でも朔は避けなかった。


「澪」

「うん」

「話せる?」

「うん」

「旧校舎でいい?」

「うん」


 二人で教室を出る。


 以前なら、それだけで大きな緊張だった。

 今も少し視線は気になる。

 けれど今日は、それよりも話したいことのほうが大きかった。


 旧校舎へ続く渡り廊下は、夕方の光に満ちていた。

 何度も大事な話をしてきた場所。

 正体を明かした場所。

 怖さを何度も言葉にしてきた場所。


 二人は窓際で立ち止まる。


 朔が先に口を開いた。


「昨日のこと」

「うん」

「ノアの正体を言ってないことが、引っかかってる?」

「うん」

「嘘みたいに感じる?」

「……うん」

 澪は正直に頷いた。


「セレスたちに話せたのは嬉しかった」

「うん」

「ノアとアークの関係が変わったことを、ちゃんと言えた」

「うん」

「でも、私はノアのままだった」

「うん」

「現実でも特別って言ったけど、現実の私が誰なのかは言ってない」

「うん」

「それで」

 澪は指先を握った。

「また、都合のいいところだけ見せてる気がした」

 朔は静かに聞いている。


「ノアとしていた時も」

 澪は続ける。

「朔に近づきたい部分だけ出して、澪のことは隠してた」

「うん」

「今回も、関係は言えたけど、名前は隠した」

「うん」

「それって、また同じことをしてるのかなって」

 言い終えると、胸が少し苦しくなった。


 朔は少し考えた。

 それから、ゆっくりと言った。


「俺は、同じだとは思わない」

 澪は顔を上げる。


「どうして」

「前は、俺に近づくために隠してた」

「……うん」

「澪として言えないから、ノアとして距離を取ってた」

「うん」

「でも今は、セレスたちから逃げるために隠してるんじゃないと思う」

「……」

「現実の名前を出すかどうかは、別の話だろ」

 朔の声は落ち着いていた。


「全部言わないことと」

 彼は続ける。

「嘘をつくことは同じじゃない」

 その言葉に、澪の胸が揺れた。


「同じじゃない?」

「うん」

「でも」

「うん」

「言ってないことがある」

「ある」

「それは、隠してることじゃないの?」

「隠してることではあると思う」

 朔は否定しなかった。

 だからこそ、澪はちゃんと聞けた。


「でも」

 朔は続ける。

「隠れるためじゃなく、守るための線もある」

 守るための線。


 その言葉が、静かに胸へ落ちた。


「守るため」

「うん」

「ノアとしての関係を話すことと、現実の名前を出すことは違う」

「うん」

「セレスたちを信じてないって話でもない」

「うん」

「ただ、現実の自分をどこまで出すかは、澪が決めていい」

「……私が?」

「うん」

「でも、アークのこともある」

「俺も、今すぐ現実の名前まで言う必要はないと思ってる」

 朔ははっきり言った。


「どうして?」

「大事だから」

「え?」

「大事だから、誰にでもすぐ見せればいいものじゃない」

 その言葉で、澪は息を止めた。


「ノアも大事」

「うん」

「澪も大事」

「うん」

「だからこそ、どこまで誰に見せるかは、ちゃんと決めていい」

「……」

「全部を一気に出すことだけが、誠実じゃないと思う」

 胸の奥で、絡まっていた糸が少しだけ緩む気がした。


 全部を見せることだけが誠実ではない。

 言わないことが、必ずしも嘘になるわけではない。

 守るための線もある。


 でも、完全には納得しきれない自分もいる。


「でも」

 澪は小さく言った。

「また隠れてる気がする」

「うん」

「頭では違うって思いたい」

「うん」

「でも、胸のどこかで、また同じことをしてるって言われてる気がする」

 朔は頷いた。


「すぐに消えなくていい」

「え」

「その不安」

 朔は澪を見る。

「ノアとして隠してた時間が長かったんだから、急に全部切り替わらなくて当然だろ」

「……」

「澪は今、自分が嘘をついてないかずっと見張ってる」

 その言葉に、胸が少し痛んだ。


 見張っている。

 確かにそうかもしれない。


 もう二度と同じ間違いをしたくなくて。

 また隠れて、また誰かを傷つけたくなくて。

 自分の中のわずかな秘密まで、全部罪のように見張ってしまっている。


「でも」

 朔は続ける。

「恋人になったからって、澪の全部を全員に見せなきゃいけないわけじゃない」

「うん」

「ノアの全部を、アステリオの仲間に見せなきゃいけないわけでもない」

「うん」

「それは逃げじゃなくて、境界線だと思う」

 境界線。


 隠すためではなく、守るための線。

 自分の輪郭を保つための線。


 澪は窓の外を見た。

 夕方の中庭が、淡い光に包まれている。


「私」

 澪はゆっくり言う。

「境界線って、少し怖い」

「どうして」

「隠すことと似てるから」

「うん」

「でも、ないと苦しくなるのもわかる」

「うん」

「全部見せなきゃって思うと、息が詰まる」

 言ってから、はっとした。


 そうだ。

 自分は今、息が詰まっていた。


