第8章 第1話:彼氏として迎えに来る朝
朝から、クローゼットの前で澪は固まっていた。
ベッドの上には、すでに三組分の服が並んでいる。
白いブラウスと淡い水色のスカート。
ゆるいニットと細身のパンツ。
少しだけ大人っぽいワンピース。
どれも悪くない。
悪くないはずなのに、どれを着ても決定打がない。
「……初デートって、何着ればいいの」
小さく呟いて、澪はスマート端末を見た。
画面には、昨夜の夏希とのメッセージが残っている。
『気合い入れすぎると自爆する』
『でも普段通りすぎると後で自分が落ち込む』
『結論:普段より少し可愛い、くらいにしな』
普段より少し可愛い。
その“少し”が難しい。
澪はベッドの上の服を見比べる。
ワンピースは可愛い。
でも、気合いを入れすぎている気がする。
パンツは動きやすい。
でも、いつもの外出とあまり変わらない。
ブラウスとスカートは、その中間くらい。
「……これ、かな」
白いブラウスを手に取る。
袖に控えめなレースがあって、スカートは淡い水色。
派手ではない。
でも、いつもの澪よりは少しだけやわらかい。
鏡の前で合わせてみる。
顔が熱い。
これを朔が見る。
彼氏として迎えに来る朔が。
「……無理」
思わず服を抱えたまましゃがみ込みそうになる。
でも、時間は待ってくれない。
約束は十時。
朔は家まで迎えに来ると言った。
『日曜、十時に迎えに行く』
『彼氏として』
そのメッセージを思い出しただけで、胸が跳ねる。
彼氏として迎えに来る。
彼女として待っている。
昨日、自分でそう返した。
返したのは自分なのに、今になってその破壊力に押し潰されそうになっている。
澪は深呼吸して、服を着替えた。
髪を整え、少しだけリップを塗る。
普段より少しだけ丁寧に。
でも、やりすぎないように。
鏡を見る。
見慣れた自分。
でも、今日は少し違う。
朝倉澪。
神谷朔の彼女として、初めてデートへ行く自分。
「……変じゃない、よね」
確認する相手はいない。
それでも不安で、澪は端末を手に取った。
夏希に送るか迷う。
でも、今送ったら確実にからかわれる。
それに、最初に見てもらうのは朔がいいと思ってしまった。
そう思った瞬間、また顔が熱くなる。
階下から家の生活音が聞こえる。
時計を見ると、九時五十五分。
あと五分。
澪は部屋の中を意味もなく歩いた。
鞄の中身を確認する。
財布。
端末。
ハンカチ。
予備の充電器。
全部入っている。
それでも落ち着かない。
九時五十八分。
九時五十九分。
端末が震えた。
『家の前に着いた』
その一文を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
もう来た。
朔が。
彼氏として迎えに。
澪は端末を胸の前で握りしめる。
深呼吸を一度。
もう一度。
「……行こう」
部屋を出て階段を下りる。
玄関で靴を履く手が少し震えた。
ドアノブに手をかける。
一瞬、止まる。
このドアの向こうに、朔がいる。
いつもの幼馴染ではなく。
今日だけは、初デートの相手として。
澪はそっと扉を開けた。
朝の光が差し込む。
門の近くに、朔が立っていた。
白いシャツに、薄手のジャケット。
いつもより少しだけきちんとしている。
でも、気取りすぎていない。
朔らしい服装だった。
そして、澪を見た瞬間、朔の動きが止まった。
「……おはよう」
澪が先に言った。
声が少しだけ震えた。
「おはよ」
朔も返す。
けれど、その視線は一瞬、澪の服装に落ちて、すぐに戻った。
沈黙。
澪の胸がうるさい。
変だったのだろうか。
やっぱり気合いを入れすぎただろうか。
それとも、何かおかしいところが。
「……変?」
我慢できずに聞くと、朔は少しだけ慌てたように首を振った。
「いや」
「じゃあ」
「似合ってる」
短い言葉だった。
それだけなのに、澪の胸が一気に熱くなる。
「……ほんとに?」
「うん」
「無理してない?」
「してない」
朔は少しだけ目を逸らした。
「普通に、かなり似合ってる」
かなり。
その言葉で、澪はもう顔を上げていられなくなった。
「……朝からそういうこと言わないで」
「今日くらいは言わせて」
「今日くらい?」
「初デートだし」
さらっと言われて、また心臓が跳ねる。
「朔」
「何」
