表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星を隠さぬ君の隣で  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/108

第2章 第1話:夜の名前で、もう一度


 その夜、澪はしばらく端末の前に座ったまま動けなかった。


 机の上に置いたフルダイブ端末は、電源を入れればすぐにいつもの世界へ繋がる。ログインさえしてしまえば、アステリオの夜が開く。ノアとしてなら、少しは呼吸がしやすい。少しは言葉を選べる。少なくとも朝倉澪として朔の前に立つよりは、うまくやれる気がしていた。


 でも、その“少しは”に甘えてきたことも、もうわかっている。


 部屋の中は静かだった。薄いカーテンの向こうでは住宅街の灯りが滲んでいて、遠くを走る車の音が低く響く。ベッドの端に腰掛けたまま、澪はスマート端末の画面を見つめた。


 朔とのやり取りは、昼間のあの短い会話で止まっている。


『待っててもいい?』

『だったら、俺も逃げない』


 たったそれだけの言葉が、まだ胸のどこかへ熱を残していた。


 嬉しかった。

 でも、嬉しいだけでは足りないことも知ってしまった。


 待ってくれるなら、それでいいわけじゃない。

 気にかけてくれるなら、それで終われるわけでもない。

 澪が何も変えなければ、結局また同じところへ戻ってしまう。


 見ているだけの自分へ。


 澪はゆっくり息を吐いたあと、フルダイブ端末を手に取った。


「……逃げたいわけじゃないもん」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


 その言葉を最後に、装置を装着した。


 規則的な起動音が耳へ届く。

 まぶたの裏に薄い光が走り、重力の感覚がふっと遠のく。

 意識が沈み、その先でひらいた世界は、いつものように鮮やかだった。


 群青の空を背景に、巨大都市アステリオの塔群が星屑みたいな光を浮かべている。白い石畳。流れる転送路。夜を映したようなガラス壁。中央広場は今日も賑やかで、行き交うアバターたちの足音と笑い声が絶えなかった。


