第1章 第12話:このままじゃ、本当に誰かに取られる
渡り廊下で朔と別れたあとも、澪の胸の奥には、熱の残りみたいなものがずっと燻っていた。
待っててもいいかと、朔は言った。
逃げないと、言った。
それは優しくて、まっすぐで、ひどく嬉しい言葉だった。
でも同時に、その言葉だけではどうにもならない現実も、澪にはちゃんと見えてしまっていた。
待ってくれるからといって、何も変わらないままではいられない。
気持ちがあるからといって、黙っていれば伝わるわけでもない。
それでも、放課後の帰り道でひとりになると、考えることは結局ひとつに戻る。
怖い。
壊れるかもしれないのが怖い。
今の距離が崩れるのが怖い。
幼馴染としての当たり前を失うのが怖い。
でもそれと同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に、
誰かに取られてしまう未来のほうが、もう耐えられないところまで来ていた。
家へ帰ると、夕食のあと、澪はしばらく自室で机に向かった。
教科書を開いて、ノートを広げて、シャープペンを持つ。
けれど十分経っても、問題文はほとんど頭に入ってこなかった。文字を目で追っても、その隙間に浮かぶのは別の景色ばかりだ。
VR最終戦で、フレアと並んで前へ出ていたアーク。
朝の通学路で、気にしていると何度も言ってきた朔。
昼休みに「戻れない」と言い切った夏希。
そして、「見てるだけじゃ取られる」と真っ直ぐ告げた凛花。
みんな違うことを言っているようでいて、実際には同じところを指していた。
澪だけが、立ち止まっている。
スマート端末が震えた。
画面を見ると、ギルドのグループ通話通知だった。イベント後の反省会というより、次の攻略や雑談の延長らしい。ピピのアイコンが先に点灯していて、そのあとセレス、少し遅れてフレア。アークの名前も、数秒後にオンラインへ切り替わる。
澪は通知を見つめたまま、しばらく動かなかった。
昨日なら入れなかった。
今日もまだ、完全には整っていない。
ノアになったところで、何かが急に解決するわけでもない。
それでも。
逃げたいわけじゃない、と自分で言ったのだ。
その言葉だけは、嘘にしたくなかった。
澪はゆっくり端末へ手を伸ばし、フルダイブ装置を装着した。
目を閉じる直前、胸の奥で小さく脈打つ不安があった。
でも、それと一緒に、かすかな意地みたいなものもあった。
見ているだけの自分から、少しでも前へ出たい。
たとえ今は、まだたった一歩でも。
意識が沈み、開く。
群青の夜空と、星灯りを散らした都市の景色が視界へ広がる。中央広場は今夜も明るく、人の気配で満ちていた。イベント翌日らしい浮ついた空気があって、そこかしこで昨日の戦いの話がされている。
ノアは一度だけ深く息を吸い、通話へ接続した。
『あ、ノア先輩!』
真っ先に弾んだ声を上げたのはピピだった。
『来た来た! よかったあ、今日来ないのかと思いました』
『こんばんは、ノアさん』
セレスのやわらかい声が重なる。
『遅かったわね』
フレアはいつも通り、淡々とした調子だった。
『……こんばんは』
ノアが返す。
『こんばんは、ノア』
最後に聞こえたアークの声だけ、少し低く、少しだけ静かだった。
その声に、胸の奥がまた小さく揺れる。
でも昨日みたいに逃げはしない。
ノアは自分にそう言い聞かせて、広場端のベンチ近くへ移動した。
『昨日のスクショ見ました?』
ピピが楽しそうに続ける。
『めっちゃ評判よかったんですよ! ギルド掲示板でも、あのパーティすごかったって』
『ピピさんが一番たくさん貼ってましたけどね』
セレスが少し笑う。
『いいじゃないですか! 本当にすごかったんですもん』
『まあ、悪くはなかったわね』
フレアが言う。
『悪くないどころじゃないだろ』
アークも軽く笑った。
『あの最後の固定なかったら普通に押し切れなかったし』
その言葉は、明らかにノアへ向けられていた。
『……役割だから』
反射みたいにそう返してから、ノアは少しだけ後悔した。
また同じことを言っている。
褒められても、すぐに役割へ逃がしてしまう。
『ノア先輩、それ毎回言いますよね』
案の定、ピピがすぐ反応した。
