第8章 第8話:アステリオの仲間に、ちゃんと言う
その夜、澪はログイン前から少しだけ緊張していた。
机の上にはスマート端末が置かれている。
画面には、朔とのメッセージが残っていた。
『今夜、セレスたちに話そう』
『全部じゃなくていい』
『でも、ノアとアークとしても、ちゃんと言いたい』
その言葉を見た時、澪の胸は小さく震えた。
昼間、学校で朔は教室の中で声をかけてくれた。
澪、一緒に帰ろう。
たったそれだけの言葉だった。
けれど、それは二人にとって大きな一歩だった。
人前で隣に立つ。
隠さずに、避けずに、逃げずに。
怖かった。
でも嬉しかった。
そして今度は、アステリオだ。
ノアとアークとして、セレス、フレア、ピピへ話す。
二人の関係が変わったことを。
ノアとアークの間に、大事なものが生まれたことを。
もちろん、すべてを話すわけではない。
ノアが朝倉澪であること。
アークが神谷朔であること。
その現実の名前まで、今すぐ明かすつもりはなかった。
でも、関係が変わったことを、ずっとごまかし続けるのも違う。
ノアとしても、もう隠れるだけの恋には戻りたくなかった。
澪はフルダイブ装置に手を置き、ゆっくり息を吸った。
「……ちゃんと話す」
そう呟いて、目を閉じる。
視界が暗転する。
意識が沈み、次に開いた時には、ノアはアステリオの中央広場に立っていた。
夜の広場は、いつものように光で満ちていた。
石畳に埋め込まれた魔導灯が淡く輝き、噴水の水面には星空のような粒子が揺れている。
プレイヤーたちの声があちこちから聞こえ、武器を整える音やアイテムを売買する声が混ざっていた。
現実とは違う世界。
けれど、ここにも確かに自分の居場所がある。
『ノア』
個別回線にアークの声が入った。
振り向くと、広場の端にアークが立っていた。
黒い装備。
背に負った剣。
見慣れた姿。
それでも、今はその姿を見るだけで少し胸が落ち着く。
「アーク」
『来たな』
「うん」
『緊張してる?』
「してる」
『俺も』
「アークも?」
『するだろ』
その返しに、ノアは少しだけ笑った。
現実でもアステリオでも、朔は同じように緊張してくれる。
それが今は、とても心強い。
『三人には、話したいことがあるって伝えてある』
「うん」
『場所は、水鏡庭の入口でいい?』
「うん」
「あそこなら、落ち着いて話せる」
『じゃあ、行こう』
二人は転送門へ向かった。
中央広場の人混みを抜ける間、ノアはアークの隣を歩いた。
前なら、この距離にもいろいろな意味を考えていた。
近すぎるかもしれない。
怪しまれるかもしれない。
でも、今は少し違う。
近くにいてもいい。
隣に立ってもいい。
それを、少しずつ自分に許せるようになってきた。
転送門をくぐると、視界が光に包まれる。
次に開いた景色は、《薄明の水鏡庭》だった。
薄紫の空。
浅い水面。
白い飛び石。
遠くに見える東屋。
正体を明かしたあと、何度もここで大切な話をした。
その場所に、今日は五人で集まる。
『ノアさん! アークさん!』
明るい声が聞こえた。
ピピが飛び石の上を跳ねるようにこちらへ向かってくる。
その後ろから、セレスが穏やかに歩いてきて、フレアが腕を組んだまま少し遅れて続いていた。
『お待たせしました!』
ピピが元気よく言う。
『大事な話って聞いたんですけど、何ですか? イベントですか? 新ギルドですか? それともついに甘い空気の正体ですか?』
『ピピ』
フレアが短く呼ぶ。
『最後のだけ余計』
『でも気になります!』
『気になるのはわかりますが』
セレスがやわらかく微笑む。
『まずはお二人の話を聞きましょう』
その落ち着いた声に、ノアは少しだけ救われた。
五人は水鏡庭の入口近くにある白い石の広場へ移動した。
周囲には他のプレイヤーの姿も少なく、浅い水音だけが静かに響いている。
ノアはアークの隣に立った。
少しだけ近い。
でも、隠れるような近さではない。
ピピはわくわくした顔でこちらを見ている。
フレアは冷静な目でノアとアークを交互に見ている。
