第8章 第2話:初デートは、手を繋ぐだけで事件になる
映画館の入口へ向かうまでの数十メートルが、澪にはやけに長く感じられた。
休日の商業施設は人が多い。
親子連れ、友人同士、恋人らしい二人組。誰も澪たちのことなんて見ていないはずなのに、繋いだ手だけが世界中に見えているような気がする。
朔の手は、少しあたたかかった。
最初の頃より、握り方は自然になってきた。
でも、初デートの人混みの中で繋ぐ手は、帰り道のそれとはまた違う。
手のひらから、心臓の音まで伝わってしまいそうだった。
「……大丈夫?」
朔が小さく聞く。
何度目だろう。
今日、家の前を出てから、朔は何度もそう聞いてくれる。
そのたびに、澪は少し安心して、少し照れて、少しだけ申し訳なくなる。
「大丈夫」
澪は答えた。
「でも」
「でも?」
「手、意識しすぎてる」
正直に言うと、朔が少しだけ目を逸らした。
「俺も」
「朔も?」
「そりゃ」
朔は繋いだ手を少しだけ見た。
「デートで手繋いでるわけだし」
「……言わないで」
「事実」
「事実でも」
澪は顔を伏せる。
彼氏と彼女。
初デート。
手を繋いで映画館へ入る。
言葉にすると、ひとつひとつが強すぎる。
今まで何度も朔の隣を歩いてきたのに、今日だけはまったく違う場所を歩いているみたいだった。
映画館の入場列に並ぶ。
前には親子連れ、後ろには大学生らしき二人組。
澪は自然と朔の隣へ少し寄った。
「近い」
朔が小さく言う。
「だめ?」
「だめじゃない」
「じゃあ言わないで」
「いや」
朔は少しだけ困ったように笑った。
「嬉しくて、言った」
澪はもう何も返せなくなった。
ずるい。
そう言おうと思ったけれど、声にならなかった。
代わりに、繋いだ手に少しだけ力を込める。
朔も、そっと握り返してくれた。
劇場内へ入ると、薄暗い空間に映画館独特の匂いが漂っていた。
ポップコーンの甘い香り、シートの布の匂い、空調の冷たい空気。
スクリーンには予告映像が流れていて、低い音が身体の奥へ響く。
二人の席は中央より少し後ろ。
並んで座ると、肩の距離が思ったより近かった。
手は一度離した。
鞄を置いたり、上着を整えたりするためだ。
でも離した瞬間、少しだけ物足りないと思ってしまった自分に、澪はまた顔が熱くなる。
「寒くない?」
朔が聞く。
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
そう答えたあと、澪は少しだけ笑った。
「今日、朔ずっとそれ聞くね」
「心配だから」
「過保護」
「彼氏だから」
また不意打ち。
澪は肘掛けを握りしめた。
「……映画始まる前に心臓がもたない」
「そんなに?」
「朔のせい」
「俺のせいか」
「そう」
小声でそんなやり取りをしているうちに、場内がさらに暗くなった。
本編が始まる。
映画は、思っていたよりずっと面白かった。
美しい空を飛ぶ巨大な船。
崩れた王国。
記憶をなくした少女と、彼女を守ろうとする少年。
映像はきれいで、音楽も壮大で、澪は少しずつ物語へ引き込まれていった。
途中、主人公たちが夜の塔で手を取り合う場面があった。
澪は無意識に、肘掛けの上の自分の手を見た。
すぐ隣に、朔の手がある。
触れそうで、触れない距離。
映画の中では、少年が少女の手を取っていた。
落ちそうになる彼女を支えるように。
その場面が少しだけ、ノアとアークの姿に重なる。
澪が迷った時、朔はいつも手を差し出してくれた。
現実でも、アステリオでも。
胸の奥が、静かにあたたかくなる。
その時、朔の指先がかすかに動いた。
触れたわけではない。
でも、澪は気づいてしまった。
自分だけではなかった。
朔も、たぶん同じことを考えている。
澪は少しだけ迷って、そっと指先を動かした。
触れる。
ほんの少し。
それだけで、心臓が跳ねる。
朔はスクリーンを見たまま、ゆっくり澪の手を取った。
暗い劇場の中で、二人の手が静かに繋がる。
映画の音が大きく響いている。
誰もこちらを見ていない。
でも、澪にとってはそれだけで大事件だった。
手を繋いで映画を見る。
そんなこと、少し前の自分には想像できなかった。
指先が熱い。
