第2章 第1話:夜の名前で、もう一度
その夜、澪はしばらく端末の前に座ったまま動けなかった。
机の上に置いたフルダイブ端末は、電源を入れればすぐにいつもの世界へ繋がる。ログインさえしてしまえば、アステリオの夜が開く。ノアとしてなら、少しは呼吸がしやすい。少しは言葉を選べる。少なくとも朝倉澪として朔の前に立つよりは、うまくやれる気がしていた。
でも、その“少しは”に甘えてきたことも、もうわかっている。
部屋の中は静かだった。薄いカーテンの向こうでは住宅街の灯りが滲んでいて、遠くを走る車の音が低く響く。ベッドの端に腰掛けたまま、澪はスマート端末の画面を見つめた。
朔とのやり取りは、昼間のあの短い会話で止まっている。
『待っててもいい?』
『だったら、俺も逃げない』
たったそれだけの言葉が、まだ胸のどこかへ熱を残していた。
嬉しかった。
でも、嬉しいだけでは足りないことも知ってしまった。
待ってくれるなら、それでいいわけじゃない。
気にかけてくれるなら、それで終われるわけでもない。
澪が何も変えなければ、結局また同じところへ戻ってしまう。
見ているだけの自分へ。
澪はゆっくり息を吐いたあと、フルダイブ端末を手に取った。
「……逃げたいわけじゃないもん」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
その言葉を最後に、装置を装着した。
規則的な起動音が耳へ届く。
まぶたの裏に薄い光が走り、重力の感覚がふっと遠のく。
意識が沈み、その先でひらいた世界は、いつものように鮮やかだった。
群青の空を背景に、巨大都市の塔群が星屑みたいな光を浮かべている。白い石畳。流れる転送路。夜を映したようなガラス壁。中央広場は今日も賑やかで、行き交うアバターたちの足音と笑い声が絶えなかった。
ノアは自分の手を一度だけ軽く握る。
白銀がかった袖。
濃紺のローブ。
魔導書の重み。
慣れたはずの感覚なのに、今夜は少しだけ緊張していた。
ログイン通知を開くと、ギルドのメンバーはすでに何人か集まっている。ピピ、セレス、フレア。少し遅れて、アークのアイコンも点灯した。
その名前を見た瞬間、胸が小さく鳴る。
来てしまった、と思う。
でも同時に、来られてよかったとも思ってしまう。
迷って、怖がって、それでも結局ここへ来たのは、自分から少しでも前へ出たいからだ。
その気持ちだけは、今夜は見失いたくなかった。
ノアはギルドの共通通話へ接続した。
『あっ、ノア先輩!』
接続した瞬間、弾んだ声が飛び込んでくる。
やっぱり最初に反応したのはピピだった。
『来た来た! よかったぁ、今日はまだ来てなかったから心配したんですよ』
『こんばんは、ノアさん』
セレスのやわらかい声が重なる。
『遅かったわね』
フレアは相変わらずの淡々とした調子だった。
『……こんばんは』
ノアが返す。
『こんばんは、ノア』
最後に聞こえたアークの声だけ、少し低く、少しだけ静かだった。
その声に触れただけで、少しだけ心が落ち着く。
それが嬉しくて、同時に困る。
『昨日のスクショ、掲示板でめちゃくちゃ反応よかったんですよ!』
ピピがすぐに話し始める。
『アーク先輩とフレアさんの前線やばかったし、ノア先輩の固定もすごかったし、もう全部すごかったです!』
『語彙が足りてないわよ』
フレアが小さく呆れる。
『だって本当にすごかったんですもん!』
『まあ、実際かなり綺麗に回ってたよな』
アークが笑った。
『ノアの制御、最後めちゃくちゃ助かったし』
『……役割だから』
反射みたいにノアは答える。
『またそれ言う』
ピピがむくれる。
『ノア先輩、褒められるとすぐそれです』
『事実でしょ』
『事実だけど、もっとこう、素直に“ありがとう”とかでもいいと思います』
『ありがとう』
『そうです、それです!』
ピピが満足げに言って、通話に小さな笑いが広がる。
いつものやり取りだ。
昨日までと同じような、軽くて、ほどけた空気。
その中へちゃんと入れていることに、ノアは少しだけ安堵する。
逃げていない。
少なくとも、今夜は。
『で、今日はどうするの?』
フレアが本題へ入る。
『大型の後だし、軽めに回すくらいがちょうどいいと思うけど』
『私は何でも大丈夫です』
セレスが答える。
『わたしもです! 今日は派手すぎないやつで!』
