第1章 第11話:近いのに、もう同じ場所には戻れない
その夜、澪は結局ログインしなかった。
端末の黒い画面は机の横で静かに沈んだままで、部屋の中には現実の音だけが残っていた。時計の秒針、遠くを走る車の気配、隣家の窓が閉まる小さな音。そんなものをひとつずつ拾っているうちに、逆に胸の奥のざわつきだけが妙にはっきりしていく。
ギルドチャットには、イベントのスクリーンショットと戦利品の話題がまだ流れていた。
ピピのはしゃいだスタンプ。
セレスの丁寧な労い。
フレアの短い確認メッセージ。
そして、その合間に見えるアークの名前。
澪は通知欄を開いて、閉じる。
開いて、また閉じる。
ノアとして返せる言葉が、今は見つからなかった。
昔なら、何も考えずにいつものように混ざれていたのに。
攻略の話をして、失敗を笑って、次のクエストの予定を軽く合わせる。それだけのことが、今夜はひどく遠い。
幼馴染の神谷朔と、
VRのアークと、
どちらも同じ人のはずなのに。
どちらの隣に立っても、自分だけが少し違う場所へずれてしまったみたいだった。
翌朝、登校中の空気はやけに乾いていた。
空は明るいのに、風だけが少し冷たい。住宅街を抜ける坂道には、同じ制服の生徒たちがぽつぽつと続いている。いつもなら、このあたりで朔と自然に合流することも多い。歩幅を合わせるでもなく、気づけば隣にいるような、昔から変わらない距離。
今日はその“自然”がひどく怖かった。
だから澪は、いつもより少しだけ早く家を出た。
それでも校門の手前で、聞き慣れた声に呼び止められる。
「澪」
足が止まる。
振り向くと、朔が少し息を切らして立っていた。急いで追いついたらしい。髪が少しだけ乱れていて、その何でもない様子に胸の奥が痛む。
「……おはよう」
澪は先に言う。
「おはよ」
返ってきた声は柔らかい。けれどその奥に、まだ昨日の続きが残っているのがわかった。
「今日、早いな」
「ちょっと」
「避けてる?」
「避けてない」
「今のはちょっと怪しい」
軽く言うくせに、目だけはちゃんとこちらを見ている。
澪は視線を逸らした。
朝の空気の中で、朔の存在だけが妙に近い。少し伸ばせば袖に触れられる距離。子どもの頃から何百回も並んで歩いてきたその位置が、今日はひどく落ち着かない。
「昨日、ログインしなかったよな」
朔が言う。
「うん」
「珍しい」
「そうかも」
「……大丈夫?」
「大丈夫」
反射みたいに返した言葉に、朔が少しだけ苦い顔をする。
「その大丈夫、最近ほんとに信用できないんだけど」
「じゃあ信用しなくていい」
「そういう言い方すんなよ」
「じゃあどう言えばいいの」
思ったより刺のある声が出た。
澪は自分で自分にうんざりする。
朔は悪くない。わかっている。わかっているのに、今の自分には“優しく心配されること”すらまともに受け止める余裕がない。
「……ごめん」
先に言ったのは朔だった。
「責めたいわけじゃない」
「うん」
「でも、昨日からずっと気になってる」
「うん」
「澪がそうやって、全部飲み込んでる感じするから」
飲み込んでる。
その言葉に、澪の喉が少しだけ詰まる。
ずっとそうしてきた。
好きだという気持ちも、
嫉妬も、
不安も、
幼馴染のままでは足りないという焦りも。
全部、澪の中だけで丸めて、なかったことみたいに扱ってきた。
なのに朔は、それを見抜くような顔をする。
「朔には関係ないよ」
気づけば、またそんな言葉が出ていた。
言ってすぐ後悔する。
関係ないわけがない。本当は、全部あなたのことだ。
朔もそれはわかったのだろう。目が少しだけ細くなる。
「関係なくはないだろ」
「なんで」
「……なんでって」
朔が言葉を探すように黙る。
「幼馴染だから」
「それだけ?」
思わず出た問いに、自分で息を止めた。
言いすぎた。
今のは、ほとんど踏み込みだ。
朔も同じように息を止めたような顔をした。
「澪」
「ごめん、今の忘れて」
「忘れられるかよ」
同じ言葉を、この前も聞いた気がする。
忘れて、で済ませようとして、済まなかった。
それでもまた同じことを繰り返している自分が情けない。
「朝倉さん」
横から声がして、ふたり同時に振り向いた。
由良だった。
教室へ向かう途中なのだろう、柔らかな色のカーディガンを制服の上に羽織って、少し困ったようにこちらを見ている。
「ごめん、話してるところ」
由良が言う。
「でも先生、もう来てるみたいで」
「あ……」