 隠さないと決めたから。

 逃げないと決めたから。

 全部を見せなければいけないと思い込んでいた。


 でも、それは本当に“隠さない”なのだろうか。


 朔は静かに言う。


「澪が、いつか話したいと思ったなら話せばいい」

「うん」

「俺も一緒に考える」

「うん」

「でも、今話さないことを罰みたいにしなくていい」

 その言葉に、目の奥が少し熱くなった。


「罰」

「うん」

「私、自分に罰を出してた?」

「たぶん」

 朔は少しだけ苦く笑った。

「全部言わなきゃだめって」

「……」

「言わない自分はまた嘘つきだって」

 澪は何も言えなかった。


 その通りだったからだ。


「澪」

「うん」

「もう、あの時とは違う」

 朔の声がやわらかくなる。


「あの時?」

「俺に正体を言えなかった時」

「……うん」

「今の澪は、怖いことを俺に話してる」

「うん」

「セレスたちにも、言える範囲でちゃんと言った」

「うん」

「それは、逃げてない」

 逃げてない。


 その言葉で、胸の奥が少し震えた。


 凛花にも言われた。

 逃げてる顔じゃなくなった、と。


 今も、まだ怖い。

 まだ迷う。

 でも、逃げているだけではないのかもしれない。


「……そうかな」

「そうだと思う」

「朔がそう言ってくれると」

「うん」

「少し信じられる」

 朔は小さく頷いた。


「じゃあ、少しでいい」

「うん」

「全部一気に信じなくていい」

「うん」

「少しずつでいい」

 その“少しずつ”が、今の澪にはとても優しかった。


 しばらく二人は、夕方の渡り廊下に立っていた。

 窓の外から吹く風が、少し冷たい。

 でも、胸の奥は朝よりも少しだけ軽かった。


「朔」

「何」

「ありがとう」

「うん」

「私、まだ完全には割り切れてない」

「うん」

「でも、少しわかった気がする」

「何を?」

「全部言わないことと、嘘をつくことは同じじゃないって」

 朔は静かに頷いた。


「うん」

「あと」

「うん」

「守るための線もあるって」

「うん」

「それを、自分で決めてもいいって」

 言葉にするほど、胸の中の輪郭が少しずつ戻ってくる。


 ノアも澪も、自分。

 だからこそ、その全部を誰にどう見せるかは、自分で選んでいい。

 逃げるためではなく、大事にするために。


「でも」

 澪は言う。

「もし私がまた逃げそうになったら」

「うん」

「止めて」

 朔は少しだけ笑った。


「止める」

「本当に?」

「うん」

「厳しく?」

「必要なら」

「朔に厳しくされたら、ちょっと効きそう」

「そんなに?」

「朔は普段あんまり怒らないから」

「じゃあ、怒らせないように」

「それは違う」

 二人で少し笑った。


 笑えるくらいには、息ができるようになっていた。


 帰り道、二人はいつものように並んで歩いた。

 手は、学校を少し離れてから繋いだ。

 その確認も、もう少しずつ自然になっている。


「ノアとして」

 澪が言う。

「またセレスたちに会うの、少し緊張するかも」

「うん」

「関係は話したけど、正体は言ってないって、意識しちゃうかもしれない」

「うん」

「でも、今日話せたから」

「うん」

「前よりは、ちゃんと立てる気がする」

 朔は繋いだ手に少しだけ力を込める。


「それでいい」

「うん」

「ノアのままでも、ちゃんとノアだから」

「……」

「澪の全部じゃなくても、嘘だけじゃない」

 その言葉に、胸があたたかくなる。


「うん」

「ありがとう」


 家の前で別れる時、澪は鞄の内側の星のチャームに触れた。

 まだ外には出していない。

 でも、今日のそれは昨日より少し違って感じられた。


 内側にあることは、隠していることと同じではない。

 大事にしているから、そこに置いているものもある。


「また明日」

 朔が言う。

「うん」

「また明日」


 家へ入って自室に戻ると、澪はフルダイブ装置を見つめた。


 ノアとしての自分。

 澪としての自分。

 どちらも同じで、でも見せる範囲は少しずつ違う。


 それは、嘘ではなくてもいいのかもしれない。


 スマート端末が震える。

 朔からだった。


『今日話せてよかった』

『また考えすぎたら言って』


 澪は少し笑って、返信を打つ。


『うん』

『一人で罰にしないようにする』


 すぐに返事が来た。


『それでいい』

『一緒に考える』


 その文字を見て、澪は胸に手を当てた。


 ノアのままでは、全部は言えない。

 でも、それは全部が嘘になるということではない。


 言えること。

 まだ言えないこと。

 いつか言いたいこと。

 今は守りたいこと。


 その境界線を、自分で選んでいい。


 澪はフルダイブ装置の横に手を置き、静かに目を伏せた。


 隠れるためではなく、大事にするために。

 その違いを、少しずつ覚えていきたいと思った。

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