『派手すぎないやつって何だよ』
アークが笑う。
『まあ、中層の素材周回かルート確認あたりかな』
ノアは通話を聞きながら、広場の端へ歩いた。
中央のざわめきから少し離れた場所。白いベンチと細い水路が並んでいて、夜の光が静かに揺れている。
本当なら、ここで皆の流れに自然に合わせればいい。
何も変えなくても、ノアはノアとしてそこにいられる。
でも、それではまた同じだ。
少しだけでいい。
今日は、自分から前へ出る。
『……軽いルート確認なら』
ノアはそう切り出した。
『私も付き合う』
『お、助かる』
アークがすぐ返す。
『ノアいると地形読むの早いし』
そのまま流れていきそうになった会話の中で、ノアはほんの少しだけ息を止めた。
ここだ、と自分に言い聞かせる。
『それと』
『うん?』
アークが応じる。
『最初だけ、私と先に見て回る?』
一瞬、通話が静かになった。
ピピが最初に反応する。
『えっ』
短く、それだけ。
セレスは何も言わないが、たぶん少し驚いている。
フレアも黙っていた。
そしてアークは、ほんの一拍遅れて返した。
『……いいの?』
その言い方が、ノアの胸を少しだけ熱くする。
『いいよ』
『いや、もちろん俺は助かるけど』
アークが少し笑う。
『ノアからそう言うの、ちょっと珍しいなって』
『珍しいって言うほどじゃない』
『いや、わりと珍しい』
アークの声は柔らかかった。
『でも、嬉しい』
その一言で、ノアは一瞬だけ視線を落とす。
嬉しい。
そんなふうに真っ直ぐ返されると、また簡単に心が揺れる。
『えー、何ですかそれ』
ピピが少しだけ拗ねた声を出す。
『確認班、二人だけずるいです』
『ずるいっていうか、効率よ』
フレアが淡々と返す。
『ノアの索敵とアークの機動力なら、先行させたほうが早いでしょ』
『そうですけどぉ……』
『でも、ノアさんから提案するの珍しいですね』
セレスがやわらかく言う。
『……たまには』
ノアは短く返した。
『たまには、ね』
フレアの声に、わずかに意味ありげな色が混じる。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
アークが話をまとめるように言う。
『じゃあ、最初だけノアと俺で先行確認。そのあと合流でいいか?』
『了解です!』
ピピ。
『はい』
セレス。
『異議なし』
フレア。
決まってしまえば早い。
簡単な準備を済ませ、五人は中央転送門へ向かう。
門の周囲には青白い術式が幾重にも回っていて、通行するプレイヤーの装備光がその表面に反射していた。昨日までの戦場の名残みたいな熱はもう薄い。代わりに、夜の都市そのものの静かな賑わいが広がっている。
転送待機の短い間、アークが個別回線を開いてきた。
『ノア』
『何』
『さっきの』
『うん』
『ほんとに、ちょっと嬉しかった』
ノアは少しだけ黙った。
個別回線越しの声は、共通通話よりも近い。
耳元というより、胸のあたりへ直接落ちてくるような感覚がある。
『……そう』
『うん』
『ならよかった』
それだけ返すのが精一杯だった。
本当は、もっといろいろ言いたい。
来てほしかったとか、
自分から言ってみたかったとか、
ずっと見ているだけではいられないと思ったとか。
でも今はまだ、その全部を口にする勇気はない。
それでも“ならよかった”の四文字だけでも、昨日までの自分よりは一歩前だと思いたかった。
転送門の光が立ち上がる。
視界が白く塗り替わり、次の瞬間には別のエリアへ立っていた。
そこは中層探索域《ルーメン回廊》。
薄い霧に包まれた石造りの回廊群が幾層にも連なり、崩れた柱や青白く光る蔦が夜の中で静かに揺れている。空は見えないが、天井近くに埋め込まれた魔導灯が淡い光を落としていて、影が柔らかく長い。
『じゃあ、私たち少し先に行く』
ノアが共通通話で告げる。
『了解でーす』
ピピがまだ少し不満そうに返した。
『後ろでのんびり追いますね』
セレス。
『変な罠踏まないでよ、アーク』
フレアが釘を刺す。
『何で俺だけ前提で言われるんだ』
『踏みそうだから』
ノアが思わず言う。
その瞬間、アークが吹き出した。
『ほらな』
『いや、だって本当でしょ』
『認めるけどさ』
少しだけ笑いが生まれ、そのままアークとノアは先行ルートへ入る。
石畳を踏む靴音が、静かな回廊へふたつ分だけ響いた。