セレスはいつものように穏やかに待っている。
ノアの胸が少しだけ苦しくなった。
この三人にも、たくさん助けられてきた。
アステリオで一緒に戦い、笑い、時には心配されてきた。
だからこそ、ずっとごまかしたままにはしたくなかった。
『話がある』
先に口を開いたのはアークだった。
その声は少し硬かった。
けれど、逃げてはいない。
『前から、二人の空気が変だって言われてたけど』
『はい!』
ピピが即答する。
『変でした! かなり!』
『ピピ』
セレスが少し困ったように笑う。
『すみません。でも事実です』
『事実ではある』
フレアも静かに言った。
ノアは顔が熱くなる気がした。
アバターなのに、こういう時は本当に頬が熱くなるように感じる。
アークが小さく息を吐いた。
『それについて、ちゃんと話しておきたい』
『はい』
セレスが頷く。
『無理に話す必要はないと思っていましたが、お二人が話したいなら聞きます』
その言葉で、ノアは少しだけ勇気をもらった。
「私からも、話したい」
ノアは言った。
声は少し震えていた。
三人の視線がこちらへ集まる。
「隠したいわけじゃないから」
「ちゃんと、私たちの言葉で話したかった」
アークが隣で静かに頷く。
「私とアークは」
ノアは一度息を吸った。
「現実でも、特別な関係になりました」
言葉にした瞬間、水鏡庭の音が少し遠くなった気がした。
ピピが目を見開く。
セレスは静かに瞬きをする。
フレアは腕を組んだまま、ほんの少しだけ眉を上げた。
『特別な関係』
ピピが小さく繰り返す。
それから、ぱっと顔を輝かせた。
『つまり!』
『ピピ』
フレアが止める。
『最後まで聞きなさい』
『はい!』
ピピは勢いよく口を閉じた。
ノアは少しだけ笑いそうになった。
でも、まだ言葉を続ける。
「全部を今ここで話せるわけじゃない」
「現実のことだから、話せることと話せないことがある」
『はい』
セレスが静かに頷く。
「でも」
ノアはアークを見る。
アークもこちらを見る。
その目に背中を押される。
「アークは、私にとって大事な人です」
言えた。
ノアとして。
セレスたちの前で。
アークを大事な人だと。
胸が熱くなる。
アークは一瞬だけ目を伏せた。
それから、三人へ向き直る。
『俺にとっても』
アークは言った。
『ノアは、大事な人です』
ピピが両手で口を押さえた。
セレスがやわらかく微笑む。
フレアは少しだけ息を吐いた。
『やっぱり甘かったんですね!』
ついにピピが叫んだ。
ノアの肩が跳ねる。
アークも少しだけ固まった。
『いや、もう、ずっと甘かったです! 最近の二人、目が合うだけで何か空気が違いましたし! 連携も近すぎましたし! 声もやさしいし!』
『ピピ、少し落ち着きなさい』
フレアが言う。
『落ち着けません! これは落ち着けないやつです!』
『気持ちはわかりますけれど』
セレスがくすりと笑う。
『まずは、おめでとうございます、ですね』
その言葉に、ノアは胸が詰まった。
『おめでとうございます』
セレスは穏やかに言った。
『お二人がちゃんと話してくれたことも、嬉しいです』
「……ありがとう」
ノアは小さく答える。
アークも少しだけ頭を下げた。
『ありがとう』
フレアは二人を見て、淡々と言った。
『これで、隠すのが下手な芝居を見なくて済むわね』
「フレア」
『事実でしょう』
『事実です!』
ピピが力強く頷く。
『ノアさんもアークさんも、隠すのほんっとうに下手でした!』
『ピピ』
セレスがまたやわらかく制する。
『でも、言えてよかったですね』
『はい!』
ピピは明るく笑った。
『よかったです!』
その素直な祝福に、ノアは少しだけ泣きそうになった。
もっと怖いと思っていた。
問い詰められるかもしれない。
現実のことを聞かれるかもしれない。
どうして言わなかったのかと責められるかもしれない。
でも、三人は待ってくれた。
そして、今も受け止めてくれている。
『詳しいことは聞きません』
セレスが言った。
『話せる時に、話したい分だけでいいと思います』