胸が苦しい。
でも、嫌ではない。
映画のクライマックスで、少女が自分の名前を取り戻す場面があった。
彼女はもう逃げないと言い、少年の手を握り返す。
澪は、少しだけ泣きそうになった。
名前。
隠していた自分。
誰かに受け取ってもらえたこと。
物語の中の出来事なのに、胸の奥の柔らかいところへ触れられた気がした。
隣で、朔の手に少しだけ力が入る。
まるで、澪が何を感じているか知っているみたいだった。
映画が終わり、場内が明るくなる。
澪は慌てて手を離そうとした。
でも、朔が一瞬だけ握ったままにした。
ほんの一秒。
それから、ゆっくり離す。
その一秒が、妙に心に残った。
劇場を出ると、外の明るさが少し眩しかった。
人々が感想を話しながら流れていく。
澪はまだ少し映画の余韻の中にいた。
「面白かった」
朔が言う。
「うん」
「最後、よかったな」
「うん」
「泣きそうだった?」
「……わかった?」
「わかった」
朔は少しだけ笑う。
「名前のところでしょ」
澪は目を伏せた。
「うん」
「澪が反応すると思った」
「そういうところ、よく見てる」
「見てるよ」
さらっと言われて、また胸が鳴る。
「彼女だから?」
澪は少しだけ仕返しのつもりで聞いた。
朔が固まる。
ほんの数秒。
「……それ」
「何」
「かなり来る」
「仕返し」
「効いた」
朔が少しだけ耳を赤くする。
それを見て、澪は少しだけ勝った気持ちになった。
映画館を出たあと、二人は同じフロアの雑貨店を見て回った。
棚にはキーホルダーや文具、アクセサリー、キャラクターグッズが並んでいる。
澪は小さなガラス細工のコーナーで足を止めた。
星の形をした小さなチャーム。
淡い青色で、光に透かすと少しだけ色が変わる。
「好きそう」
朔が隣で言った。
「……わかる?」
「わかる」
「ノアっぽい?」
「ノアっぽいし、澪っぽい」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。
ノアっぽい。
澪っぽい。
その二つが、自然に並ぶことが嬉しかった。
「買う?」
朔が聞く。
「今日は見るだけ」
「そう?」
「うん」
そう言いながら、澪はしばらくそのチャームを見ていた。
朔は何も言わず隣にいる。
急かさない。
選ばせてくれる。
それが朔らしかった。
店を出ると、昼に近い時間になっていた。
施設内の飲食フロアは混み始めている。
「何食べる?」
朔が聞く。
「軽めがいい」
「緊張してる?」
「少し」
「まだ?」
「まだ」
「俺も」
「朔も?」
「映画中、手繋いでたから」
「……言わないで」
「澪からも触れてきただろ」
「言わないで」
澪は顔を覆いそうになる。
たしかに、自分から指先を動かした。
それを思い出すだけで恥ずかしい。
でも、後悔はなかった。
二人は比較的空いているカフェへ入った。
窓際の席に座ると、外の通路を行き交う人々が見える。
澪はアイスティーとサンドイッチ、朔はコーヒーとホットサンドを頼んだ。
席に着いて、ようやく少し落ち着く。
「映画」
澪はストローを指先でいじりながら言った。
「また観たい」
「同じやつ?」
「ううん」
「別の?」
「うん」
「じゃあ、また行こう」
あまりにも自然に返されて、澪は少しだけ驚いた。
「また、って」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ行こう」
「……うん」
次がある。
そのことが、胸をじんわりあたためる。
今日で終わりではない。
恋人として出かけることが、これからも続くかもしれない。
そんな当たり前みたいな未来を、少し前の自分は持てなかった。
食事をしながら、二人は映画の感想を話した。
映像がきれいだったこと。
主人公の選択がよかったこと。
途中の敵キャラが少しアステリオのボスに似ていたこと。
話しているうちに、緊張は少しずつほどけていった。
でも、カフェを出たあとだった。
エスカレーター近くの通路を歩いている時、澪は見覚えのある制服姿を見つけた。
同じ学校の生徒かもしれない。
休日だから私服の人も多い中で、部活帰りなのか、制服の二人組が向こう側の店舗前に立っている。
