第8章 第7話:人前で、隣に立つ
朝から、澪はずっと落ち着かなかった。
鞄の内側には、星のチャームがついている。
昨日までは、それを見るたびに少し嬉しかった。朔と一緒に買ったもの。二人だけが知っている、小さなお揃い。
でも今日は、その星が少しだけ重く感じられた。
教室で噂が聞こえた。
神谷と朝倉って付き合ってるのかな、と。
お揃いって言ってなかった、と。
悪意ではない。
それはわかっている。
けれど、好奇心の視線は思っていたより胸に刺さった。
そして今日、朔は言った。
教室で普通に声をかける。
一緒に帰ろうって言う。
こそこそしない。
澪も頷いた。
怖いけれど、避けたくないと思った。
隠したくないと決めたのだから。
それでも、いざその日になると、心臓は朝からずっと忙しかった。
「朝倉」
席に着いた瞬間、夏希が後ろから声をかけてきた。
「……何」
「今日でしょ」
「何が」
「神谷が人前で声かけるやつ」
「何で知ってるの」
「顔」
「もうそれ禁止にして」
「無理」
夏希は机に頬杖をつき、少しだけ真面目な目で澪を見る。
「怖い?」
「怖い」
「でも、やる?」
「うん」
「そっか」
夏希は軽く頷いた。
「じゃあ、私は見守る」
「茶化さない?」
「たぶん」
「たぶん?」
「状況による」
「夏希」
「冗談」
夏希は少しだけ笑った。
でも、すぐに声をやわらげる。
「大丈夫。あんたが思ってるより、みんな他人のことずっとは見てない」
「うん」
「でも、見られてるって感じるのはきつい」
「うん」
「だから、怖かったら怖いでいい」
「……うん」
「ただ、一人で立とうとしないこと」
その言葉に、澪は胸の奥が少し温かくなる。
「朔にも言われた」
「でしょ」
「夏希にも言われた」
「何回でも言う」
夏希は少しだけ表情を緩めた。
「行ってきな、って言う準備はしておく」
「それ、今言う?」
「予告」
「ありがと」
「どういたしまして」
ホームルームが始まり、授業が進んでいく。
けれど澪は、黒板の文字を写しながらも、何度も時計を見てしまった。
放課後が近づいてくる。
逃げたいわけではない。
でも、早く来てほしいわけでもない。
怖い。
けれど、その怖さの奥に、小さな期待もある。
朔が人前で、自分に声をかける。
一緒に帰ろうと言う。
それは、ただの帰宅の誘いだ。
でも今の澪たちにとっては、隠さない恋を一歩進めるための言葉だった。
昼休み、ひなが澪の席へやってきた。
「朝倉先輩」
「何?」
「今日、何かあります?」
また鋭い。
澪は一瞬だけ言葉に詰まった。
ひなはそれを見て、すぐに目を細める。
「ありますね」
「……ある、かも」
「神谷先輩関係ですか」
「……うん」
「そっか」
ひなは少しだけ目を伏せた。
その横顔に、まだ完全には消えない痛みが見えた気がした。
けれど、ひなはすぐに顔を上げる。
「逃げないやつですか?」
その問いに、澪は小さく息を吸った。
「うん」
「なら、頑張ってください」
「……うん」
「でも、無理しすぎないでください」
「うん」
「神谷先輩にちゃんと頼ってください」
「うん」
「あと」
ひなは少しだけ頬を膨らませた。
「幸せになる約束、継続中ですから」
澪は少し笑った。
「忘れてない」
「ならいいです」
ひなはにこっと笑った。
その笑顔は、昨日より少しだけ自然だった。
午後の授業は、長かった。
チャイムが鳴るたび、胸が跳ねる。
六限目が終わる頃には、指先が少し冷たくなっていた。
終礼が終わる。
教室の空気が一気に動き出す。
椅子を引く音。
鞄を閉める音。
部活へ急ぐ声。
寄り道の相談。
いつもと同じ放課後のざわめき。
澪はゆっくりと教科書を鞄にしまった。
動作が少しぎこちない。
鞄の内側で星のチャームが小さく揺れる音がした気がした。