『でも実際、ノア先輩いないと成立しないこと多いですし』
『そうね』
意外にも、同意したのはフレアだった。
『少なくとも昨日の最終戦は、あなたの制御がなかったらかなり崩れてた』
『ありがとう』
ノアは短く返す。
少し前の自分なら、こういう会話の中にも痛みばかり感じていたかもしれない。
でも今夜は違った。
嬉しい。
ちゃんと認められるのは、やっぱり嬉しい。
その嬉しさを、素直に受け取ってもいいのかもしれないと、ほんの少しだけ思えた。
『で、次どうする?』
アークが話題を変える。
『昨日みたいな大型はしばらくないけど、軽めの周回ならできる』
『行きます!』
ピピが即答する。
『わたしも大丈夫です』
セレス。
『時間あるなら付き合うわ』
フレアも続く。
そこで、ほんのわずかな間が空いた。
次に何を言うべきか、ノアにはわかっていた。
いつもなら皆に合わせて頷くだけだ。誰かが決めた流れへ自然に乗って、支援として後ろからついていく。それで十分だった。
でも、今日は違う。
このまま何も変えなければ、また同じだ。
並んで見て、比べて、苦しくなって、それでも黙っているだけの自分へ戻ってしまう。
『ノア?』
アークが呼ぶ。
『行けそうか?』
ノアは少しだけ唇を噛んだ。
大きなことじゃなくていい。
告白でも、決定的な踏み込みでもない。
でも、ほんの少しだけ、自分から前へ出る。
『行ける』
そう返してから、ノアは続けた。
『ただ、今日はアークとペアでルート確認したい』
一瞬、通話の向こうが静かになる。
『え?』
ピピが素直に声を上げた。
『ペア?』
『珍しいわね』
フレアの声にもわずかな驚きが混じる。
『ノアさんから言うの』
セレスはむしろ少し柔らかく笑っているようだった。
アークだけが、ほんの一拍遅れて返した。
『……了解』
その声は、驚いているのに、どこか嬉しそうでもあった。
『ルート確認ってことは、次の高難度の下見兼ねる感じ?』
『うん。それもある』
嘘ではない。
でも、それだけでもなかった。
ピピがむくれたような声を出す。
『えー、ずるいです』
『何が』
アークが苦笑する。
『だって最近、アーク先輩とノア先輩、なんかそういうの多くないですか?』
『多くはないでしょ』
ノアはすぐ返したが、自分でも少しだけ熱が上がるのを感じた。
『いや、でも昨日もかなり息ぴったりでしたし』
ピピはまだ納得していない。
『ほんと、自然だよね』
セレスが穏やかに言う。
『長い付き合いって、やっぱり大きいのかも』
その一言が、嬉しいのか苦しいのか、自分でもわからない形で胸へ落ちる。
『じゃあ決まりね』
フレアが話をまとめる。
『最初だけアークとノアで先行確認、そのあと合流でいいでしょ』
『うん』
ノアは頷いた。
決まってしまえば、あとは早かった。
簡単な準備を整え、五人は転送門へ向かう。行き先は高難度前提の新マップではなく、その手前にある中層探索域。昨日ほど派手ではないが、視界や地形の確認にはちょうどいいエリアだ。
転送前、アークがそっと個別回線を開いてきた。
『ノア』
『何』
『さっきの』
『うん』
『……ちょっとびっくりした』
ノアは少しだけ目を伏せる。
『ごめん』
『いや、謝ることじゃない』
アークの声が柔らかくなる。
『むしろ、嬉しかった』
その一言で、胸の奥がじわりと熱を持った。
嬉しかった。
たったそれだけなのに、ひどく効く。
また期待してしまう、と自分でもわかる。
でももう、期待すること自体を全部悪いことみたいに思いたくなかった。
『……そっか』
やっとそれだけ返す。
転送門の光が広がり、視界が切り替わる。
中層探索域は、夜霧に包まれた石造りの回廊群だった。崩れた柱、青白く光る蔦、遠くで鳴く見えない魔物の声。昨日の最終戦みたいな緊張感はないが、それでも充分に幻想的で、そして静かだった。
最初の数分だけ、アークとノアの二人で先行する。
他の三人は後方から少し遅れてついてくる形だが、視界にはまだ入らない距離だ。個別回線だけが、静かな夜の中で近く響く。
『ここ、右側の回廊がショートカットになりそう』
ノアが地形ログを見ながら言う。
『了解。じゃあ次はそっちから入るか』
『ただ、二層目の抜け道は多分罠ある』
『それ、俺また踏む?』