「……うん」
『ただ』
セレスは微笑む。
『ノアさんが前より少し楽そうに見えるのは、嬉しいです』
胸の奥が、じんと熱くなる。
前より楽そう。
そう見えるのなら、きっと本当に少し変われているのだろう。
『アークも』
フレアが言う。
『前より視野が狭くなったところと、広くなったところがある』
『何だそれ』
アークが反応する。
『ノアを見る頻度は増えた』
「……」
『でも、ノアが危ない時以外にも周囲を見るようになった』
『褒めてるのか?』
『半分』
『もう半分は?』
『観察結果』
フレアらしい言い方に、ピピが笑う。
『でも、本当に連携はよくなりましたよね』
ピピが言う。
『前もすごかったですけど、最近は何というか、信頼度が上がってます!』
『信頼度』
ノアは小さく繰り返した。
信頼。
その言葉が、少し胸に残る。
好きになって、恋人になって、それだけで全部が自然に進むわけではない。
隠さないことも、見られることも、信じることも、まだ少し怖い。
でも、三人が見ているノアとアークは、前より信頼しているように見えるらしい。
それが少し嬉しかった。
『じゃあ』
ピピが勢いよく手を挙げる。
『これからは、からかってもいいですか?』
『だめ』
アークが即答した。
『えー!』
『ほどほどなら』
ノアが言うと、アークがこちらを見る。
『ノア?』
「全部だめって言うと、ピピが余計に騒ぎそう」
『わかってますね、ノアさん!』
『調子に乗らない』
フレアが言う。
『でも、お祝いくらいはいいでしょう』
セレスが微笑む。
『今日は軽く周回して、終わったら中央広場で何か甘いものでも食べましょうか』
『甘いもの! 甘い空気に甘いもの!』
『ピピ』
『すみません!』
賑やかな声が水鏡庭に響く。
ノアはアークと顔を見合わせた。
アークは少し困ったように笑っている。
でも、その表情には安心も混じっていた。
『よかったな』
個別回線でアークが言う。
「うん」
『言えてよかった』
「うん」
「怖かったけど」
『俺も』
「でも、嬉しい」
『俺も』
短い言葉を交わすだけで、胸が温かくなる。
その後、五人で水鏡庭の奥にある簡単なダンジョンへ向かった。
ピピは終始そわそわしていた。
『ノアさん、アークさん! 前衛と後衛の距離が近いです!』
『戦闘中だ』
アークが返す。
『戦闘中でも近いです!』
『連携のため』
ノアが言う。
『便利な言葉ですね!』
ピピが笑う。
フレアは相変わらず冷静に敵の位置を見ていた。
『右、二体。アーク、前に出すぎない』
『了解』
『ノア、補助はいつもより半拍早く』
「わかった」
『二人とも、浮かれて事故らないように』
「浮かれてない」
『少し浮かれてる』
フレアに言われると、否定しきれない。
セレスは回復を回しながら、穏やかに笑っていた。
『でも、楽しそうなのは良いことです』
『セレスさんが一番優しいです!』
ピピが叫ぶ。
『ピピさんも優しいですよ』
『ほんとですか!?』
『ただ、少し騒がしいだけで』
『それは優しい判定なんですか!?』
そのやり取りに、ノアは笑ってしまった。
戦闘はいつも通り進んだ。
いや、いつも以上に動きやすかったかもしれない。
ノアが術式を置く。
アークがそこへ踏み込む。
ピピが敵を引きつけ、フレアが正確に削り、セレスが全体を支える。
五人でいる時間が、前より少しあたたかく感じた。
大事なことを話したあとでも、関係は壊れなかった。
むしろ、少し楽になった。
ダンジョンを終えて中央広場へ戻る頃には、ノアの緊張はかなりほどけていた。
広場の一角にある仮想カフェで、五人は丸いテーブルを囲んだ。
ピピは巨大なパフェを注文し、フレアは黒いコーヒーのような飲み物、セレスは花の浮かぶハーブティーを選んだ。
ノアとアークは、控えめな星形の焼き菓子を分けることにした。
『わ、分けるんですか!?』
ピピがすぐに反応する。
『普通に量が多いだけ』
アークが言う。
『でも分けるんですよね!?』
「ピピ」
『はい、ほどほどにします!』