 ノアは自分の手を一度だけ軽く握る。


 白銀がかった袖。

 濃紺のローブ。

 魔導書の重み。

 慣れたはずの感覚なのに、今夜は少しだけ緊張していた。


 ログイン通知を開くと、ギルドのメンバーはすでに何人か集まっている。ピピ、セレス、フレア。少し遅れて、アークのアイコンも点灯した。


 その名前を見た瞬間、胸が小さく鳴る。


 来てしまった、と思う。

 でも同時に、来られてよかったとも思ってしまう。


 迷って、怖がって、それでも結局ここへ来たのは、自分から少しでも前へ出たいからだ。

 その気持ちだけは、今夜は見失いたくなかった。


 ノアはギルドの共通通話へ接続した。


『あっ、ノア先輩!』


 接続した瞬間、弾んだ声が飛び込んでくる。

 やっぱり最初に反応したのはピピだった。


『来た来た! よかったぁ、今日はまだ来てなかったから心配したんですよ』

『こんばんは、ノアさん』

 セレスのやわらかい声が重なる。

『遅かったわね』

 フレアは相変わらずの淡々とした調子だった。

『……こんばんは』

 ノアが返す。

『こんばんは、ノア』

 最後に聞こえたアークの声だけ、少し低く、少しだけ静かだった。


 その声に触れただけで、少しだけ心が落ち着く。

 それが嬉しくて、同時に困る。


『昨日のスクショ、掲示板でめちゃくちゃ反応よかったんですよ!』

 ピピがすぐに話し始める。

『アーク先輩とフレアさんの前線やばかったし、ノア先輩の固定もすごかったし、もう全部すごかったです!』

『語彙が足りてないわよ』

 フレアが小さく呆れる。

『だって本当にすごかったんですもん!』

『まあ、実際かなり綺麗に回ってたよな』

 アークが笑った。

『ノアの制御、最後めちゃくちゃ助かったし』

『……役割だから』

 反射みたいにノアは答える。

『またそれ言う』

 ピピがむくれる。

『ノア先輩、褒められるとすぐそれです』

『事実でしょ』

『事実だけど、もっとこう、素直に“ありがとう”とかでもいいと思います』

『ありがとう』

『そうです、それです!』


 ピピが満足げに言って、通話に小さな笑いが広がる。


 いつものやり取りだ。

 昨日までと同じような、軽くて、ほどけた空気。

 その中へちゃんと入れていることに、ノアは少しだけ安堵する。


 逃げていない。

 少なくとも、今夜は。


『で、今日はどうするの?』

 フレアが本題へ入る。

『大型の後だし、軽めに回すくらいがちょうどいいと思うけど』

『私は何でも大丈夫です』

 セレスが答える。

『わたしもです! 今日は派手すぎないやつで!』

『派手すぎないやつって何だよ』

 アークが笑う。

『まあ、中層の素材周回かルート確認あたりかな』


 ノアは通話を聞きながら、広場の端へ歩いた。

 中央のざわめきから少し離れた場所。白いベンチと細い水路が並んでいて、夜の光が静かに揺れている。


 本当なら、ここで皆の流れに自然に合わせればいい。

 何も変えなくても、ノアはノアとしてそこにいられる。

 でも、それではまた同じだ。


 少しだけでいい。

 今日は、自分から前へ出る。


『……軽いルート確認なら』

 ノアはそう切り出した。

『私も付き合う』

『お、助かる』

 アークがすぐ返す。

『ノアいると地形読むの早いし』


 そのまま流れていきそうになった会話の中で、ノアはほんの少しだけ息を止めた。


 ここだ、と自分に言い聞かせる。


『それと』

『うん?』

 アークが応じる。

『最初だけ、私と先に見て回る?』


 一瞬、通話が静かになった。


 ピピが最初に反応する。


『えっ』

 短く、それだけ。


 セレスは何も言わないが、たぶん少し驚いている。

 フレアも黙っていた。


 そしてアークは、ほんの一拍遅れて返した。


『……いいの?』

 その言い方が、ノアの胸を少しだけ熱くする。

『いいよ』

『いや、もちろん俺は助かるけど』

 アークが少し笑う。

『ノアからそう言うの、ちょっと珍しいなって』

『珍しいって言うほどじゃない』

『いや、わりと珍しい』

 アークの声は柔らかかった。

『でも、嬉しい』


 その一言で、ノアは一瞬だけ視線を落とす。


 嬉しい。

 そんなふうに真っ直ぐ返されると、また簡単に心が揺れる。


『えー、何ですかそれ』

 ピピが少しだけ拗ねた声を出す。

『確認班、二人だけずるいです』

『ずるいっていうか、効率よ』

 フレアが淡々と返す。

『ノアの索敵とアークの機動力なら、先行させたほうが早いでしょ』

『そうですけどぉ……』

『でも、ノアさんから提案するの珍しいですね』

 セレスがやわらかく言う。

『……たまには』

 ノアは短く返した。

『たまには、ね』

 フレアの声に、わずかに意味ありげな色が混じる。

 けれど、それ以上は何も言わなかった。


 アークが話をまとめるように言う。


『じゃあ、最初だけノアと俺で先行確認。そのあと合流でいいか?』

『了解です!』

 ピピ。

『はい』

 セレス。

『異議なし』

 フレア。


 決まってしまえば早い。

 簡単な準備を済ませ、五人は中央転送門へ向かう。


 門の周囲には青白い術式が幾重にも回っていて、通行するプレイヤーの装備光がその表面に反射していた。昨日までの戦場の名残みたいな熱はもう薄い。代わりに、夜の都市そのものの静かな賑わいが広がっている。


 転送待機の短い間、アークが個別回線を開いてきた。


『ノア』

『何』

『さっきの』

『うん』

『ほんとに、ちょっと嬉しかった』

 ノアは少しだけ黙った。


 個別回線越しの声は、共通通話よりも近い。

 耳元というより、胸のあたりへ直接落ちてくるような感覚がある。


『……そう』

『うん』

『ならよかった』


 それだけ返すのが精一杯だった。


 本当は、もっといろいろ言いたい。

 来てほしかったとか、

 自分から言ってみたかったとか、

 ずっと見ているだけではいられないと思ったとか。


 でも今はまだ、その全部を口にする勇気はない。

 それでも“ならよかった”の四文字だけでも、昨日までの自分よりは一歩前だと思いたかった。


 転送門の光が立ち上がる。


 視界が白く塗り替わり、次の瞬間には別のエリアへ立っていた。


 そこは中層探索域《ルーメン回廊》。

 薄い霧に包まれた石造りの回廊群が幾層にも連なり、崩れた柱や青白く光る蔦が夜の中で静かに揺れている。空は見えないが、天井近くに埋め込まれた魔導灯が淡い光を落としていて、影が柔らかく長い。


