第1章 第10話:それでも、隣にいたい
家に帰ってからも、胸のざわつきは少しも収まらなかった。
制服のまま自室のベッドへ倒れ込み、澪は枕へ顔を埋める。窓の外では、昼の名残を引きずるみたいに薄い青がしばらく残っていたけれど、それもゆっくりと群青へ沈んでいった。カーテン越しの街灯が、部屋の壁へぼんやり四角い光を作っている。
疲れているはずなのに、眠気はこない。
頭の中では、さっきの校門前のやり取りが何度も繰り返されていた。
――朔はいいよね。
――そのくせ、肝心なところは何も言わないじゃん。
「……最低」
自分で言って、自分で傷つく。
あんなことをぶつけたかったわけじゃない。
朔を責めたいわけでも、困らせたいわけでもなかった。
ただ、何も言えないまま苦しくて、でも何も変わらないままなのはもっと苦しくて、そのどうしようもなさがあの一瞬で溢れてしまっただけだ。
それでも、言われた側からしたらたまったものじゃないだろう。
スマート端末を手に取ると、当然みたいに朔からのメッセージが来ていた。
『さっきの、ちゃんと話したい』
『今日は無理ならまた今度でもいい』
『でも、ひとりで抱えんなよ』
画面を見つめたまま、澪はしばらく指先を動かせなかった。
そういうところだ。
ほんとうに、そういうところなのだと思う。
放っておいてくれない。
怒るより先に心配する。
傷ついたとか、困ったとか、自分の感情を前へ出す前に、澪のほうを気にする。
それが優しさだとわかっているからこそ、余計に苦しい。
こんな言葉をもらうたび、期待してしまう。
もしかして、少しくらいは特別なんじゃないかと。
でもたぶん、朔はそういう優しさを他の誰にも向けられてしまう。
凛花にも。
由良にも。
ひなにも。
澪だけにではない形で。
それが怖い。
既読をつける勇気もなく、澪は端末を胸の上へ置いた。
しばらくして母親の「ご飯できてるよ」という声が下から聞こえ、澪はようやく身体を起こす。階段を下り、食卓について、出されたスープを口に運ぶ。味はわかるのに、ちゃんと感じられない。母は忙しい仕事の合間らしく簡単な世間話だけして、澪の様子にそこまで踏み込まなかった。それがありがたくて、少しだけ申し訳ない。
食事を終え、皿を流しに置いて、自室へ戻る。
部屋の扉を閉めた瞬間、また静けさが戻ってきた。
ログイン端末が机の横にある。
黒く沈んだままの装置は、スイッチひとつでいつもの世界へ繋がる。ノアになれば、少しは呼吸がしやすくなると思っていた。現実の澪より、少しだけ素直で、少しだけ落ち着いた自分でいられる場所だった。
でも今は、その端末を見ているだけで胸の奥が疼く。
ノアとしてだって、結局言えなかった。
どれだけ夜の名前を借りても、好きだという気持ちはうまく処理できないままだった。
ログインするべきか、しないべきか。
澪はベッドの端へ腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。
ギルドの連絡欄には、きっとイベントクリアの感想や報酬の話が流れている。
ピピはたぶんスクリーンショットを上げて盛り上がっているだろうし、セレスは丁寧に皆を労っているだろう。フレアは短く結果だけ確認して、それでも必要なことはきちんと押さえているに違いない。
そして朔は、たぶん待っている。
ノアとしても、澪としても。
それを思うだけで、喉が詰まるような感覚がした。
端末が短く振動する。
今度は夏希からだった。
『生きてる?』
『顔死んでたけど』
思わず少しだけ笑ってしまう。
その軽さに救われるように、澪は短く返した。
『生きてる』
『でもちょっとしんどい』
すぐに既読がついて、返事が来る。
『だろうね』
『で、どうするの』
どうするの。
今日だけで何度も突きつけられた問いだった。
夏希にも、凛花にも、そしてたぶん朔自身にも。
どうしたいのか。
どうするつもりなのか。
澪は画面の光を見つめながら、指先を止める。
このまま何も言わずに、また“いつもの幼馴染”へ戻ることはできるかもしれない。
少し時間が経てば、今のぎこちなさも薄れるかもしれない。
朔はきっと無理に問い詰めたりしない。優しいから、澪が話したくないと言えば、ある程度は引いてくれるだろう。
でも、その先は。