そう言いながら、ピピはにこにこしている。
ノアは少し恥ずかしかった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
セレスが静かにカップを置く。
『ノアさん』
「何?」
『言ってくれて、ありがとうございます』
「……うん」
『私は、話してくれたことよりも』
セレスはやわらかく続ける。
『話す相手に私たちを選んでくれたことが嬉しいです』
その言葉で、ノアの胸が詰まった。
「セレス」
『はい』
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
『はい』
セレスは微笑む。
フレアも短く言った。
『関係が変わっても、戦闘中の報告は省略しないで』
『そこ?』
アークが少し呆れたように言う。
『大事よ』
『まあ、大事だな』
『それ以外は』
フレアは少しだけ視線を逸らす。
『おめでとう』
短い祝福だった。
でも、フレアらしくて、胸に残った。
「ありがとう」
ノアが言うと、フレアは軽く頷いた。
ピピはスプーンを握ったまま、にこにこと言った。
『ノアさん、アークさん、おめでとうございます!』
「ありがとう」
『でも、わたしはこれからも観察します!』
『やめろ』
アークが即答する。
『ほどほどにします!』
『信用できない』
『できます! たぶん!』
『たぶんじゃない』
いつものような会話に、また笑いが起きる。
その笑いの中で、ノアはふとアークを見た。
アークもこちらを見ていた。
目が合う。
少し照れる。
でも、もう慌てて逸らすだけではない。
この場所でも、少しずつ隠れずにいられる。
それが嬉しかった。
ログアウトの時間が近づき、三人と別れたあと、ノアとアークは中央広場の端に残った。
噴水の光が水面に揺れ、夜の広場にはプレイヤーたちの声が遠く響いている。
『言えたな』
アークが言う。
「うん」
『全部じゃないけど』
「うん」
「でも、ちゃんと言えた」
『うん』
「ノアとしても、少しだけ外側に出られた気がする」
アークは頷いた。
『現実でも、アステリオでも』
「うん」
『少しずつだな』
「うん」
「少しずつ」
ノアは広場の灯りを見つめた。
まだ、全部は言えない。
現実の名前までは、まだこの世界の仲間たちに明かせない。
それでいいのかという迷いは、胸の奥に小さく残っている。
でも今日は、それよりも言えたことのあたたかさを大事にしたかった。
「アーク」
『何』
「話せてよかった」
『俺も』
「三人に、ちゃんと聞いてもらえてよかった」
『うん』
「嬉しかった」
『うん』
『俺も嬉しかった』
その声がやさしくて、ノアは小さく笑った。
現実へ戻る前、アークがそっと手を差し出した。
ノアは迷わずその手を取る。
アステリオの中で繋ぐ手。
現実とは違う感覚。
でも、今は確かに同じ温度を持っている。
『また明日』
アークが言う。
「うん」
「また明日」
ログアウトすると、部屋は静かだった。
フルダイブ装置から体を起こした澪は、しばらく天井を見つめていた。
胸の奥が、あたたかい。
でも、その奥に小さな迷いも残っている。
関係は言えた。
でも、ノアが澪であることまでは言っていない。
それは、まだ嘘なのだろうか。
それとも、今は守るべき線なのだろうか。
答えは、すぐには出なかった。
スマート端末が震える。
朔からだった。
『言えてよかった』
『三人とも、ちゃんと聞いてくれたな』
澪は画面を見つめる。
少し迷ってから、返信を打った。
『うん』
『嬉しかった』
送信してから、少しだけ間を置いて、もう一文を打つ。
『でも、まだ少し考えてる』
すぐに既読がついた。
『明日、話そう』
『一緒に考える』
その文字を見て、澪はゆっくり息を吐いた。
一人で抱えなくていい。
現実でも、アステリオでも。
澪は端末を胸に抱えた。
今日は、ちゃんと言えた。
ノアとアークとして、大事な人だと伝えられた。
そのあたたかさと、まだ残る小さな迷いを、どちらも胸に抱えたまま、澪は静かに目を閉じた。




