第8章 第3話:隠したいわけじゃない、でも怖い
屋上庭園へ続くエレベーターの中で、澪はずっと朔の手を握っていた。
狭い箱の中には、他に誰もいない。
低い機械音がして、階数表示のランプが一つずつ上がっていく。ガラス張りの壁の向こうでは、商業施設の吹き抜けがゆっくり下へ離れていった。
手を離さないままなのに、澪の胸はまだ少しざわついている。
同じ学校の生徒かもしれない人影。
見られたかもしれないという不安。
自分たちの関係が、自分たちの知らないところで言葉になるかもしれない怖さ。
隠したいわけじゃない。
むしろ、もう隠れる恋には戻りたくない。
でも怖かった。
エレベーターの扉が開くと、少しひんやりした外気が流れ込んできた。
屋上庭園は、思っていたより静かだった。
低い植え込みが通路に沿って並び、中央には小さな噴水がある。休日だから人はいるけれど、下のフロアほど混雑していない。親子連れがベンチで休んでいて、少し離れたところではカップルが写真を撮っている。
空は明るく、風はやわらかい。
商業施設の上にいるのに、ここだけ少し時間がゆっくり流れているようだった。
「座る?」
朔が聞いた。
「うん」
二人は庭園の端にあるベンチへ向かった。
植え込みの陰になっていて、周囲から少しだけ視線が外れる場所だった。
座る時、繋いでいた手が自然に離れる。
指先に残る温度が、少し寂しかった。
澪は膝の上で両手を重ねた。
さっきまで朔と繋いでいた手を、もう片方の手でそっと包む。
朔は隣に座り、少しだけ間を空けた。
近すぎず、遠すぎず。
話しやすい距離を、ちゃんと探してくれているのがわかる。
「澪」
朔が静かに呼んだ。
「うん」
「さっきのこと」
「うん」
「話せる?」
責めるような声ではなかった。
急かす声でもない。
だから、澪は小さく息を吸えた。
「……見られたかもって思った」
「うん」
「同じ学校の人かもしれないって」
「うん」
「それだけなのに、急に怖くなった」
言葉にすると、胸の中で曖昧だった不安が少し形を持った。
朔は黙って聞いている。
「私たち、隠したいわけじゃないって話したよね」
「うん」
「夏希にも言った」
「うん」
「凛花さんにも、白瀬さんにも、ひなにも向き合った」
「うん」
「だから、もう前みたいに隠れてるわけじゃない」
「うん」
「なのに」
澪は指先を握りしめる。
「見られるのが怖かった」
噴水の水音が、小さく響いている。
遠くで子どもの笑い声がした。
その平和な音の中で、自分の声だけが少し震えていた。
「隠したいわけじゃない」
澪は続けた。
「でも、見られるのが怖い」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
ずっと中で絡まっていた矛盾。
それをやっと朔の前へ置けた気がした。
朔はしばらく黙っていた。
すぐに「大丈夫」と言わない。
簡単に安心させる言葉で覆わない。
それが今は、ありがたかった。
「俺も」
やがて、朔が言った。
「怖いと思う」
澪は顔を上げる。
「朔も?」
「うん」
「さっきは落ち着いてた」
「落ち着いてたっていうか」
朔は少しだけ苦笑する。
「澪が怖がってるのが先に見えたから、自分の分は後回しになっただけ」
「……」
「でも、俺も怖いよ」
その声は静かだった。
「俺たちのことが」
朔は続ける。
「俺たちの言葉じゃない形で広がるのは、嫌だ」
「うん」
「誰かに勝手に面白がられるのも嫌だ」
「うん」
「澪が何か言われるかもって考えるのも、嫌だ」
その言葉が、胸にじんと落ちる。
同じ怖さを、朔も持っている。
それがわかるだけで、少し息がしやすくなった。
