第8章 第4話:また行きたいと言える幸せ
エレベーターを降りると、商業施設の中はさっきより少しだけ賑やかになっていた。
休日の午後。
吹き抜けの上から光が落ちて、ガラスの手すりや店の看板を明るく照らしている。どこかのショップから流れる音楽、カフェの機械音、子どもの笑い声。人の流れは絶えず動いていて、その中を歩くだけで少し足元がふわふわした。
けれど、澪の手は朔と繋がっていた。
さっきよりも、少しだけ自然に。
怖さが完全になくなったわけではない。
誰かに見られるかもしれない。
噂になるかもしれない。
そう思うと、胸の奥はまだ小さくざわつく。
でも、屋上庭園で話せた。
隠したいわけじゃない。
でも、怖い。
その矛盾を朔に渡せた。
朔も怖いと言ってくれた。
そして、隠すのではなく準備しようと言ってくれた。
そのことが、今の澪を少しだけ支えていた。
「次、どうする?」
朔が隣で聞く。
「うーん」
澪はフロア案内を見上げる。
「本屋、行きたい」
「いいよ」
「朔は?」
「俺も見たいのある」
「じゃあ、行こう」
短いやり取り。
それだけなのに、胸の奥があたたかい。
デートらしいことをしなければ、と朝は少し構えていた。
でも、こうして二人で普通に行きたい場所を選ぶこと自体が、もう十分デートなのかもしれない。
本屋は、映画館のあるフロアから一つ下だった。
エスカレーターに乗る時、朔が自然に澪を少し内側へ寄せてくれた。
それだけでまた心臓が反応する。
「今の」
澪が小さく言う。
「何」
「彼氏っぽい」
口に出してから、自分で恥ずかしくなる。
朔も一瞬固まった。
それから、少しだけ目を逸らす。
「……澪も言うようになったな」
「仕返し」
「効いてる」
「よかった」
二人で小さく笑う。
エスカレーターを降り、本屋へ入る。
紙の匂いがした。
新刊の平積み、雑誌コーナー、文庫棚、参考書の列。
いつも来る場所のはずなのに、今日は隣に朔がいるだけで全部が少し違って見える。
澪は文庫の棚を眺めながら、気になっていた小説を手に取った。
ファンタジー要素のある恋愛小説。
表紙には、夜空と硝子の塔が描かれている。
「それ、好きそう」
朔が言う。
「またわかった?」
「わかる」
「そんなに?」
「かなり」
澪は表紙を見つめながら、少しだけ笑った。
「今日の映画の影響かも」
「ああ、名前取り戻すやつ」
「うん」
「澪、ああいうの弱いよな」
「……弱い」
否定できなかった。
隠していた名前。
取り戻す名前。
その奥にいる本当の自分。
どうしても、胸に触れてしまう。
「でも」
澪は本を抱えたまま言う。
「今は、前より少しだけ見れる」
「見れる?」
「うん」
「痛いだけじゃなくて」
朔が静かにこちらを見る。
「ノアも澪も、どっちも私だって」
澪は言葉を続ける。
「前より、ちゃんと思えるから」
朔の表情が、少しやわらいだ。
「そっか」
「うん」
「なら、よかった」
短い返事。
でも、その声があたたかかった。
本屋では、結局その小説を買うことにした。
朔はゲームシナリオ関連の本を一冊手に取っていた。
レジへ向かう途中、澪はふと文具コーナーの小物棚に目を止めた。
そこには、星や月をモチーフにした小さなチャームが並んでいた。
昨日見た雑貨店のものとは違う。
もっとシンプルで、金属の縁に淡い青のガラスがはめ込まれている。
星の形のものと、月の形のもの。
二つ並んでいる。
澪は思わず足を止めた。
「気になる?」
朔が聞く。
「……少し」
星のチャームは、淡く青い。
ノアの瞳の色にも、アステリオの夜にも少し似ていた。
月のチャームは、銀色に近く、角度によって白く光る。
並べると、まるで対になっているみたいだった。
「これ」
朔が月のチャームを手に取った。
「こっちは澪っぽい」
「月?」
「うん」
「私は星のほうかと思った」
「それも澪っぽいけど」
朔は少し考える。
「月のほうは、現実の澪っぽい」
「じゃあ星は?」
「ノア」
自然に言われて、胸が少しだけ熱くなる。
澪は星のチャームを指先で触れた。
「じゃあ」
少し迷ってから言う。
「星は私で、月は朔?」
「俺、月?」
「アークっぽい」
「ああ」
朔は少しだけ笑った。
「それなら、わかる」
二つ並んだ小さなチャーム。
星と月。
