第1章 第7話:幼馴染のままでは、足りない
クリア演出の光は、思っていたより長く残った。
黒く沈んでいた最終エリアの天井に、幾重もの光環が浮かび、砕けた星みたいな粒子がゆっくり降ってくる。さっきまで空間を満たしていた圧迫感はすっかり消えていて、代わりに勝利の余韻と、各所で弾ける歓声だけが残っていた。
「やったあああ……! ほんとに勝てたぁ……!」
ピピがその場にへたり込みそうな勢いで両手を上げる。
「お疲れさまでした」
セレスがほっとしたように微笑む。
「最後、崩れなくてよかったわね」
フレアは細剣を納めながら、短く息を吐いた。
「いやほんと、最後は冷やした……」
アークがそう言って笑う。
その声も、表情も、いつもとほとんど変わらない。
なのにノアの胸の内側だけは、戦闘が終わってもまるで静まらなかった。
さっき、思わず強い声を出してしまった。
アークが傷ついた瞬間、頭より先に身体が反応した。
たぶん、もうごまかしきれないくらいには出てしまっていたのだと思う。
焦りも、怖さも、特別であってほしいという願いも。
「ノア」
やっぱり、先に声をかけてきたのはアークだった。
勝利報酬のウィンドウを閉じた彼が、数歩だけこちらへ近づいてくる。その歩幅の自然さが、余計に胸を落ち着かなくさせた。
「さっきの、なんだけど」
「……何」
「いや、何っていうか」
アークが珍しく少しだけ言い淀む。
「怒ってた、よな」
ノアは一瞬だけ視線を伏せた。
怒っていた、のかもしれない。
でも本当は、それだけじゃない。
怖かった。
また自分だけが勝手に揺れて、勝手に傷ついて、勝手に期待してしまっていることが。
しかもそれを、隠しきれなかったことが。
「別に、怒ってない」
ノアはできるだけ平らな声で言う。
「じゃあ、あれ何」
「何って……」
「おまえ、ああいう言い方あんまりしないだろ」
知っているような口ぶりだった。
それが嫌なのではない。
むしろ、嫌になるほど嬉しいのだ。
自分の変化に気づかれること。
いつもと違うとわかってもらえること。
それはたぶん、澪がいちばん欲しかったものの一部だ。
けれど今の自分には、それを素直に受け取る余裕がなかった。
「アーク先輩、今それ詰めます?」
ピピが割って入るように言った。
いつもの明るさより少しだけ慎重な声だった。
「ノア先輩、たぶん疲れてると思いますし」
「ピピ」
「いや、だってほんとに。最後かなりギリギリだったし……」
セレスもそっと頷く。
「少し休んでからのほうがいいかもしれません」
「そうね」
フレアも淡々と同意した。
「今の空気で押しても、たぶんいい答えは出ないわ」
アークは小さく息を吐いて、頭をかいた。
「……ごめん。責めたいわけじゃない」
「わかってる」
ノアは短く返す。
「ただ、ちょっと、今はうまく話せない」
「うん」
その返事がやけに優しくて、胸がまた痛んだ。
優しいから、つらい。
ちゃんと気づいてくれるから、なおさら苦しい。
少しだけ距離を取るように、ノアは視線を周囲へ逃がした。
最終エリアではまだクリア後の熱気が続いていた。戦利品の確認に盛り上がるパーティ。記念撮影のエモートを始める人たち。早くも配信クリップの話をしている声もある。
「やっぱアークたちすごかったよな」
「フレアとの前線、めっちゃ映えてた」
「後衛も安定してたし、強かったー」
何気ない称賛が、雑踏の向こうから耳に届く。
痛いほど聞き慣れた響きだった。
アークとフレア。
前線。
映える。
強い。
どれも間違っていない。
だからこそ、そこに自分が含まれていないことも、きっと自然なのだろうと思えてしまう。
「ノア先輩」
