第1章 第8話:言えないまま、朝が来る
メッセージの通知は、しばらく消えなかった。
ベッドの端に座ったまま、澪は手の中のスマート端末を見つめていた。画面の上部に並ぶ名前は、見慣れすぎているはずなのに、今夜に限っては妙に遠く感じる。
神谷朔
その四文字だけで、胸の奥がまた静かに痛んだ。
たぶん、責めるような内容じゃない。
きっと、いつも通りの優しい言葉だ。
大丈夫か、とか。
急に落ちたから心配した、とか。
そういう、澪がいちばん困るやつ。
返したい気持ちはあった。
無視したいわけじゃない。
むしろ、返せない自分のほうがずっと嫌だった。
でも今の自分が画面を開いたら、たぶんどんな言葉を見ても勝手に期待してしまう。
それが怖かった。
澪は端末をそっと伏せる。
部屋の中は静かだった。エアコンの弱い送風音と、遠くで走る車の気配だけが、夜の薄い静寂の中に混ざっている。机の上には今日の課題プリントが開いたまま置かれていたけれど、もう目を通せる気はしなかった。
代わりに、さっきまでいた仮想空間の景色ばかりが頭に残っている。
黒い蕾。
最終戦の圧。
アークの背中。
フレアと並んだ時の、あまりにも自然な強さ。
そして、自分が思わず声を荒げた瞬間。
「……最悪」
小さく呟いた声は、思っていたより掠れていた。
あんなふうに感情を出すつもりじゃなかった。
ノアの時は、もう少しうまくやれると思っていたのに。
現実の自分より、少しだけ素直で。
少しだけ落ち着いていて。
少しだけ、好きだという気持ちを遠くから扱える顔。
ノアは、そういう自分でいられる場所のはずだった。
それなのに結局、好きだという感情だけは隠しきれなかった。
ベッドへ身体を倒すと、マットレスが鈍く沈む。
天井を見上げても、落ち着くどころか思考だけが冴えていった。
朔は気づいただろうか。
いや、さすがに全部まではわからないにしても、何かがおかしいことくらいは伝わったはずだ。いつもより強い口調だったし、途中から露骨に距離も取った。最後なんて、ほとんど逃げるみたいにログアウトしてしまった。
幼馴染としても、仲間としても、たぶんあまり褒められた態度じゃない。
わかっている。
わかっているのに、今さら取り繕う余裕もなかった。
また端末が短く震えた。
澪は反射的に肩を揺らし、それからそっと画面を確認する。
やはり朔からだった。
『寝た?』
『怒ってるならごめん』
その二行だけで、胸のあたりがぎゅっと縮む。
違う、と思う。
怒っているわけじゃない。
少なくとも、それだけじゃない。
朔が悪いわけじゃない。
フレアが悪いわけでも、セレスやピピが悪いわけでもない。
誰も悪くないのに、勝手に苦しくなって、勝手に逃げたのは自分だ。
それなのに、こうして先に謝られてしまうと、ますます立つ瀬がなくなる。
澪は指先を画面の上に浮かせたまま、何度もメッセージ入力欄を開いては閉じた。
『怒ってないよ』
『少し疲れただけ』
『ごめん、今日はもう寝る』
無難な文ならいくらでも作れる。
でも、どれも嘘ではない代わりに、本当のことでもなかった。
怒ってはいない。
でも苦しい。
疲れている。
でも、それだけでログアウトしたわけじゃない。
寝たい。
でも、こんな気持ちのまま眠れる気がしない。
結局、何ひとつ送れないまま、澪はまた画面を伏せた。
翌朝、目が覚めた時には、空は薄い水色に変わっていた。
いつもより眠りは浅かったはずなのに、身体は妙に重い。カーテンの隙間から差し込む朝の光がやけに現実的で、昨夜のVRの鮮やかさが嘘みたいだった。
枕元の端末を手に取る。
未読のまま残ったメッセージが二件。
追加は来ていなかった。
少しだけ安心して、同時に少しだけ寂しくなる。
自分でも面倒くさいと思う。
「……ほんと、何してるんだろ」
呟いてから、ようやく澪は短く返信した。
『怒ってない。ごめん、少し疲れてた』
『また学校で』
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥に小さな痛みが走る。
それは嘘じゃない。
でも、これでもやっぱり足りない。
本当は、
怖かったことも、
心配で仕方なかったことも、
あの時フレアと並ぶ朔を見て苦しかったことも、
何も言えていない。
画面の向こうへ流したのは、幼馴染として破綻しない範囲の言葉だけだった。
制服に着替えながらも、気分は晴れなかった。
洗面台の鏡に映る自分の顔は思ったよりいつも通りで、それがかえって少し嫌になる。
平気そうに見えてしまう。