ノアとアーク。
澪と朔。
澪はそれを見つめているだけで、胸があたたかくなった。
「買う?」
朔が聞く。
「でも」
「高くないし」
「そういう問題じゃなくて」
「お揃いは、まだ早い?」
言われた瞬間、澪の顔が熱くなる。
お揃い。
その言葉だけで、心臓が跳ねる。
「……早い、かな」
「じゃあ、やめる?」
「やめたいわけじゃない」
「うん」
「でも、つけるのは照れる」
「それはわかる」
朔はチャームを見ながら言う。
「じゃあ、鞄の内側とか」
「内側?」
「すぐ見えるところじゃなくてもいい」
「……」
「俺たちがわかってれば」
また、胸にくる言い方をする。
「朔」
「何」
「今日、ずっとずるい」
「澪も結構言ってる」
「私は仕返し」
「なら俺も」
「元は朔」
「それはそう」
二人で笑った。
結局、星と月のチャームを買うことにした。
澪が星。
朔が月。
いや、二人で少し相談した結果、そう決めた。
レジ袋に入れてもらう時、澪は少しだけ指先が震えていた。
ただの小物だ。
でも、今日の記念みたいなものになってしまった。
本屋を出てから、二人は通路の端にあるベンチに座った。
澪は袋から星のチャームを取り出す。
青いガラスが光を受けて、淡く輝いた。
「綺麗」
澪が呟く。
「うん」
朔も月のチャームを手に取る。
「これ、どうする?」
「鞄につける?」
「内側?」
「うん」
「じゃあ」
澪は自分の鞄の内ポケットのファスナーに、そっと星のチャームをつけた。
外からはほとんど見えない。
でも、鞄を開ければ自分には見える。
朔も同じように、鞄の内側へ月のチャームをつけた。
二人だけが知っている小さなお揃い。
それが、今の二人にはちょうどよかった。
「いつか」
澪は小さく言った。
「外側につけられるようになるかな」
言ってから、少しだけ息を止める。
それは、ただチャームの話ではない。
自分たちの関係を、もっと自然に外へ出せるようになるかという話でもあった。
朔は少しだけ考えてから、頷いた。
「なると思う」
「ほんと?」
「うん」
「すぐじゃなくても?」
「すぐじゃなくても」
朔は自分の鞄を軽く指で叩く。
「今は内側でいい」
「うん」
「でも、隠すためじゃなくて」
「うん」
「大事にするために」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちた。
隠すためではなく、大事にするため。
その違いを、これから何度も確かめていくのかもしれない。
午後は、雑貨店をいくつか見て回った。
マグカップを見て、なぜか互いに相手に似合う色を選び合ったり。
ぬいぐるみコーナーで、朔が妙に真剣な顔で小さな猫のぬいぐるみを見ているのを澪がからかったり。
ゲームショップでアステリオ関連の周辺グッズを見つけて、二人で少しだけ盛り上がったり。
どれも大きな出来事ではない。
でも、ひとつひとつが楽しかった。
途中でまた少し人目が気になった。
同年代らしき人とすれ違うたび、胸が小さく鳴る。
でも、そのたびに朔は何も言わず、少しだけ歩調を合わせてくれた。
無理に平気なふりをしなくていい。
それだけで、澪は前よりも歩けた。
夕方が近づく頃、二人は施設内の小さなカフェで休憩した。
窓際の席に座ると、外の空が薄い橙色へ変わり始めているのが見えた。
澪は温かいミルクティーのカップを両手で包んだ。
歩き回った疲れが少し出てきたけれど、心地よい疲れだった。
「楽しかった」
自然に言葉がこぼれた。
朔がこちらを見る。
「うん」
「朝は、ずっと緊張してたけど」
「うん」
「途中で怖くもなったけど」
「うん」
「でも、楽しかった」
言いながら、自分でも少し驚く。
怖さをなかったことにしなくても、楽しかったと言える。
それが少し嬉しかった。
「俺も」
朔は静かに言った。
「楽しかった」
「ほんとに?」
「ほんと」
「途中、面倒じゃなかった?」
「何が」
「私が怖がったり、止まったり」
朔は少しだけ眉を寄せた。
「面倒じゃない」
「でも」
「澪」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「怖いって言ってくれるほうがいい」
「……」
「黙って無理されるほうが嫌だ」
「うん」