澪は時計を見る。
思ったより時間が経っていた。
「ほんとだ」
朔が息をつく。
「ありがと、由良」
「ううん」
由良はそこで澪へ目を向ける。
その視線はやわらかいのに、不思議と何かを見落とさない感じがする。
「朝倉さん、顔色あんまり良くないね」
「……そう?」
「うん。無理してるなら保健室でも」
「大丈夫」
少し早口で返してしまう。
由良は一瞬だけ目を伏せ、それからやさしく微笑んだ。
「そっか。でも、つらい時はちゃんと休んだほうがいいよ」
「ありがとう」
それだけのやり取りなのに、なぜだか少し息苦しい。
由良は責めていない。ただ気づいているだけだ。気遣ってくれているだけだ。
でも今の澪には、そのやわらかささえ痛い。
三人で校舎へ向かう短い道のりが、妙に長く感じられた。
朔は途中から何も言わなかった。
由良も、空気を読んだのかそれ以上は踏み込まない。
その静けさの中で、澪だけが自分の鼓動をやけにはっきり聞いていた。
授業中も落ち着かなかった。
板書は写せる。問題も解ける。教師の声だってちゃんと耳には入ってくる。なのに意識のどこかがずっと別のところに引っ張られている。
朔の「幼馴染だから」という言葉。
その続きが少しだけ詰まったこと。
由良のやさしい視線。
そして、自分がまた何も言えなかったこと。
昼休み、夏希が開口一番ため息をついた。
「顔、昨日よりひどい」
「そんなに?」
「そんなに」
夏希は机に頬杖をつく。
「で、今朝なんかあった?」
「……ちょっと」
「神谷?」
「うん」
「話せた?」
「話せてない」
「でしょうね」
あっさり言い切られて、澪は机に額をぶつけたくなる。
「だって朝倉、今“話すか壊れるか”みたいな顔してるもん」
「そんな二択やだ」
「でも実際そうなんじゃないの」
返せない。
そうなのかもしれないと思ってしまったからだ。
このまま何も言わずにいるなら、たぶんまた平気な顔は作れる。
でもそのかわり、ずっと苦しい。
言おうとしたら、今度は壊れるかもしれない。
そのどちらも嫌で、結局立ち尽くしている。
「ねえ」
夏希が少し真面目な声になる。
「朝倉はさ、神谷とどうなりたいの」
「……」
「付き合いたい?」
「それは」
喉が詰まる。
「わかんない」
「嘘」
「嘘じゃない」
本当に、半分は本当だった。
付き合いたくないわけがない。
でもその言葉を自分の中で認めることは、あまりに重い。
認めた瞬間、もう“幼馴染のままで十分”なんて逃げ場には戻れなくなる。
「……隣にいたい」
澪はやっとのことで言った。
「でも、今のままの隣じゃ、たぶんもう無理」
夏希は静かに聞いている。
「なのに、それ以上を欲しがるのが怖い」
「うん」
「欲しがった時点で、壊れそうで」
「うん」
「ほんと、どうしたらいいかわかんない」
言い切った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
情けない本音だった。綺麗でも強くもない。
でも今の澪にあるのは、たぶんそれが全部だ。
夏希は少し考えてから、ぽつりと言う。
「たぶんさ」
「うん」
「もう同じ場所には戻れないんだと思う」
「……」
「幼馴染でいられるよ。たぶん。神谷はそう簡単に離れないだろうし、朝倉だってそうしたい部分はあるでしょ」
「ある」
「でも朝倉の気持ちはもう、その“幼馴染だけの場所”には戻れない」
その言葉は、痛いほどしっくりきた。
戻れない。
そうだ。
たぶんもう、とっくに戻れないのだ。
あの頃みたいに、ただ隣にいられるだけで満たされていた自分には。
ノアになれば少しだけ上手く距離を取れると思っていた頃には。
誰かに取られる未来を、まだ現実として感じていなかった頃には。
「じゃあ、どうするの」
澪が訊く。
「それは朝倉が決めること」
「丸投げ……」
「当たり前でしょ。恋愛だよ?」
夏希が小さく笑う。
「でも少なくとも、戻れないって認めるのは第一歩」
第一歩。
凛花にも似たようなことを言われた気がする。
ようやくスタートだと。
今まで止まっていただけだと。
澪は窓の外を見る。
昼の光は明るいのに、胸の奥にはまだ昨夜から続く薄暗い不安がある。
それでも、その不安の輪郭だけは以前よりはっきりしていた。
放課後、掃除当番を終えて廊下へ出ると、突き当たりの窓際に朔が立っていた。