「でも」
朔は言った。
「だからって、ずっと隠すのも違うんだよな」
「……うん」
「隠したら、たぶん楽な時もある」
「うん」
「見られないし、言われないし、波風立たない」
「うん」
「でも、澪はそれで苦しくなってきた」
澪は頷く。
ノアとして隠れていた時間。
朝倉澪として言えなかった時間。
その苦しさを、朔はもう知っている。
「私」
澪は小さく言った。
「もう、隠れることで近くにいるのは嫌」
「うん」
「でも、見られるのも怖い」
「うん」
「どうすればいいのかな」
問いかけというより、こぼれた言葉だった。
朔は少し考えた。
それから、ゆっくり口を開く。
「じゃあ、隠すんじゃなくて」
「うん」
「ちゃんと準備しよう」
澪は目を瞬かせた。
「準備?」
「うん」
「何の?」
「俺たちの言葉で言えるようにする準備」
朔の声は落ち着いていた。
「誰かに見られて、勝手に噂になって、それに追いかけられるんじゃなくて」
「うん」
「俺たちが、言いたい人に、言える範囲で、ちゃんと言う」
「……うん」
「全部一気にじゃなくていい」
「うん」
「でも、聞かれた時にごまかして逃げるんじゃなくて、言えるようにしておく」
その言葉が、澪の中で少しずつ形になっていく。
隠すのではなく、準備する。
それは、無理に堂々とすることとは違う。
怖さをなかったことにするのでもない。
怖いままでも、自分たちの足で立つための方法だ。
「……そうか」
澪は小さく呟いた。
「私、見られたら終わりみたいに思ってた」
「終わりじゃない」
「うん」
「でも、慌てるのはわかる」
「うん」
「だから、慌てないために考えよう」
朔は少しだけこちらを見る。
「誰に、いつ、どう言うか」
その言い方に、澪は胸の奥が少しあたたかくなる。
朔はいつも、こういうふうに現実へ戻してくれる。
感情を否定せずに、でもそのまま溺れさせずに、二人で考える形にしてくれる。
「朔」
「何」
「ありがとう」
「まだ何もしてない」
「聞いてくれた」
「それはする」
「一緒に考えようとしてくれた」
「それもする」
「……そういうところ」
「何」
「好き」
言ってから、澪は自分で固まった。
あまりに自然に出てしまった。
デート中の屋上庭園で。
真面目な話の最中に。
好き、と。
朔も固まっていた。
数秒、風の音だけが二人の間を抜ける。
「……今の」
朔が低く言う。
「忘れて」
「無理」
「忘れて」
「無理」
「朔」
「いや」
朔は少しだけ顔を逸らした。
「今のは、かなり無理」
「何が」
「嬉しすぎて」
その返しで、澪の顔が一気に熱くなる。
「……そういうこと言う」
「澪が先に言った」
「言ったけど」
「なら俺も言う」
「え」
朔は少しだけ照れた顔のまま、でも逃げずに言った。
「俺も好き」
短い言葉。
それだけで、澪の胸はいっぱいになった。
噴水の音も、人の声も、一瞬遠くなる。
「……今日」
澪は顔を伏せる。
「心臓、忙しすぎる」
「俺も」
「怖かったり、嬉しかったり」
「うん」
「手を繋ぐだけで事件だし」
「事件?」
「事件」
朔が少し笑う。
その笑いにつられて、澪も少しだけ笑えた。
怖さは消えていない。
さっき見かけた制服姿の記憶は、まだ胸の奥に残っている。
でも、今はそれだけではない。
怖いことを話せた。
朔が聞いてくれた。
一緒に準備しようと言ってくれた。
そして、好きだと言い合えた。
それだけで、さっきより世界が少し明るく見えた。
「じゃあ」
澪はゆっくり言う。
「もし、聞かれたら?」
「誰に?」
「クラスの人とか」
「うん」
「神谷と付き合ってるのって聞かれたら」
口にしただけで少し緊張する。
朔は少し考えた。