前方で、朔が立ち上がる。
澪は視線を上げる。
朔もこちらを見た。
目が合う。
その瞬間、胸が強く鳴った。
朔は少しだけ息を吸ったように見えた。
彼も緊張している。
それがわかった。
でも、逃げなかった。
朔は鞄を持ち、席から離れた。
教室の前方から、澪の席へ向かって歩いてくる。
近くにいた数人が、ちらりと目を向けた。
昨日の噂があるからかもしれない。
神谷が朝倉の席へ行く。
それだけで、空気が少しだけ動く。
澪の指先に力が入った。
怖い。
やっぱり怖い。
でも、朔は来てくれている。
席の横で、夏希が小さく息を吐いた。
見守ってくれている。
何も言わずに。
朔が澪の机の前で足を止めた。
「澪」
名前を呼ばれた。
教室の中で。
人前で。
いつもの声で。
それだけで、周囲のざわめきが少しだけ遠くなる。
「……何」
澪の声は小さかった。
でも、震えすぎてはいなかった。
朔は少しだけ目を伏せ、それからちゃんと澪を見る。
「一緒に帰ろう」
短い言葉だった。
けれど、澪の胸には深く届いた。
周囲が少しだけざわつく。
誰かが小さく「やっぱり」と言った気がした。
誰かがこちらを見ている気配がする。
怖い。
でも、朔は隣に立っていた。
澪は鞄を持った。
立ち上がる。
「……うん」
頷く。
「帰ろう」
それだけを言うのに、こんなに勇気が必要だとは思わなかった。
でも言えた。
夏希が後ろから小さく言った。
「行ってきな」
澪は振り返る。
夏希はいつものように少し茶化すような顔をしていたけれど、その目は優しかった。
「うん」
澪は小さく頷く。
ひなは教室の後ろ側からこちらを見ていた。
少しだけ寂しそうで、それでもちゃんと笑っていた。
「行ってらっしゃいです」
小さな声だった。
凛花は席で鞄を閉めていた。
こちらを一度見て、静かに目を伏せる。
けれど、顔を背けるわけではなかった。
由良は窓際で、穏やかに頷いた。
その微笑みは少しだけ切なく、でもあたたかかった。
澪は胸がいっぱいになった。
見られている。
でも、責められているわけではない。
茶化されることも、好奇心も、少しはある。
それでも、自分たちを見守ってくれる人もいる。
朔が隣で小さく言う。
「行こう」
「うん」
二人は並んで教室を出た。
廊下へ出るまでの数歩が、とても長く感じた。
背中に視線を感じる。
でも、逃げなかった。
朔も逃げなかった。
廊下に出ると、澪は小さく息を吐いた。
「大丈夫?」
朔がすぐに聞く。
「……心臓がすごい」
「俺も」
「朔も?」
「かなり」
朔は少しだけ苦笑する。
「でも、言えた」
「うん」
「言ってくれて、ありがとう」
「俺も」
「何が?」
「頷いてくれて、ありがとう」
その言葉に、澪の胸がじんと熱くなる。
昇降口へ向かう廊下には、他の生徒もたくさんいた。
二人で並んで歩くだけで、まだ少し緊張する。
けれど、さっき教室で一歩踏み出したからか、足は止まらなかった。
靴を履き替え、校門へ向かう。
外の空気は少し冷たかった。
夕方の光が校庭を照らし、部活の掛け声が遠くで響いている。
校門を出るまでは、手は繋がなかった。
それでも、隣に立っている。
人前で、避けずに。
それだけで十分大きなことだった。
住宅街へ入って、人通りが少し減ったところで、朔が小さく手を差し出した。
「今は?」
いつもの確認。
澪はその手を見た。
そして、少しだけ笑った。
「うん」
手を取る。
指が絡む。
いつもの温度が戻ってくる。
その瞬間、ようやく身体の力が少し抜けた。
「……怖かった」
澪は正直に言った。
「うん」
「でも、逃げなくてよかった」
「うん」
「朔が来てくれたから」
「澪が頷いてくれたから」
二人は少しだけ笑った。
笑ったあと、澪は前を向く。
「教室、ざわってしたね」
「したな」