夕方の光が背中から差し込んで、輪郭を少しだけやわらかくしている。スマート端末を片手に持ちながら、誰かを待つでもなく壁に寄っているその姿は、昔からよく知っているはずなのに、今は妙に知らない人みたいに見えた。
澪に気づくと、朔が顔を上げる。
「終わった?」
「……うん」
「少しだけ、いい?」
澪はほんの一瞬迷った。
逃げたいわけじゃない。
そう送ったのは自分だ。
「少しだけなら」
「ありがと」
並んで歩き出す。
けれど校舎の中ではなく、朔は人気の少ない中庭側の渡り廊下へ向かった。ガラス窓の向こうに夕焼けが見え、風が通るたび植え込みの葉がかすかに鳴る。
「昨日からずっと考えてた」
歩きながら、朔が言う。
「俺、何であんなに気になるのかなって」
「……」
「澪が変なの、昔からわりとわかるし」
「それは知ってる」
「でも、今回はなんか違う気がして」
違う。
その言葉に、心臓がひとつ強く打つ。
「違うって?」
澪は慎重に訊く。
「うまく言えない」
朔が困ったように笑う。
「けど、ただ機嫌悪いとかじゃなくて、もっと大事なとこに触れてる感じがする」
「……朔」
「だからちゃんと知りたい」
足が止まりそうになる。
知りたい。
その一言は、嬉しいはずなのに、やっぱり怖い。
渡り廊下の真ん中で、朔が立ち止まる。
澪も数歩遅れて止まった。
「俺、何か傷つけた?」
「……直接は」
「直接はってことは、間接的にはあるのか」
「そういう言い方しないで」
「じゃあどう言えばいいんだよ」
少しだけ困ったような、でも逃がす気はない声だった。
昔の朔なら、ここで冗談に逃げたかもしれない。けれど今は違う。ちゃんと向き合おうとしている。
その真面目さが、澪の逃げ場を少しずつ奪っていく。
「言ったら、たぶん」
澪はやっとのことで言葉を絞り出す。
「今まで通りじゃいられない」
「今まで通りがいいの?」
朔が訊く。
その問いは、静かなのに鋭かった。
今まで通り。
幼馴染の距離。
安心できる場所。
でも、もうそこだけでは足りないと知ってしまった。
澪は答えられない。
答えないこと自体が、もう答えみたいだった。
朔もそれを感じたのか、少しだけ視線を揺らす。
「……そっか」
短く落ちた声には、何か考え込む色が混じっていた。
夕方の光が、ガラス越しに細長く床へ伸びている。
その中にふたりの影が並んでいるのに、前みたいにぴたりとは重ならない。
「ごめん」
澪が小さく言う。
「まだ、ちゃんとは言えない」
「うん」
「でも、前みたいに何もないふりも、もうたぶん無理」
「……それは」
朔が少しだけ目を見開く。
「俺に関係ある?」
「あるよ」
思ったより早く、言葉が出た。
その一言だけで、空気が変わる。
澪は自分の鼓動をはっきり聞いた。
ここまで来たら、もう本当に後戻りはできない気がした。
でも、それでも。
全部はまだ言えない。
好きだと口にする勇気は、もう少しだけ足りなかった。
「ある、けど」
澪は視線を落とす。
「今はそこまでしか言えない」
「……そっか」
朔の声はやわらかいままだった。
怒ってはいない。
責めてもいない。
でも、何かを確かに受け取った顔をしていた。
「待っててもいい?」
不意に、朔がそう言う。
澪は顔を上げる。
「何を」
「澪が、ちゃんと言えるようになるの」
その目はまっすぐだった。
「逃げたいわけじゃないって、この前言ってただろ」
「……うん」
「だったら、俺も逃げない」
胸の奥が痛いくらい熱くなる。
待っててもいい、なんて。
そんなふうに言われたら、また期待してしまう。
でも同時に、その言葉が今の自分を少しだけ救ってくれるのも確かだった。
「ずるい」
気づけば、澪はそう呟いていた。
「何が」
「そういう言い方」
朔がわずかに笑う。
「自覚ないけど」
「ある程度は持って」
「善処する」
その会話だけ聞けば、少しだけいつも通りに近い。
でももう、本当の意味では同じ場所には戻れないのだと、澪ははっきり感じていた。
近いのに、以前よりずっと遠い。
でもその遠さは、完全に失った距離ではなくて、たぶん踏み出した先にしか埋まらない種類のものだった。
渡り廊下の向こうで、部活へ向かう生徒たちの声が響く。
夕方がゆっくり夜へ傾いていく。
澪は小さく息を吐いた。
怖い気持ちはまだ消えない。
でも、ほんの少しだけ思う。
もう同じ場所には戻れないのなら、
この先へ進むしかないのかもしれない、と。
それでもまだ、朔の隣にいたいと思ってしまう自分を、
今度こそ、ごまかさずに見つめようとしていた。