ピピが少しだけ近づいてきて、遠慮がちにこちらを見上げた。
「その……さっき、アーク先輩が庇ったとき、びっくりしましたよね」
「……うん」
「わたしも、ちょっとびっくりしました」
「ピピ」
アークが制するように名前を呼ぶ。
「ごめんなさい。でも」
ピピは一度だけ唇を結んでから、はっきり言った。
「ノア先輩、すごく心配してる顔してたので」
ノアの喉が、わずかに詰まる。
顔に出ていた。
そこまで、はっきり。
セレスは困ったように目を伏せ、フレアは静かにこちらを見ていた。その視線は責めるものではなく、ただまっすぐで、逃がしてくれない類のものだった。
「そういうの、別に変じゃないと思います」
セレスがやわらかく続ける。
「大事な人が危ない目にあったら、誰でも動揺しますし」
「……大事な人」
ノアは小さく繰り返す。
その言葉が、自分の胸のいちばん深いところにまっすぐ落ちた。
大事な人。
それはもう、とっくの昔からそうだった。
幼馴染だから。
一緒にいるのが当たり前だから。
放っておけないから。
そんな言い訳を何枚重ねても、最後に残る本心はきっとひとつしかない。
「そろそろ移動ポータル消えるわよ」
フレアが言った。
「報酬精算するなら戻ったほうがいい」
「あ、ほんとだ!」
ピピが慌ててメニューを開く。
「え、待って、記念スクショだけ撮りたいです!」
「今?」
アークが笑う。
「だってせっかくですし!」
「まあ、いいんじゃない?」
セレスも賛同する。
流れに押されるみたいに、五人は最終エリアの端へ移動した。背景には開ききった黒い蕾の残骸と、まだ降り続ける光の粒。スクリーンショット用のフレームが自動生成され、全員のアバターが横並びに配置される。
アークが中央。隣にフレア。反対側にセレスとピピ。
ノアはほんの少しだけ外側に立った。
それはたぶん無意識だった。
けれど、位置を取った瞬間に自分で気づいてしまう。
また、そうやって一歩引いている。
「ノア先輩、もっとこっち来ません?」
ピピが手招きする。
「端だと切れちゃうかも」
「……ううん、これで大丈夫」
「大丈夫じゃなくないですか?」
「ピピ」
セレスが苦笑する。
「でもほんと、もう少し寄ってもいいと思うけど」
アークが自然な調子で言った。
その一言に、ノアの足がわずかに止まる。
もっとこっち。
寄ってもいい。
そんなの、今までだって何度も言われてきた。
現実でも、VRでも、隣に来るのはずっと自然なことだった。
なのに今は、その数歩がひどく遠い。
「ノア」
アークがもう一度呼ぶ。
今度は少しだけ、声が静かだった。
ノアは迷った末に、一歩だけ近づいた。
スクリーンショットフレームの中で、距離としては十分なはずなのに、心だけが置いていかれたみたいに遠い。
「じゃあ撮りますよー!」
ピピがカウントを始める。
「さん、にー、いち!」
光が瞬く。
記念撮影は一瞬で終わったのに、その一瞬の間、ノアはずっと思っていた。
こうして並べることと、選ばれることは違う。
同じフレームに入れることと、同じ未来を望んでもらえることも、きっと違う。
撮影が終わると、ピピが満足そうにスクショを確認し始めた。
「わー、いい感じ! あとで送ります!」
「助かる」
アークが笑う。
「フレアさんめっちゃかっこいいです」
「あなたも動き回ってたわりにはちゃんと写ってるじゃない」
「えへへ」
「セレスさん、光のエフェクト綺麗ですね」
「そういうフィルタですから」
「ノア先輩も綺麗でしたよ!」
「ありがとう」
会話の輪は自然に回っていく。
その中にいるのに、ノアの心だけは少しずつ離れていくようだった。
転送ポータルが最終警告を鳴らす。
「戻るか」