距離はある。
こちらに気づいているかはわからない。
でも、澪の身体は反射的に固まった。
繋いでいた手に、力が入る。
朔がすぐに気づいた。
「澪?」
「……あ」
「どうした」
「今」
声がうまく出ない。
「あそこ、同じ学校の人かも」
朔がそちらを見る。
でも、すぐには何も言わなかった。
澪は自分の手を見た。
朔と繋いでいる手。
恋人として、外を歩いている証拠みたいなもの。
見られたら。
もし気づかれたら。
噂になったら。
隠したいわけじゃない。
隠したくないと決めた。
夏希にも報告した。
凛花たちにも向き合った。
それなのに、急に怖くなる。
視線を向けられること。
知らないところで言われること。
自分たちの関係が、自分たちの言葉ではない形で広がること。
澪の指先が、無意識に動いた。
手を離そうとしたのかもしれない。
その瞬間、朔は握る力を強めなかった。
無理に引き止めなかった。
ただ、そっと力を緩めた。
「離す?」
小さな声だった。
責めていない。
がっかりしてもいない。
選ばせてくれている。
それが逆に、澪の胸に深く刺さった。
「……離したいわけじゃない」
澪は震える声で言った。
「うん」
「でも、怖い」
「うん」
「見られたら、どうしようって」
朔は静かに頷いた。
「じゃあ」
彼は少しだけ身体の向きを変え、通路の端へ澪を誘導した。
人の流れから外れた、柱の近く。
そこなら少し落ち着ける。
手は、まだ繋いだままだった。
でも、朔はいつでも離せるくらいの力で握っている。
「無理しなくていい」
朔が言う。
「うん」
「隠したいわけじゃなくても、怖い時はあるだろ」
「……うん」
「俺も、たぶん怖い」
澪は顔を上げる。
「朔も?」
「うん」
「全然、平気そうだった」
「平気なふりはしてたかも」
朔は少しだけ苦く笑う。
「でも、知らないところで言われるのは、俺も嫌だ」
「うん」
「澪が変に見られるのも嫌だ」
「うん」
「だから、怖いなら一回止まっていい」
その言葉で、少しだけ呼吸が戻る。
止まっていい。
無理に堂々としなくていい。
でも、逃げるだけでもない。
澪は繋いだ手を見た。
離すこともできる。
このまま繋いでいることもできる。
少しの間、迷った。
そして、ゆっくりと握り返した。
「……このままでいい」
言うと、朔の目が少しだけやわらぐ。
「いいの?」
「うん」
「無理してない?」
「少ししてる」
正直に言う。
「でも、離したくない気持ちも本当」
朔は小さく頷いた。
「わかった」
「うん」
「じゃあ、ゆっくり行こう」
その言葉に、澪は頷いた。
二人は再び歩き出した。
さっきの制服姿の二人は、もう別の方向を向いていた。
気づかれていたのか、いなかったのかはわからない。
でも、澪は手を離さなかった。
心臓はまだうるさい。
怖さも残っている。
それでも、朔の手の温度が隣にある。
それが今は、支えだった。
施設の吹き抜けに出ると、上階から明るい光が降っていた。
休日の人混みは相変わらず賑やかで、誰も二人を特別には見ていない。
でも澪の中では、さっきの出来事が小さな波紋になって残っていた。
隠したいわけじゃない。
でも、怖い。
その矛盾を、今日初めてはっきり自覚した。
「澪」
朔が言う。
「何」
「このあと、少し静かなところ行く?」
「……うん」
「カフェ、別のところでもいいし」
「さっき入ったばかり」
「じゃあ、屋上庭園とか」
この施設の上階には、小さな屋上庭園がある。
人はいるが、通路よりはずっと落ち着ける場所だ。
「行きたい」
「うん」
「少し、話したい」
澪が言うと、朔は頷いた。
「俺も」
短く、でもはっきりと返してくれた。
エレベーターへ向かう途中、澪はもう一度だけ繋いだ手を見た。
手を繋ぐだけで、こんなに嬉しい。
手を繋ぐだけで、こんなに怖い。
初デートは、思っていたよりずっと忙しい。
胸が熱くなって、笑って、照れて、不安になって、それでもまた隣へ戻りたくなる。
事件みたいなことは何も起きていない。
ただ、手を繋いで歩いているだけ。
それなのに澪にとっては、今日のすべてが小さな事件の連続だった。