『かなりの確率で』
アークが笑う。
『ひどいな』
『事実だから』
少しだけ、空気がやわらぐ。
こういう時間が好きだと、ノアは思う。
攻略を口実にして、自然に隣へ並べる時間。無理に恋愛の話をしなくても、でも互いにちゃんと意識していることが、どこかで伝わっているような時間。
もしこのまま、こうしていられたら。
そう思いかけて、すぐに打ち消す。
だめだ。
“このまま”が苦しいと、もう知っている。
『ノア』
アークが不意に名前を呼ぶ。
『昨日さ』
心臓が少しだけ跳ねる。
『今は無理って言ってたけど』
『うん』
『待つって言ったの、あれ本気だから』
歩きながら、ノアは少しだけ息を止めた。
正面を見る。霧の薄い回廊、青白い光を帯びた石畳、そして隣を歩くアークの横顔。何気ない会話みたいに聞こえるのに、その実、触れている場所は全然何気なくない。
『……わかってる』
『ならいい』
短い。
でも、その短さの奥にあるものを、ノアはちゃんと感じてしまう。
少し前までなら、その温度に甘えていたかもしれない。
でも今は違う。
待ってくれるからといって、何もしないままではいられない。
それを一番よくわかっているのは、たぶん自分だ。
回廊の角を曲がったところで、小型モンスターが三体湧いた。
『左取る』
アークが前へ出る。
『右は止める』
ノアは即座に術式を展開する。
青白い拘束陣が敵の足元へ走り、アークの剣が一体をまとめて薙ぐ。昨日までと同じ連携なのに、感覚は少し違った。ノアが一歩踏み込み、アークがそれを自然に受け取る。支援と前衛の噛み合いだけじゃない、もっと個人的な温度がその間に生まれている気がした。
『やっぱやりやすいな』
アークが軽く息を吐く。
『……そうだね』
『ノアといると、変に力まなくていい』
その言葉に、ノアの指先がわずかに震えた。
そういうのだ。
そういう言葉が、ずるい。
安心する。
嬉しい。
でもその嬉しさの先を、もう見てしまっている。
『アーク先輩ー、置いていかないでくださいー!』
少し遅れて、ピピの声が通話へ飛び込んでくる。
『そっち進むの早いです!』
『確認班なんだから当たり前だろ』
『むー……』
『ピピさん、拗ねてます?』
セレスが柔らかく笑う。
『別に拗ねてません!』
『拗ねてるわね』
フレアが淡々と言い切る。
にぎやかな声が戻ってくる。
それだけで、二人きりの空気は自然にほどけた。
でも、ノアは確かに思っていた。
自分から言ってよかった。
ペアを申し出たのは、ほんの小さなことだった。
誰かから見れば、大した意味もないかもしれない。
それでも澪にとっては、確かな一歩だった。
見ているだけではない一歩。
選ばれるのを待つだけでもない一歩。
探索を終えてログアウトした頃には、もう夜もかなり深くなっていた。
端末を外した澪は、しばらくベッドの上でぼんやり天井を見ていた。
胸の中にある不安は、まだなくなっていない。
朔の気持ちも、自分の未来も、はっきりしたものは何ひとつない。
でも、今日ようやくわかったことがある。
黙って見ているだけでは、本当に何も変わらない。
誰かが近づくのを怖がるだけでは、結局、自分から遠ざかっていくだけだ。
凛花はたぶん、本気で朔を取りに来る。
由良も、やさしく静かに距離を詰めてくるだろう。
ひなだって、きっとためらわず好意を口にする。
その中で、自分だけが“幼馴染だから”へ逃げていたら、本当に終わる。
机の上のスマート端末には、さっきの探索ログとスクリーンショットの共有通知が並んでいる。そのひとつに映っていたのは、回廊の途中で並んで立つアークとノアの姿だった。たまたま撮られた一枚で、戦っている最中でもない。なのに、見ているだけで胸が少しだけ熱くなる。
隣にいたい。
それはたぶん、ずっと変わらない。
でももう、その願いを“ただの幼馴染だから”でごまかすことはできない。
澪は端末の画面を消し、窓の外の夜を見た。
暗い。
でも、昨日までより少しだけ先が見える気がした。
胸の奥で、確かな言葉が静かに形を結ぶ。
このままじゃ、本当に誰かに取られる。
だから、もう見ているだけではいられない。
澪は静かに息を吸い、誰にも聞こえない声で小さく呟いた。
「……次は、私が近づく」




