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星を隠さぬ君の隣で  作者: 最後に残った形


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第1章 第9話:見ているだけでは、もう無理だ


 放課後の空気は、昼より少しだけやわらかいはずなのに、その日の澪には妙に重く感じられた。


 六限が終わって教室のあちこちで椅子が引かれ、誰かの笑い声が立ち上がる。窓の外には傾きはじめた陽が見えていて、校庭の端を長く照らしていた。いつもなら、それだけで一日の終わりが近いと少しほっとする時間だ。


 でも今日は違った。


 昼休みに夏希へ少しだけ本音をこぼしてしまったせいか、胸の奥に沈めていたものの輪郭が、朝よりずっとはっきりしてしまっている。


 幼馴染のままでは足りない。


 その事実を認めたあとでは、教室の中の何気ない景色すら前とは違って見えた。


「澪、帰る?」


 鞄を肩へかけながら、夏希がいつもの調子で訊いてくる。


「……うん」

「神谷は?」

「知らない」

「ほんとに?」

「ほんと」


 そう答えた直後、後方から聞き慣れた声が落ちた。


「何がほんと?」


 肩がびくりと揺れる。


 振り向くと、朔が机の間を縫うようにこちらへ来ていた。男子と何か話していたはずなのに、気づけばもう近い。こういうところだ、と澪は思う。人に囲まれていても、澪のところへ来る時だけ妙に自然で、まるでそれがずっと前から決まっていたみたいな顔をする。