後ろの三人の気配が離れていくにつれ、自然と周囲の空気が変わる。
前を歩くアークは、普段通りの速度で進みながらも、時々ノアの歩幅へ合わせて少しだけ緩める。
そんな何気ない癖を、ノアは昔から知っている。
知っているからこそ、胸の奥が少しだけ痛む。
『右の回廊、行けそう』
ノアはマップログを見ながら言う。
『たぶんショートカット』
『じゃあ次の周回はそっち採用だな』
アークがすぐに頷く。
『でも二層目に段差罠ある』
『それ、俺踏むやつ?』
『踏みそう』
『信頼がない』
『あるよ。前に出る方向で』
その返しに、アークがまた笑った。
『やっぱノア、そういう返しうまいよな』
『褒めてる?』
『褒めてる』
『じゃあ受け取っとく』
『珍しい』
『たまには』
言ってから、自分で少し驚く。
こんなふうに軽口へ軽口で返せるのは、ほんの少しだけ前へ出られている証拠かもしれなかった。
アークもそれを感じたのか、少しだけ穏やかな声になる。
『ノア、前よりちょっと変わった?』
足が一瞬止まりそうになる。
『……そう見える?』
『見える』
『悪い意味で?』
『いや、全然』
アークの返事は迷いがなかった。
『なんか、前より近い感じする』
ノアは息を呑む。
近い。
その表現が嬉しくて、でも怖い。
『嫌だった?』
自分でも驚くくらい、小さな声で聞いていた。
『何でそうなるんだよ』
アークが少し笑う。
『嫌なら嬉しいとか言わないだろ』
『……そっか』
『うん』
それだけのことなのに、胸のあたりがやけに熱い。
石造りの回廊の先で、小型の魔物が二体だけ湧いた。
黒い羽を持つ蝙蝠型だ。ノアが即座に拘束術式を飛ばし、アークがそれを一閃で落とす。
『やっぱやりやすいな』
アークが軽く剣を払う。
『……そうだね』
『変に説明いらないし』
『それは昔からでしょ』
『まあ、そうなんだけど』
アークはそこで少しだけ声を落とした。
『昨日、来なかっただろ』
『……うん』
『ちょっと、待ってた』
ノアの指先がわずかに震える。
昨日、来なかった。
待ってた。
たったそれだけの事実なのに、いろいろな感情が一度に押し寄せる。
嬉しい。申し訳ない。期待したくなる。してはいけない気もする。
『ごめん』
最初に出たのはその言葉だった。
『来たくなかったわけじゃない』
『それはわかってる』
アークがすぐに返す。
『だから責めてるんじゃない。ただ、来てくれてよかったって話』
ノアは視線を前へ戻し、深く息を吸った。
夜の名前を借りている。
現実の澪より、少しだけまっすぐになれる場所。
なら、今くらいは自分から言ってもいいのかもしれない。
『……私も』
『ん?』
『来られて、よかった』
言い切った瞬間、心臓が強く跳ねた。
アークは一瞬だけ黙って、それから、通話越しでもわかるくらい柔らかく笑った。
『うん』
『何』
『いや、ほんとにちょっと嬉しいなって』
『さっきからそればっかり』
『だって今日は嬉しいこと多いし』
『……そう』
もうそれ以上は返せなかった。
回廊の向こうから、ピピの声が飛んでくる。
『アーク先輩ー! ノア先輩ー! 置いてかないでくださいー!』
『追いついてるじゃん』
アークが笑う。
『追いつきましたけど!』
『意外と早かったですね』
セレス。
『ちゃんと罠見て進んでたのかしら』
フレア。
三人の気配が戻ってきて、二人だけの時間は自然にほどける。
でも、その短い時間の中で確かに何かが変わった気がした。
ノアは自分の手元をそっと見下ろす。
魔導書を持つ指先は、いつも通り静かに落ち着いている。
それでも胸の奥では、昨日までと違う温度が小さく灯っていた。
ほんの少しだけ、自分から前へ出た。
ほんの少しだけ、待つだけではない側へ足を踏み出した。
それだけで何かが決定的に変わるわけじゃない。
現実の澪は、まだ朔の前でうまく笑えないままだ。
好きだとも、取られたくないとも、何ひとつ言えていない。
でも、だからこそ思う。
変わらないままでいることのほうが、もう苦しい。
五人で回廊を進みながら、ノアは静かに目を細めた。
夜霧の向こうに続く石の道は、遠くまで見通せない。
それでも、昨日よりは少しだけ、自分で歩いている感覚があった。
夜の名前で、もう一度。
今度はただ隠れるためじゃなく、
少しでも前へ進むために。