たぶん今日も、学校へ行けば普通に笑える。
朔に会えば、たぶんいつもみたいに話せてしまう。
でも、それは何もなかったことにはならない。
朝食を手早く済ませて家を出ると、春の朝の空気はまだ少し冷たかった。通学路には同じ制服の生徒たちがぽつぽつと歩いていて、遠くから自転車のベルの音が聞こえる。
曲がり角の先に、見慣れた背中があった。
朔だ、と気づいた瞬間、足が止まりかける。
向こうも同時に振り向いた。
視線が合う。
「おはよ」
先に言ったのは朔だった。
声はいつもと同じで、けれど少しだけ様子をうかがう色が混じっていた。
「……おはよう」
澪もなんとか返す。
それだけで、妙にぎこちない間が落ちた。
昔なら何でもなかった距離だ。
並んで歩くことも、朝に顔を合わせることも、ほとんど呼吸と同じくらい自然だった。
なのに今日は、その最初の一歩がやけに難しい。
「昨日」
朔が口を開く。
「メッセージ返してくれてありがと」
「ううん」
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫だよ」
反射みたいに答えると、朔は少しだけ困った顔をした。
「……澪の大丈夫、最近ちょっと信用ならない」
「何それ」
「いや、そのままだけど」
言い方は軽いのに、視線だけはちゃんとこちらを見ている。
そういうところだ、と思う。
いい加減そうに見えて、肝心なところで見逃してくれない。
「昨日、なんかあった?」
朔が続ける。
「イベントの最後のほうから、ちょっと変だったし」
「変じゃないよ」
「変だった」
「朔」
「責めてるわけじゃない。気になっただけ」
その“気になっただけ”が、ひどく近い。
澪は視線を逸らして、歩きながら鞄の紐を握り直した。
言えるわけがない。
あなたが怪我しそうになって怖かったとか。
フレアと並んでるのを見て苦しかったとか。
自分だけが置いていかれる気がして、耐えられなくなったとか。
そんなこと、今この朝の道で、いつもの顔をしたまま言えるわけがない。
「ただ、ちょっと疲れただけ」
「それだけ?」
「それだけ」
嘘だ。
自分でもはっきりわかるくらい、嘘だった。
でも朔は、それ以上すぐには踏み込まなかった。
しばらく黙って並んで歩き、それから小さく息を吐く。
「……そっか」
「うん」
「なら、いいけど」
「うん」
良くないくせに。
何ひとつよくないのに。
言葉はそこで切れた。
校門へ向かう坂道を上がる途中、前のほうから明るい声がした。
「神谷くん、おはよう!」
顔を上げると、凛花がこちらへ歩いてくるところだった。朝の光の中でも目を引く整った姿で、迷いなくまっすぐ朔へ視線を向けている。
「お、篠宮。おはよ」
「昨日のイベント、お疲れさま。最後の連携、かなり良かった」
「そっちも。助かった」
「でしょ?」
凛花は軽く笑ってから、澪にも目を向けた。
「朝倉さんもお疲れさま。最後の固定、綺麗だった」
「……ありがとう」
まっすぐな評価だ。
ありがたいはずなのに、胸の奥では別の感情が静かに疼く。
朔と凛花が並んで立つと、やっぱり目を引く。
朝の校門前みたいな、何でもない場所ですらそう思ってしまう。
そしてたぶん、それは自分だけが感じていることじゃない。
「昨日、見てた子たちも結構言ってたよ」
凛花が何気なく言う。
「神谷くんと私、あの最終フェーズ相性良かったって」
「へえ」
朔が笑う。
「まあ、確かにやりやすかったかも」
「でしょ」
そのやり取りに悪意はない。
本当に、ただの会話だ。
でも澪の胸の内側では、その“やりやすかった”の一言が、細く長く引っかかる。
やりやすい。
相性がいい。
並んで強い。
そういう言葉は、まるで小さな刃みたいに後から効いてくる。
「朝倉さん?」
凛花がふと首を傾げる。
「どうかした?」
「え」
「少し顔色悪い」
思わず息を止めた。
朔だけじゃない。
凛花にまで見抜かれるくらい、今の自分は余裕がないらしい。
「大丈夫」
澪は慌てて言う。
「ちょっと寝不足なだけ」
「ほんと?」
朔がすぐに反応する。
「だから大丈夫だって」
「でも」
「神谷くん」
凛花が横から静かに呼んだ。
「そのへんにしときなよ」
朔が一瞬だけ口を閉じる。
凛花の声はきつくなかった。
むしろ落ち着いていて、妙に的確だった。
「気になるのはわかるけど、今それ以上やったら逆効果でしょ」
「……そうかも」
「そうだよ」
凛花はそこで澪に視線を戻した。
「朝倉さん、無理しないで」
「うん」
「ちゃんと寝たほうがいいよ。顔に出るタイプみたいだし」