「それも、朝から言わないで」
「でも本当」
「本当でも」
「あと」
朔は少しだけ姿勢を正した。
「ちゃんと迎えに来た」
「……うん」
「彼氏として」
完全に不意打ちだった。
澪はその場で固まる。
顔が熱い。
耳まで熱い。
「……もう」
「何」
「今日の朔、ずるい」
「今日だけ?」
「最近ずっと」
「それは自覚ある」
「自覚あるならやめて」
「やめたほうがいい?」
朔が少しだけ真面目に聞く。
澪は言葉に詰まった。
やめてほしいわけではない。
恥ずかしいだけで。
心臓がもたないだけで。
でも、言われると嬉しいのだ。
「……やめなくていい」
小さく答えると、朔の表情が少しだけ緩んだ。
「そっか」
「笑わないで」
「笑ってない」
「笑ってる」
「少しだけ」
そんな会話をして、ようやく少しだけ息ができた。
家の前を出て、二人は駅へ向かって歩き始めた。
休日の住宅街は、平日の朝とは違う空気をしていた。
通学の生徒はいない。
代わりに、犬の散歩をする人や、買い物袋を持った近所の人がのんびり歩いている。
空は明るく、風はやわらかい。
いつもの道なのに、今日だけは違う。
制服ではない。
学校へ向かうのではない。
隣にいるのは幼馴染ではなく、彼氏。
澪はその事実を意識しすぎて、歩き方までわからなくなりそうだった。
「澪」
「何」
「緊張してる?」
「してる」
即答してしまった。
朔が少しだけ笑う。
「俺も」
「朔も?」
「するだろ」
「でも、迎えに来るの自然だった」
「家の前に立ってる間、かなり緊張してた」
「そうなの?」
「メッセージ送るまでに二分くらい迷った」
想像して、澪は少しだけ笑ってしまう。
「何で」
「いや」
「何」
「朔もちゃんと緊張してるんだって思ったら、ちょっと安心した」
「俺を何だと思ってるんだ」
「いつも変なところで落ち着いてるから」
「落ち着いてない」
朔は前を向いたまま言う。
「今も、かなり落ち着いてない」
その正直さが、胸にきた。
「……私も」
「うん」
「でも、楽しみ」
言ってから、自分で少し驚いた。
自然に出た。
怖いとか、恥ずかしいだけじゃなくて。
ちゃんと楽しみだと言えた。
朔は横を見る。
そして、少しだけ嬉しそうに笑った。
「俺も」
短い返事。
それだけで十分だった。
駅へ向かう道に出ると、人が少し増えてきた。
休日だからか、家族連れやカップルもいる。
手を繋いで歩いている人たちもいて、澪はつい視線を向けてしまった。
ああいうふうに、自然に歩けるのだろうか。
自分たちも。
いつか。
そう考えた瞬間、朔の手が視界に入った。
まだ繋いでいない。
でも、すぐ隣にある。
繋ぐのだろうか。
駅前は人が多い。
見られるかもしれない。
でも、今日はデートだ。
澪が少しだけ迷っていると、朔がちらりとこちらを見る。
「手」
短く言った。
心臓が跳ねる。
「……駅まで?」
「嫌じゃなければ」
「嫌じゃない」
澪はすぐに答えてから、自分で少し照れた。
朔の表情がやわらかくなる。
彼はそっと手を差し出した。
澪は少しだけ息を吸って、その手を取る。
指が触れる。
自然に絡む。
もう何度か繋いだはずなのに、今日の手はまた違う。
休日の朝。
私服で。
初デートへ向かう途中。
その事実だけで、胸の奥がふわふわする。
「……手、あったかい」
澪が小さく言うと、朔が少しだけ目を逸らした。
「澪も」
「そう?」
「うん」
「緊張してるからかも」
「俺も」
同じ言葉ばかり。
でも、それが嬉しい。
二人は手を繋いだまま駅へ向かった。
改札前は思ったより人が多かった。
休日の駅前特有のざわめきが広がっている。
待ち合わせをする人。
家族連れ。
友人同士。
買い物へ向かう人たち。
澪は繋いだ手を少し意識する。
誰かに見られている気がする。
実際には、誰もこちらを気にしていないのかもしれない。
でも、自分の中では、手を繋いでいる事実がとても大きい。
朔がそれに気づいたのか、少しだけ手の力を緩めた。
「大丈夫?」
「……うん」
「無理なら」
「大丈夫」
澪は繋いだ手を少しだけ握り返す。
「今日は、このままがいい」
言った瞬間、朔の目が少しだけ揺れた。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、このまま」