「……別に」

「それ絶対別にじゃないやつ」

「はいはい、お邪魔虫は消えますよー」

 夏希がわざとらしく言って、澪の肩を軽く叩いた。

「またね」

「うん」

「神谷」

「ん?」

「変に急がないでね」

「何の話?」

「自覚ないならなおさら厄介ってこと」


 朔が眉をひそめる前に、夏希は手を振って教室を出ていった。


「なんだよ今の」

「さあ」

 澪はできるだけ平静な顔で答える。


 けれど内心では、夏希の残した言葉が妙に引っかかっていた。

 変に急がないで。

 それは朔へ向けた言葉であると同時に、今の澪の不安を見透かしているみたいでもあった。


「今日さ」

 朔が澪の机の横に寄りかかる。

「このあと、少し時間ある?」

「……え」

「いや、昨日のことちゃんと話したいなと思って」


 昨日のこと。


 たったそれだけで、澪の心臓がひとつ強く打つ。


 やっぱり逃がしてくれないのだと思う。朝だって、昼だって、朔はきっと気にしていた。何もなかったことにはしない。そういう誠実さがある。


 だから困る。


 今ここで真正面から来られたら、澪は自分がどこまで誤魔化せるのかわからなかった。


「別に、話すほどのことじゃ」

「あるだろ」

 朔の声は強くなかった。ただ、いつもより少しだけ真っ直ぐだった。

「澪が無理してるの、わかるし」

「無理してないって」

「してる」

「してない」

「してるって」


 やり取りだけ聞けば、子どもの喧嘩みたいだ。


 でもその応酬の奥にあるものが、今はもう昔と同じじゃない。

 澪は唇の内側を小さく噛んだ。


 言えない。

 言えるわけがない。


 無理してるのは、朔のせいでもあるのだと。

 あなたが誰にでも優しいから。

 誰とでも並べるから。

 そのくせ澪のことまでちゃんと見てくるから。

 だから自分だけが勝手に期待して、勝手に苦しくなっているのだと。


「神谷くん」


 澪が口を開く前に、別の声が割って入った。


 凛花だった。


 教室の後ろ扉の近くに立ったまま、こちらを見ている。今日も視線を集めることに慣れた顔をしていて、けれどその目だけは思っていたより静かだった。


「先生、さっき呼んでたよ。昨日のイベントの感想コメント、学内配信に使うかもしれないからって」

「あ、マジで?」

「マジ」

「うわ、忘れてた」


 朔が軽く頭をかく。

 凛花はそこで澪へも視線を向けた。


「朝倉さんも、あとで呼ばれるかも」

「……そうなんだ」

「たぶん。昨日かなり貢献値高かったし」


 ありがたい言葉のはずなのに、今は素直に受け取る余裕がない。

 澪はただ曖昧に頷く。


「じゃ、神谷くん。先に行くなら待ってるけど」

「いや、すぐ行く」

「そう。なら廊下で待ってる」


 凛花はそれだけ言って教室を出た。


 去り際、ほんの一瞬だけ澪へ向けられた目があった。何かを察しているようにも、何も言わずに退いてくれたようにも見える、妙に大人びた視線だった。


 朔は小さく息をついて、澪へ向き直る。


「ごめん、ちょっと行ってくる」

「うん」

「でも、そのあと時間あるなら」

「朔」

 澪は思わず遮っていた。

「……今日じゃなくてもいいでしょ」

「良くないから言ってる」

「私は良くないの」

 口にした瞬間、自分でも少し強すぎたと思った。


 朔が目を見開く。


 澪は慌てて言葉を継ごうとしたが、その前に喉の奥で何かがつかえた。

 教室の中にはまだ何人か人がいる。誰も露骨には見ていないけれど、完全に二人きりでもない。そんな場所で感情をこぼしたくなかった。


「……ごめん」

 先に視線を落としたのは澪だった。

「今、ちょっと、うまく話せないから」

「澪」

「ほんとに、ごめん」


 それ以上は言えなかった。


 鞄を持って立ち上がると、朔が何か言いかける気配がした。でも聞かなかった。聞いてしまったら、たぶん足が止まる。


 教室を出ると、廊下には夕方の光が薄く伸びていた。呼吸が少し浅い。澪はそのまま早足で昇降口まで向かう。


「朝倉さん」


 途中で呼び止められた。


 立ち止まると、そこにいたのは凛花だった。壁際に寄って腕を組み、しかし威圧感はない。ただ逃がさないように立っているだけ、という感じが妙に彼女らしい。


「……何?」

「そんなに警戒しなくても、取って食べたりしない」

「別に警戒はしてない」

「してる顔してる」


 あっさり言われて、返す言葉に詰まる。


 凛花は小さく肩をすくめた。


「神谷くんのこと」

「……っ」

「好きなんでしょ」