「だから、今日話してくれてよかった」
その言葉に、胸がじんとする。
「朔も」
「うん」
「怖い時は言って」
「言う」
「本当に?」
「言う」
「約束」
「約束」
その確認が、今日の二人には大事だった。
カフェを出る頃には、商業施設の中に夕方の空気が入り始めていた。
照明が少しあたたかい色に見える。
朝から歩いていた場所なのに、帰る時間が近づくと急に名残惜しくなる。
駅前へ向かう途中、朔が自然に手を差し出した。
澪は迷わずその手を取る。
人はまだ多い。
でも、朝よりも少しだけ怖くなかった。
「澪」
「何」
「今日で終わりじゃないから」
不意に言われて、胸が鳴る。
「……何が」
「デート」
朔は少し照れたように言った。
「これで終わりにする気はない」
澪は目を伏せる。
自分が思っていたことを、先に言われた気がした。
「私も」
「うん」
「今日で終わりじゃないよねって、思ってた」
「うん」
「また」
声が少しだけ小さくなる。
「また行きたい」
言えた。
自然に、でもちゃんと。
次を望む言葉を。
朔は繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「俺も」
短い返事。
それだけで、胸がいっぱいになる。
帰りの電車では、二人とも少し口数が減った。
疲れていたのもある。
でも、沈黙は心地よかった。
隣に座っているだけで十分だった。
電車の窓に、二人の姿がうっすら映る。
朝、施設のガラスに映った時よりも、少しだけ自然に見えた。
澪は鞄の内側に触れる。
星のチャームが、指先に小さく当たった。
今日の記念。
二人だけが知っているお揃い。
まだ外側にはつけられない。
でも、それでいい。
今は、大事に内側へしまっておきたい。
最寄り駅から家までの帰り道、空はすっかり夕方の色になっていた。
住宅街の窓に明かりが灯り、遠くで夕飯の匂いがする。
朝と同じ道を、手を繋いで歩く。
家の前に着くと、名残惜しさが胸に広がった。
朝から一日一緒にいたのに、別れるのが少し寂しい。
「今日は」
朔が言う。
「うん」
「ありがとう」
「私こそ」
「迎えに行けてよかった」
「うん」
「一緒に行けてよかった」
「うん」
澪は繋いだ手を見た。
少しだけ力を込める。
「また行きたい」
もう一度言う。
今度は朝よりも、カフェで言った時よりも、少しだけはっきりと。
朔はやわらかく笑った。
「行こう」
「うん」
「次は、どこ行く?」
「もう次の話?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
澪は笑う。
「嬉しい」
言ってから、少しだけ照れる。
朔も、少しだけ耳を赤くした。
「じゃあ、また考えよう」
「うん」
「ちゃんと彼氏として誘う」
「……またそういうこと言う」
「今日くらいは」
「今日だけじゃなさそう」
「たぶん」
二人で笑った。
手を離す。
指先に残る温度が、今日一日の終わりを知らせるみたいで、少し寂しかった。
「また明日」
朔が言う。
「うん」
「学校で」
「うん」
「彼女として」
澪は少しだけ顔を熱くしながら、でも逃げずに返す。
「また明日」
「彼氏として」
朔は嬉しそうに目を細めた。
それから、軽く手を振って帰っていく。
家に入ると、澪は自室へ直行した。
鞄を机の上に置き、内側のファスナーにつけた星のチャームをそっと取り出すように見た。
青いガラスが、部屋の灯りを受けて淡く光る。
今日一日が、そこに閉じ込められているみたいだった。
彼氏として迎えに来てくれた朝。
手を繋いで歩いたこと。
映画館の暗がりで触れた指先。
見られることが怖くなった瞬間。
屋上庭園で話せたこと。
お揃いの小物を買ったこと。
また行きたいと言えたこと。
全部、初デートだった。
甘いだけではなかった。
怖いこともあった。
でも、それでも楽しかった。
澪はスマート端末を開く。
朔からメッセージが届いていた。
『今日はありがとう』
『また行こう』
短い言葉。
でも、胸が温かくなる。
澪は少し迷ってから、返信を打った。
『私もありがとう』
『また行きたい』
送信してから、星のチャームにもう一度触れる。
また行きたい。
その言葉を言える幸せを、澪はしばらく胸の中で大事に抱えていた。