『じゃあ、私たち少し先に行く』

 ノアが共通通話で告げる。

『了解でーす』

 ピピがまだ少し不満そうに返した。

『後ろでのんびり追いますね』

 セレス。

『変な罠踏まないでよ、アーク』

 フレアが釘を刺す。

『何で俺だけ前提で言われるんだ』

『踏みそうだから』

 ノアが思わず言う。

 その瞬間、アークが吹き出した。

『ほらな』

『いや、だって本当でしょ』

『認めるけどさ』


 少しだけ笑いが生まれ、そのままアークとノアは先行ルートへ入る。


 石畳を踏む靴音が、静かな回廊へふたつ分だけ響いた。

 後ろの三人の気配が離れていくにつれ、自然と周囲の空気が変わる。


 前を歩くアークは、普段通りの速度で進みながらも、時々ノアの歩幅へ合わせて少しだけ緩める。

 そんな何気ない癖を、ノアは昔から知っている。

 知っているからこそ、胸の奥が少しだけ痛む。


『右の回廊、行けそう』

 ノアはマップログを見ながら言う。

『たぶんショートカット』

『じゃあ次の周回はそっち採用だな』

 アークがすぐに頷く。

『でも二層目に段差罠ある』

『それ、俺踏むやつ?』

『踏みそう』

『信頼がない』

『あるよ。前に出る方向で』


 その返しに、アークがまた笑った。


『やっぱノア、そういう返しうまいよな』

『褒めてる?』

『褒めてる』

『じゃあ受け取っとく』

『珍しい』

『たまには』


 言ってから、自分で少し驚く。

 こんなふうに軽口へ軽口で返せるのは、ほんの少しだけ前へ出られている証拠かもしれなかった。


 アークもそれを感じたのか、少しだけ穏やかな声になる。


『ノア、前よりちょっと変わった?』

 足が一瞬止まりそうになる。

『……そう見える?』

『見える』

『悪い意味で?』

『いや、全然』

 アークの返事は迷いがなかった。

『なんか、前より近い感じする』

 ノアは息を呑む。


 近い。

 その表現が嬉しくて、でも怖い。


『嫌だった?』

 自分でも驚くくらい、小さな声で聞いていた。

『何でそうなるんだよ』

 アークが少し笑う。

『嫌なら嬉しいとか言わないだろ』

『……そっか』

『うん』


 それだけのことなのに、胸のあたりがやけに熱い。


 石造りの回廊の先で、小型の魔物が二体だけ湧いた。

 黒い羽を持つ蝙蝠型だ。ノアが即座に拘束術式を飛ばし、アークがそれを一閃で落とす。


『やっぱやりやすいな』

 アークが軽く剣を払う。

『……そうだね』

『変に説明いらないし』

『それは昔からでしょ』

『まあ、そうなんだけど』

 アークはそこで少しだけ声を落とした。

『昨日、来なかっただろ』

『……うん』

『ちょっと、待ってた』


 ノアの指先がわずかに震える。


 昨日、来なかった。

 待ってた。


 たったそれだけの事実なのに、いろいろな感情が一度に押し寄せる。

 嬉しい。申し訳ない。期待したくなる。してはいけない気もする。


『ごめん』

 最初に出たのはその言葉だった。

『来たくなかったわけじゃない』

『それはわかってる』

 アークがすぐに返す。

『だから責めてるんじゃない。ただ、来てくれてよかったって話』

 ノアは視線を前へ戻し、深く息を吸った。


 夜の名前を借りている。

 現実の澪より、少しだけまっすぐになれる場所。

 なら、今くらいは自分から言ってもいいのかもしれない。


『……私も』

『ん?』

『来られて、よかった』


 言い切った瞬間、心臓が強く跳ねた。


 アークは一瞬だけ黙って、それから、通話越しでもわかるくらい柔らかく笑った。


『うん』

『何』

『いや、ほんとにちょっと嬉しいなって』

『さっきからそればっかり』

『だって今日は嬉しいこと多いし』

『……そう』


 もうそれ以上は返せなかった。


 回廊の向こうから、ピピの声が飛んでくる。


『アーク先輩ー! ノア先輩ー! 置いてかないでくださいー!』

『追いついてるじゃん』

 アークが笑う。

『追いつきましたけど!』

『意外と早かったですね』

 セレス。

『ちゃんと罠見て進んでたのかしら』

 フレア。


 三人の気配が戻ってきて、二人だけの時間は自然にほどける。

 でも、その短い時間の中で確かに何かが変わった気がした。


 ノアは自分の手元をそっと見下ろす。

 魔導書を持つ指先は、いつも通り静かに落ち着いている。

 それでも胸の奥では、昨日までと違う温度が小さく灯っていた。


 ほんの少しだけ、自分から前へ出た。

 ほんの少しだけ、待つだけではない側へ足を踏み出した。


 それだけで何かが決定的に変わるわけじゃない。

 現実の澪は、まだ朔の前でうまく笑えないままだ。

 好きだとも、取られたくないとも、何ひとつ言えていない。


 でも、だからこそ思う。


 変わらないままでいることのほうが、もう苦しい。


 五人で回廊を進みながら、ノアは静かに目を細めた。

 夜霧の向こうに続く石の道は、遠くまで見通せない。

 それでも、昨日よりは少しだけ、自分で歩いている感覚があった。


 夜の名前で、もう一度。

 今度はただ隠れるためじゃなく、

 少しでも前へ進むために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