 あまりにも真っ直ぐで、澪は一瞬呼吸を忘れた。


 否定しようとした。

 でも、今さらその言葉は薄すぎた。


「答えなくてもいい」

 凛花は淡々と続ける。

「顔見ればわかるから」

「そんなに、わかりやすい?」

「今日は特に」


 そう言われると、さすがに少し傷つく。

 隠してきたつもりだった。少なくとも、見抜かれても確信までは与えない程度には。


 でも昨日から今日にかけて、自分の感情は思っていた以上に表へ滲み出てしまっているらしい。


「……篠宮さんも」

 澪は慎重に言葉を選ぶ。

「朔のこと、好きなんだよね」

「うん」

 凛花は一切躊躇せずに頷いた。

「好き」

 その即答に、胸が小さく痛んだ。


 そんなふうに言えるのがすごいと思う。

 羨ましいとも思う。

 でもそれ以上に、怖い。


 自分がずっと言えずにいたことを、彼女はこんなにも迷いなく口にする。


「だから言っとく」

 凛花は澪の目を見たまま言った。

「見てるだけじゃ取られるよ」

「……」

「もう気づいてるでしょ?」

「気づいてる」


 認めるしかなかった。


 昨日の夜から、ずっとそのことばかり考えている。

 凛花だけじゃない。由良も、ひなも、そのほかの誰かだって、朔の隣へ行く可能性を持っている。自分が足を止めている間に、誰かはきっと一歩進む。


「でも」

 澪はやっとのことで言った。

「壊れたら、終わる」

「終わらないこともある」

「でも、終わるかもしれない」

「そうね」

 凛花はあっさり認めた。

「その可能性はある」


 否定してくれない。

 大丈夫だと慰めてくれない。

 それが逆に、凛花の誠実さみたいなものだと澪は思った。


「じゃあ、どうしたらいいの」

 思わず漏れた声は、思っていたより弱かった。

「怖くても行くしかないの?」

「少なくとも、何も言わないまま他の誰かに取られてから泣くよりはいいんじゃない」

「……強いね」

「強く見えるだけかも」


 凛花はそこで少しだけ笑った。

 初めて見る、ほんの僅かに力の抜けた笑い方だった。


「私だって余裕あるわけじゃないよ」

「え」

「あるように見せてるだけ」

「……そんなふうには見えない」

「でしょ。だから得してることも多い」

 そう言ってから、凛花はまっすぐ澪を見る。

「でも、朝倉さんはたぶん逆だよね」

「逆?」

「平気そうに見せるの、うまいくせに、本当にほしいものの前だと一番我慢してる」


 その言葉は、図星すぎて痛かった。


 澪は何も返せない。

 凛花はそれを責めるでもなく、ただ事実みたいに置いていく。


「忠告しとくけど」

 凛花が続ける。

「神谷くん、たぶん鈍いようで鈍くないよ」

「……どういう意味?」

「本当にどうでもいい相手なら、あんなに気にしない」

「それは、幼馴染だから」

「それだけで片づけたいなら、それでもいい」

 凛花の声は穏やかなままだった。

「でも、そうやって“幼馴染だから”に逃げ続けるの、一番楽なのは誰?」

「……」

「少なくとも神谷くんじゃないと思う」


 澪は小さく息を呑む。


 考えたこともなかった。

 朔がどう思っているかではなく、自分がどう逃げているかばかり気にしていたから。


「別に私は、朝倉さんに譲るつもりで言ってるわけじゃない」

 凛花は最後にそう付け足した。

「勝つ気でいるし」

「……正直」

「でしょ」

「うん」

「でも、同じ土俵に立たない相手に勝っても、あんまり気持ちよくないの」


 その言葉は、挑発のようでいて、変に清々しかった。


 凛花はきっと本当に本気なのだ。

 朔のことが好きで、取る気でいて、そのうえで澪にも逃げるなと言っている。


 敵なのに、どこかで一番まっすぐ現実を突きつけてくる人だった。


「……ありがとう」

 気づけば、澪はそう言っていた。

「別にお礼言われることしてない」

「それでも」

「じゃあ、ちゃんと悩みなよ」

 凛花は軽く手を振る。

「中途半端が一番失礼だから」


 言いたいことだけ言って、凛花はそのまま階段のほうへ去っていく。

 背筋の伸びた後ろ姿が、最後までぶれなかった。


 澪はしばらくその場に立ち尽くしていた。


 見てるだけじゃ取られる。

 幼馴染だから、に逃げ続けるのが一番楽。

 中途半端が一番失礼。


 どの言葉も、思い当たることばかりだ。


 下駄箱で靴を履き替えて外へ出ると、夕方の空はもうオレンジ色を越えて、薄い群青へ傾き始めていた。校門から出る生徒たちの波に紛れながらも、澪の足取りは自然と遅くなる。