その言葉に、胸が温かくなる。
隠したいわけじゃない。
でも見られるのは少し怖い。
その気持ちは、たぶん今日一日ずっとついてくる。
それでも、今は手を離したくなかった。
駅前の商業施設へ向かう途中、ガラス張りの建物に二人の姿が映った。
私服の澪。
隣を歩く朔。
繋がれた手。
それを見た瞬間、澪は少しだけ息を止めた。
本当に、デートみたいだ。
いや、みたいではない。
デートなのだ。
「どうした?」
朔が聞く。
「……今、映った」
「何が」
「私たち」
朔もガラスのほうを見る。
二人の姿が、少し歪んで映っている。
それでも、手を繋いで並んでいるのははっきりわかる。
「……ほんとだ」
朔が小さく言う。
「変な感じ」
「うん」
「でも」
朔は少しだけ照れたように続ける。
「悪くない」
澪は頷いた。
「うん」
「悪くない」
施設の入口に着くと、自動ドアが開いた。
中から涼しい空気と、休日のにぎやかな音が流れてくる。
ショップの音楽、エスカレーターの案内音、どこかのカフェから漂う甘い匂い。
初デートの場所としては、特別すぎるわけではない。
でも今の澪には、全部が少し輝いて見えた。
「まず、どうする?」
朔が聞く。
「映画の時間、確認する?」
「そうだな」
「そのあと、少しお店見て」
「昼、どこかで食べる?」
「うん」
普通の相談。
でも、恋人として予定を決めていると思うだけで、胸が温かい。
エスカレーターの前まで来た時、澪はふと繋いだ手を見る。
「このまま乗る?」
「危ない?」
「いや」
「じゃあ、ゆっくり」
朔はそう言って、澪の歩調に合わせてくれた。
エスカレーターに乗る。
段差のせいで、朔が少しだけ前になる。
繋いだ手の位置が変わって、澪はまた意識してしまう。
朔が振り返った。
「大丈夫?」
「うん」
「今日、何回も聞くと思う」
「大丈夫って?」
「うん」
「じゃあ、私も何回も言うと思う」
「何を」
「大丈夫」
澪がそう返すと、朔は少しだけ笑った。
「わかった」
「でも」
「うん」
「本当に無理な時は、ちゃんと言う」
朔の表情が少し真面目になる。
「うん」
「隠さない」
「俺も」
その言葉が、二人の間に静かに置かれる。
隠さない恋。
それは、ただ堂々と手を繋ぐことだけではない。
怖い時に怖いと言うこと。
無理な時に無理と言うこと。
楽しい時に楽しいと言うこと。
今日、その全部を少しずつ覚えていくのだと思った。
映画館のフロアに着くと、上映スケジュールのパネルの前で二人は立ち止まった。
並んでタイトルを見上げる。
恋愛映画、アクション映画、アニメ映画、少し難しそうな海外作品。
「どれがいい?」
朔が聞く。
「朔は?」
「澪が見たいのでいい」
「それ、困るやつ」
「じゃあ、これ」
朔が指差したのは、評判のいいファンタジー映画だった。
映像がきれいで、冒険要素もあるらしい。
「これ、気になってた」
「じゃあ、これにする?」
「うん」
すぐに決まる。
こんな小さなことでも、二人で選んだ感じがして嬉しい。
チケットを取り、上映まで少し時間ができた。
二人はフロアの端にあるベンチへ座る。
手は自然に離れていた。
でも、座る距離は近い。
隣にいるだけで、胸が少し落ち着く。
最初に家を出た時のような張りつめた緊張は、少しずつやわらいできていた。
「澪」
「何」
「今日、来てよかった」
「まだ始まったばかりだよ」
「うん」
「映画も見てない」
「でも、もう思ってる」
朔の声は静かだった。
「彼氏として迎えに行くの、緊張したけど」
「うん」
「ちゃんと来られてよかった」
その言葉に、胸が熱くなる。
「私も」
「うん」
「彼女として待つの、緊張した」
「うん」
「でも、迎えに来てくれて嬉しかった」
言い終えると、朔が少しだけ目を細めた。
「なら、よかった」
「うん」
映画館のアナウンスが流れる。
周囲の人たちが少しずつ移動を始める。
澪は立ち上がる前に、そっと朔を見る。
彼氏として迎えに来てくれた朝。
それだけで、今日という日がもう特別になっている。
「行こう」
朔が言う。
「うん」
立ち上がる。
そして、どちらからともなく、もう一度手を繋いだ。
人混みの中へ向かう。
少し怖い。
でも、隣に朔がいる。
初デートは、まだ始まったばかりだった。