「その時は」
「うん」
「澪が嫌じゃなければ、認める」
「……認める」
「うん」
「付き合ってるって?」
「うん」
澪の胸が鳴る。
単純な言葉なのに、重い。
でも、その重さを持ちたいとも思う。
「朔は、怖くない?」
「怖い」
「でも言うの?」
「澪が嫌じゃなければ」
「……私も」
澪は指先を見つめる。
「怖いけど、嘘はつきたくない」
「うん」
「ただ」
「うん」
「からかわれたり、変に噂されたら」
「うん」
「たぶん、落ち込む」
正直に言うと、朔は頷いた。
「その時は言って」
「うん」
「俺も言う」
「朔も落ち込む?」
「たぶん」
「……そっか」
澪は少しだけ笑った。
「じゃあ、お互い落ち込んだら言う」
「うん」
「一人で抱えない」
「うん」
「隠さないって、そういうことでもあるのかな」
朔は少しだけ考えた。
「そうだと思う」
「うん」
「人に見せることだけじゃなくて」
「うん」
「お互いに、怖いことを隠さないこと」
澪はその言葉を胸の中で繰り返した。
お互いに、怖いことを隠さないこと。
それは、今の二人にとって大事な約束になる気がした。
少し風が強くなった。
澪の髪が頬にかかる。
朔が一瞬手を伸ばしかけて、途中で止めた。
澪はそれに気づいた。
「触っていいよ」
言ってから、また顔が熱くなる。
朔も少しだけ目を見開いた。
「いいの?」
「うん」
「じゃあ」
彼はそっと手を伸ばし、澪の頬にかかった髪を耳にかけた。
指先が、ほんの少し肌に触れる。
それだけで、息が止まりそうになる。
「……大丈夫?」
朔が小さく聞く。
「大丈夫」
「本当に?」
「大丈夫だけど」
「うん」
「また心臓がうるさい」
朔は少しだけ笑った。
「俺も」
「今の、朔は何もされてない」
「触るほうも緊張する」
「……そっか」
そんなことも、まだひとつずつ知っていく段階なのだと思った。
彼氏と彼女になったからといって、何もかも自然にわかるわけではない。
触れることも、話すことも、見られることも、全部少しずつ確認しながら進む。
その面倒さが、不思議と嫌ではなかった。
しばらく屋上庭園で休んだあと、二人はもう一度施設内へ戻ることにした。
カフェで飲み物を買い直し、今度はテイクアウトカップを持って庭園を歩く。
さっきより、澪の足取りは少し軽くなっていた。
「怖くなくなった?」
朔が聞く。
「なくなってはない」
「うん」
「でも、少し大丈夫になった」
「そっか」
「話せたから」
「うん」
「朔が、聞いてくれたから」
そう言うと、朔は少しだけ照れたように視線を逸らした。
「またそういうこと言う」
「言いたくなった」
「便利に使ってる」
「便利」
二人で笑う。
笑ったあと、澪は空を見上げた。
青い空に、薄い雲が流れている。
初デートの途中でこんなに真面目な話をすることになるなんて、朝の自分は思っていなかった。
でも、きっとこれでいい。
ただ甘いだけではなく、
ただ楽しいだけでもなく、
怖いことも、揺れることも、ちゃんと話していく。
それが、自分たちの恋なのだと思った。
施設内へ戻るエレベーターの前で、朔が手を差し出した。
澪は少しだけ見つめてから、その手を取る。
さっきよりも、少し自然に。
「このまま?」
朔が聞く。
「うん」
「怖くなったら?」
「言う」
「俺も」
その確認が、今は心強かった。
エレベーターの扉が開く。
二人は手を繋いだまま中へ入った。
隠したいわけじゃない。
でも、怖い。
その気持ちはまだ消えない。
けれど、その怖さを朔と一緒に持てるなら、少しずつ前へ進める気がした。
澪は繋いだ手に、ほんの少しだけ力を込めた。
朔も、同じように握り返してくれた。