アークの一言で、全員が頷いた。
光の中へ入れば、ログイン広場へ戻る。
賑やかな街。勝利の報酬。イベントクリアの余韻。
本来なら楽しい時間の続きがあるはずだった。
けれどノアは、ポータルの手前でほんの一瞬立ち止まる。
「ノア?」
アークが振り返る。
その顔を見た途端、たぶん限界なのだと思った。
このまま何事もなかったみたいに戻って、笑って、報酬を確認して、また自然に隣に立つ。
きっとできる。やろうと思えば、いつも通りに振る舞える。
でも、それをしたらたぶん、今日のこの痛みまでなかったことにしてしまう。
「ごめん」
ノアは小さく言った。
「私は、先に落ちる」
「え?」
ピピが目を丸くする。
「大丈夫ですか?」
セレスがすぐに問いかける。
「うん。少しだけ、疲れたから」
「ノア」
アークが一歩近づく。
「待って。さっきのこと、ちゃんと――」
「今は無理」
言い切った自分の声は、思ったより冷たかった。
違う。本当は冷たくしたいわけじゃない。
ただ、これ以上近くで優しい顔をされたら、たぶん何も隠せなくなる。
「悪いけど、今日はもう話せない」
「……そっか」
アークの声が少しだけ低くなる。
「なら、せめてまたあとで――」
「ごめん」
ノアはもう一度だけ繰り返した。
それ以上、続けられなかった。
ポータルではなく、自発ログアウトのコマンドを開く。
淡い青の確認ウィンドウが視界に浮かび、指先ひとつで世界との接続が切れる準備が整う。
最後に見えたのは、アークの少し困った顔だった。
追いすがるでもなく、止めるでもなく、でも確かにこちらを見ている顔。
どうしてそんな顔をするんだろう、とノアは思う。
気にしないでほしいのに。
でも気にしてほしいとも、どこかで思ってしまう。
それが、いちばん厄介だった。
ログアウトの光が視界を薄く白く染める。
ノアとしての輪郭がほどけ、アステリオの夜が遠ざかっていく。
降り続いていた光の粒も、黒い蕾も、ざわめきも、全部がゆっくり消えていった。
次に目を開けた時、そこにあったのは見慣れた自室の天井だった。
フルダイブ端末の起動音が止み、現実の静けさが戻ってくる。
カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりが、部屋の壁をぼんやり照らしていた。
澪はしばらく動けなかった。
喉の奥が熱い。
呼吸はちゃんとしているはずなのに、胸のあたりだけが重い。
端末を外して、ゆっくり上半身を起こす。
手のひらを見つめると、当然そこにはノアの白い指先ではなく、見慣れた自分の手があった。
現実に戻ってきたのだと、今さらみたいに思う。
けれど、VRで抱えた感情は何ひとつ置いてこられなかった。
スマート端末が震える。
通知表示には、神谷朔の名前。
メッセージが一件。
続けてもう一件。
澪は画面を見つめるだけで、すぐには開けなかった。
開けばきっと、いつもみたいな声がそこにある。
大丈夫か、とか。
どうした、とか。
たぶん、そんな言葉が並んでいる。
優しい言葉だ。
澪がいちばん弱い言葉でもある。
端末を握りしめたまま、澪はベッドの端に座り込んだ。
ずっと、幼馴染のままでいられればいいと思っていた。
隣にいられれば、それで幸せだと言い聞かせてきた。
でも本当は、そんなふうに綺麗に割り切れてなんかいなかった。
選ばれたい。
特別になりたい。
誰かに取られる未来なんて、見たくない。
それを認めてしまった今、もう前みたいに平気な顔ではいられない。
澪はゆっくりと目を閉じ、浅く息を吐いた。
今日はもう、返せそうになかった。
画面の向こうにいる朔にも、
隣にいるのに届かない自分にも。