「……そうかも」
わずかに笑うと、凛花も少しだけ口元をゆるめた。
「じゃ、先行くね。ホームルーム遅れるの嫌だし」
「うん、また」
「またね」
凛花が去っていく。
残された沈黙が、さっきより少しだけ重い。
「澪」
朔が改めて呼ぶ。
「ほんとに無理してない?」
「してない」
「いや、でも」
「朔」
今度は澪のほうが遮った。
強く言うつもりはなかったのに、少しだけ硬い声になった。
朔が目を瞬く。
「……今は、普通でいたい」
澪は視線を合わせないまま言う。
「だから、あんまり掘らないで」
「普通って」
「学校着く前に変な空気になるの、嫌だから」
それは本音だった。
こんな中途半端な状態で、何かが決定的にこじれるのは嫌だ。
でも同時に、自分が何を守ろうとしているのかも、もうはっきりしていた。
普通。
幼馴染としての距離。
壊れていないふりができる場所。
そこにしがみついている限り、安心ではいられる。
でもその安心のままでは、何も変わらない。
「……わかった」
朔はしばらくしてから、そう言った。
「ごめん」
「謝らなくていい」
「でも、気にしてるのはほんとだから」
「うん」
その“気にしてる”にすら、少し期待しそうになる自分が嫌だった。
教室へ入る頃には、どうにかいつもの顔を作れていた。
夏希には一目で怪しまれたけれど、「あとで話す」とだけ言って誤魔化した。授業が始まればノートは取れるし、当てられればちゃんと答えられる。身体はいつもの通りに動く。
でも、心のほうだけが少しずつ遅れていた。
昼休み、教室の窓際でぼんやり校庭を見ていると、夏希が隣へ来てパンを齧りながら言った。
「何があったの」
「何も」
「嘘」
「……そんなすぐわかる?」
「わかる。神谷も今日は妙におとなしいし」
その一言で、思わず視線がそちらへ向く。
朔は少し離れた席で、男子たちと昼食を取っていた。笑ってはいる。でも確かに、いつもより少しだけこちらを気にしているようにも見える。
「で?」
夏希が促す。
「喧嘩?」
「してない」
「じゃあ恋愛方面だ」
「なんでそうなるの」
「顔」
「雑すぎる……」
けれど、その雑さに救われることもある。
夏希は必要以上に追い詰めない。ただ、澪が言えるところまで待ってくれる。
澪は牛乳パックを指先で潰しながら、小さく息をついた。
「昨日、イベントで」
「うん」
「ちょっと……無理になった」
「何が」
「いろいろ」
夏希はすぐには何も言わなかった。
その沈黙がありがたくて、澪は続ける。
「朔が誰かと並んでるの、見てるのが」
そこで一度言葉が詰まる。
「思ってたより、しんどかった」
口にした途端、その事実がやけに明確になった。
見守るだけでいいと思っていた。
隣にいられるだけで十分だと、自分に言い聞かせていた。
でも実際は、そんなに綺麗な気持ちじゃなかったのだ。
「……まあ、だろうね」
夏希があっさり言う。
「え」
「いや、今さら?」
「ひどい」
「だってそうじゃん。むしろやっと認めたのかって感じ」
「認めたくなかったんだよ」
「認めたら戻れなくなるもんね」
その言葉に、澪は黙り込んだ。
戻れなくなる。
まさにそれだった。
気づかないふりをしていれば、幼馴染の場所にいられる。苦しくても、壊れはしない。
でも“足りない”と認めた瞬間、その場所だけでは耐えられなくなる。
「……どうしよう」
澪は小さく呟く。
「どうしたいの」
夏希が返す。
「それを先に考えな」
どうしたいか。
その問いは、思っていたよりずっと重かった。
ただ苦しいだけなら、距離を取ることもできる。
でも本当は、離れたいわけじゃない。
むしろ逆だ。近づきたい。特別になりたい。隣にいるだけではなく、選ばれたい。
そんな願いを抱えたまま、今まで通りの幼馴染でい続けるのは、もう難しい。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
生徒たちのざわめきが席へ戻っていく中で、澪は窓の外の空を見上げた。
青くて、何でもない昼の空だった。
それなのに胸の内側では、昨日の夜から続く言葉が、ますます鮮明になっていく。
このままじゃ、本当に誰かに取られる。
それは嫉妬で、焦りで、どうしようもなく身勝手な願いだ。
でももう、なかったことにはできない。
澪は机の上の教科書へ視線を落とし、そっと指先を握った。
幼馴染のままでは、もう足りない。
そう思ってしまった朝の続きを、
今日の自分はまだ、うまく飲み込めそうになかった。