「朝倉」


 また名前を呼ばれた。


 今度は、少し低い声だった。


 振り向くと、朔が息を少し切らして立っていた。感想コメントの件を片づけてきたのだろう。鞄の持ち方も少し雑で、急いで追ってきたのがわかる。


「……何」

「何じゃない」

 朔は息を整えながら言う。

「逃げるなよ」

「逃げてない」

「逃げてる」

「朔」

「俺、そんなに変なこと言ってる?」

「言ってない」

「じゃあ、なんでそんな顔するんだよ」


 そんな顔。


 きっと今の澪は、うまく笑えていないのだろう。


 黙っていると、朔が一歩だけ近づく。


「昨日からずっと変だし、今日も朝から変だし、さっきだって」

「だから」

 澪は思わず言葉を被せた。

「今は無理だって言ってるでしょ」


 強い声が出る。


 通り過ぎる何人かが、ちらりとこちらを見る。

 澪はそれに気づいて、唇を噛んだ。こんなところで言い合いたいわけじゃない。


 でも、止まらなかった。


「朔はいいよね」

 気づけば、そんな言葉がこぼれていた。

「え」

「気にするだけで済むから」

「……どういう意味?」

「そのままの意味」


 自分でも、ひどい言い方だと思う。

 朔にぶつけるべき言葉じゃないこともわかる。


 でも今の澪には、もう綺麗に整えて話す余裕がなかった。


「みんなに優しくして、ちゃんと気づいてるみたいな顔して」

「澪」

「そのくせ、肝心なところは何も言わないじゃん」


 そこまで言って、ようやく自分が何を口にしてしまったのか理解する。


 幼馴染としては明らかに踏み込みすぎた。

 ノアとしての距離でも、たぶんここまでは言っていない。


 朔は目を見開いたまま動かない。

 夕方の光が、その横顔の輪郭を少しだけ固く見せていた。


「……それ」

 朔がゆっくり口を開く。

「俺、何かした?」

「してない」

「じゃあ」

「してないよ。してないけど」


 その先が続かない。


 言えるはずがない。

 あなたが誰かに取られそうで怖い、なんて。

 もっと私を見てほしい、なんて。

 そんなこと、今の流れのまま口にしたら、全部終わる気がした。


「ごめん」

 結局、澪はそれしか言えなかった。

「今の忘れて」

「忘れられるわけないだろ」

「……」

「澪」


 呼ばれる。

 その声が、困るほど近い。


 朔はいつもより真剣な顔をしていた。軽く笑って流すことも、曖昧に誤魔化すこともせず、ただまっすぐこちらを見ている。


「俺、ちゃんと聞くから」

 静かな声だった。

「だから、逃げないで言って」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひどく揺れた。


 言ってしまいたい、と思った。

 今ここで全部。

 ずっと好きだったことも、

 昨日の夜、あなたがフレアと並んでいるのを見て苦しかったことも、

 幼馴染のままじゃもう足りないことも。


 でも、喉の奥で言葉は固まったまま出てこない。


 数秒の沈黙が、やけに長い。


 澪は結局、視線を落として、小さく首を振った。


「……今は無理」

「なんで」

「怖いから」

 それだけは、かろうじて本音だった。


 朔が息を呑む気配がした。


 澪はもう顔を上げられなかった。


「ごめん」

 繰り返して、それから一歩下がる。

「今日は、ほんとにもう帰る」


 今度は止められなかった。

 あるいは、止めなかったのかもしれない。


 背中に朔の視線を感じながら、澪は校門を抜ける。

 心臓が速い。喉が苦しい。涙が出そうなほどではないのに、胸の奥だけがじくじくと熱い。


 家までの道を歩きながら、何度も思う。


 もう、見ているだけじゃ無理だ。

 でも、だからといって踏み出す勇気もまだ足りない。


 中途半端なまま苦しい。

 言えないまま苦しい。

 幼馴染のままでいたい気持ちと、その先をほしがる気持ちが、胸の中でずっとぶつかり合っている。


 夕暮れはゆっくり夜に変わっていく。

 群青の下で、街の灯りがひとつずつ滲みはじめる。


 澪は鞄の紐を強く握りしめながら、足を止めずに歩き続けた。


 朔の隣にいたい。

 でも、ただ隣にいるだけではもう耐えられない。


 その矛盾を抱えたまま、

 それでもまだ言えない自分が、

 ひどく情けなくて、どうしようもなく好きだった。

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