「聞こえた?」
「少し」
「嫌だった?」
「少し」
「私も」
「でも」
朔は繋いだ手に少しだけ力を込める。
「嫌だっただけじゃない」
「うん」
「ちゃんと、俺たちで歩いた感じがした」
澪は頷いた。
「うん」
「私も、そう思った」
隠さない恋。
それはきっと、きれいで強いものだけではない。
怖いし、恥ずかしいし、人の目に揺れる。
でも、今日みたいに隣へ立てた瞬間、少しだけ自分たちのものに戻せる。
誰かの噂ではなく。
誰かの好奇心ではなく。
澪と朔の関係として。
それを、今日初めて少し感じられた。
「澪」
「何」
「明日から、たぶんもっと聞かれるかもしれない」
「うん」
「大丈夫じゃない時は言って」
「うん」
「俺も言う」
「うん」
「あと」
朔は少しだけ目を逸らす。
「聞かれたら、俺はごまかさない」
澪の胸が鳴る。
「付き合ってるって?」
「うん」
「……うん」
「澪は、無理に答えなくていい」
「え」
「俺が言う」
その言葉に、澪は一瞬嬉しくなって、それからすぐに首を振った。
「一人で言わないで」
「澪?」
「私も、言えるようになりたい」
「……」
「すぐには無理かもしれないけど」
「うん」
「でも、朔だけに言わせるのは違う」
朔はしばらく澪を見ていた。
それから、小さく頷く。
「わかった」
「うん」
「じゃあ、一緒に言おう」
「うん」
「怖くなったら?」
「言う」
「俺も言う」
繰り返し確認する。
そのたびに、少しずつ不安が形を変える。
帰り道の途中、澪は鞄の内側にある星のチャームを思い出した。
今は見えない。
でも、そこにある。
朔の鞄の内側にも月がある。
いつか外側につけられるようになるかな、と昨日話した。
その“いつか”は、まだ遠い。
でも、今日一歩だけ近づいた気がした。
「朔」
「何」
「今日、少し外側に出た感じがした」
「チャーム?」
「それもあるけど」
澪は少しだけ笑う。
「私たちが」
朔は静かに頷いた。
「うん」
「まだちょっと怖いけど」
「うん」
「でも、少しだけ」
澪は繋いだ手を見る。
「隠れなくても大丈夫かもしれないって思えた」
朔の手が、やさしく握り返してくる。
「俺も」
短い返事。
でも、その声には確かな温度があった。
家の前に着く頃には、夕方の空が少しずつ暗くなっていた。
街灯が灯り始め、住宅街に夕飯の匂いが漂っている。
二人は玄関前で立ち止まる。
繋いだ手を離す前に、澪は朔を見た。
「今日は」
「うん」
「ありがとう」
「俺も、ありがとう」
「また明日」
「うん」
「教室で」
「うん」
「……隣にいてね」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
朔は真面目な顔で頷いた。
「いる」
「私も」
「うん」
「朔の隣にいる」
その言葉に、朔の表情が少しだけ緩んだ。
「また明日」
「うん」
「また明日」
家に入って自室へ戻ると、澪は鞄を机の上に置いた。
内側の星のチャームに触れる。
今日、教室で朔が言った。
一緒に帰ろう。
たったそれだけの言葉。
でも、澪にとっては大きな一歩だった。
人前で、隣に立つ。
その怖さを知った。
その心強さも知った。
澪はスマート端末を開く。
朔からのメッセージが届いていた。
『今日は頑張った』
『明日も隣にいる』
胸が熱くなる。
澪は少し迷ってから、返信を打った。
『私も隣にいる』
『怖くても、一緒に』
送信してから、星のチャームをもう一度見た。
小さな青い星は、鞄の内側で静かに揺れている。
まだ外側ではない。
でも、もう完全に隠れているわけでもない。
澪はその揺れを見つめながら、今日の教室のざわめきと、朔の声を思い出した。
怖かった。
でも、嬉しかった。
その二つを抱えたまま、少しずつ前へ進めばいい。