そのままで、本当に平気でいられるのだろうか。
凛花の言葉が蘇る。
――見てるだけじゃ取られるよ。
由良の柔らかい笑顔も思い出す。
ひなのまっすぐな好意も。
そして、フレアと並んでいたアークの姿も。
誰かが動く未来は、もう十分に現実味を帯びている。
自分だけが立ち止まっていていい理由は、どこにもなかった。
でも、それでも。
踏み出せば壊れるかもしれない。
幼馴染としての距離すら失うかもしれない。
その怖さだけは、どうしたって消えてくれない。
澪は長く息を吐いて、夏希へ返信した。
『まだわからない』
『でも、このままは無理かも』
少し間を置いて、夏希から返ってきたのはたった一行だった。
『じゃあ、やっとスタートだね』
その言葉を見た瞬間、胸のどこかが小さく震えた。
スタート。
今までの苦しさは始まりですらなくて、ただずっと入り口の前で足を止めていただけなのだと言われた気がした。
澪は端末を握ったまま、机の椅子へ移動する。
そこからもう一度、朔からのメッセージ画面を開いた。
『ひとりで抱えんなよ』
その一文を見ていると、どうしても泣きそうになる。
優しい。
優しすぎる。
だから余計に、これがもし恋じゃなかったらどうしようと怖くなる。
自分に向けられているものが、幼馴染への情なのか、特別な感情の入り口なのか、その境界がわからない。
わからないまま、ただ受け取っていたかった。
でももう、それでは足りないと知ってしまった。
澪はゆっくり文字を打つ。
『ごめん』
消す。
『今日はちゃんと話せない』
それも少し違う気がして消す。
『少しだけ時間ちょうだい』
今度は、消さなかった。
そのあと少し迷ってから、もう一文を続ける。
『逃げたいわけじゃない』
送信ボタンを押した瞬間、心臓が強く跳ねる。
たったそれだけの文なのに、今の澪にとっては十分すぎるくらい本音に近かった。
すぐには返ってこない。
それが逆に、少しだけ落ち着かせてくれる。
窓の外では、完全に夜が降りていた。
住宅街の灯りが静かに瞬き、遠くを走る電車の音がかすかに聞こえる。
現実の夜は、VRよりずっと暗くて、ずっと静かだ。
でも今の澪には、その静けさのほうが少しだけやさしかった。
端末が震えた。
『わかった』
『待つ』
『でも、逃げたいわけじゃないって聞けてよかった』
短い返信だった。
いつもみたいに軽口もなく、でも無理に踏み込みすぎもしない、朔らしい文だった。
澪はその文字を見つめて、そっと目を閉じる。
待つ、と言われて嬉しいと思ってしまった。
そんな自分が、また少しだけ嫌で、同時に愛しかった。
それからしばらくして、澪は結局その夜はログインしなかった。
ギルドチャットの通知だけをざっと確認して、必要最低限のスタンプだけ返す。ピピが上げた集合スクリーンショットには、皆がちゃんと収まっていた。中央にアーク、隣にフレア、少し外側に自分。見慣れた構図のはずなのに、今見るといろいろな意味が滲んで見えてしまう。
それでも、少しだけ思った。
あそこにちゃんと並んでいたい。
ただ同じ画面に収まるだけじゃなく、ちゃんと隣に立ちたい。
見ているだけの位置ではなく、自分の意思で踏み込んだ場所にいたい。
それはわがままだ。
身勝手で、独りよがりで、たぶん綺麗な恋の形ではない。
でも、恋なんてたぶん最初からそんなに綺麗なものじゃないのだろう。
誰かに取られたくない。
選ばれたい。
特別になりたい。
そんな気持ちを抱いてしまった自分を、もうなかったことにはできない。
ベッドへ入る前に、澪はもう一度だけ窓の外を見た。
夜の空には星が少なくて、その代わり街の灯りが地上で滲んでいる。
ノアではなく、朝倉澪として。
いつかちゃんと、この気持ちに向き合わなければいけない。
まだ言えない。
まだ怖い。
でも、逃げたいわけじゃない。
その事実だけは、昨日までより少しだけ確かだった。
澪はカーテンを引き、部屋の灯りを落とす。
暗闇の中で布団へ潜り込みながら、胸の奥に残る痛みをそっと抱え直した。
幼馴染のままでは足りない。
それでも、いきなり恋人になれるわけでもない。
だからせめて、見ているだけの自分からは、もう終わりにしたい。
眠りへ落ちる直前、澪は誰にも聞こえない声で小さく呟いた。
「……それでも、隣にいたい」




