第7章 第12話:恋人になって最初の約束
翌朝、澪はいつもより少し早く家を出た。
空はよく晴れていた。
薄い青がどこまでも広がっていて、雲は白く、通学路の家々の屋根には朝の光がやわらかく落ちている。昨日の夜、アステリオで見た星霧とはまったく違う光なのに、胸の奥に残っているあたたかさは少し似ていた。
ノアとアークも、ここから始める。
昨夜、そう言えた。
夜の名前を、もう隠れ場所だけにはしない。
現実の恋から切り離すものにも、もうしない。
ノアとしても。
澪としても。
同じ人を好きな、同じ自分として進んでいく。
そう思えるようになっただけで、朝の空気が少しだけ軽く感じられた。
曲がり角を曲がると、朔がいた。
いつもの電柱のそば。
片手にスマート端末。
でも今日は画面を見ていなかった。
澪が来るのを、ちゃんと待っていたように顔を上げる。
「おはよ」
朔が言った。
「おはよう」
澪も返す。
その挨拶は、数日前よりずっと自然だった。
もちろん、まだ少し照れる。
でも、おはようを言うだけで精一杯だった最初の朝とは違う。
少しずつ、恋人としての距離が日常の中に馴染み始めている。
二人で歩き出す。
朝の通学路には人が多いから、手は繋がない。
でも、肩が触れそうな距離で歩くことには、もう前ほど迷わなくなっていた。
「昨日」
朔が言う。
「ログインしてよかった」
「私も」
「星骸の渡り廊、久しぶりだったな」
「うん」
「前はあそこで、かなり重い話した」
「かなりね」
「今思うと、よくあんなこと言ったなってなる」
「知りたいのは名前じゃなくて、その奥?」
「やめろ」
朔が少しだけ顔を逸らす。
耳が赤い。
澪は思わず笑った。
「言ったの朔だよ」
「アークな」
「同じでしょ」
「今は同じ」
その返しに、胸が少しだけ温かくなる。
前なら、同じだと認めることが怖かった。
アークと朔。
ノアと澪。
その線が繋がることが、全部を壊すかもしれないと思っていた。
でも今は、その線が繋がっていることが嬉しい。
「ノアとしても」
澪は小さく言う。
「ちゃんと始められた気がした」
「うん」
「もう、隠れ場所にしなくていいんだって思えた」
「うん」
「でも、ノアでいる時間も大事にしていいんだって」
朔は静かに頷いた。
「大事にしていい」
「うん」
「俺も、アークでノアに会う時間、好きだから」
「……朝からそういうこと言う」
「言いたくなった」
「便利」
「便利」
二人で少し笑う。
笑ったあと、朔が少しだけ言葉を探すように視線を前へ向けた。
「それでさ」
「うん」
「今週末」
「今週末?」
「予定ある?」
澪の心臓が跳ねた。
予定。
週末。
朔が改まった声で聞く理由。
まさか、と思った瞬間、頬が熱くなる。
「……特には」
「じゃあ」
朔は少しだけ照れたように視線を逸らす。
「どこか、行かない?」
「どこか」
「うん」
「二人で?」
「二人で」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
二人でどこかへ行く。
それ自体は、これまでにも何度もあった。
幼馴染として。
近所へ買い物に行ったり、学校帰りに寄り道したり、家族ぐるみの用事で一緒に出かけたり。
でも今は違う。
「それって」
澪は少しだけ声を小さくする。
「デートって言っていいの?」
言った瞬間、自分で顔が熱くなった。
朔も一瞬だけ固まった。
それから、少しだけ咳払いをする。
「言っていいだろ」
「いいんだ」
「付き合ってるんだから」
その言葉に、澪は目を伏せる。
付き合ってる。
まだ慣れない。
でも、何度聞いても嬉しい。
「……まだ慣れない」
「俺も」
朔が正直に言う。
「でも、慣れていきたい」
その一言が、朝の光の中でまっすぐ胸へ届いた。
恋人になった。
でも、すぐ完璧にはなれない。
手を繋ぐだけで照れるし、彼氏や彼女という言葉にもまだ固まる。
デートという響きには、心臓が忙しくなる。
それでも、少しずつ慣れていきたい。
二人で。
「……うん」
澪は頷いた。
「行きたい」
朔の表情が、少しだけほっと緩む。
「よかった」
「断ると思った?」
「思ってないけど」
「けど?」
「誘うのは緊張する」
「朔も?」
「するだろ」
「何回も一緒に出かけたのに」
「デートは初めてだから」
また、心臓が跳ねる。
「……そういう言い方」
「何」
「ずるい」
「知ってる」
いつもの返し。
それなのに、今日もちゃんと胸に来る。
学校に着くまで、二人は週末の話を少しだけした。
どこへ行くか。
映画にするか、駅前の商業施設にするか、少し遠くの水族館にするか。
どれも特別に聞こえた。
結局、最初のデートは駅前の商業施設と、近くのカフェへ行くことになった。
行き慣れている場所だ。
でも、恋人として行けば、きっと違う場所に見える。
教室へ入ると、夏希がすぐに澪の顔を見た。
「朝倉」
「……何」
「今日、朝から何か浮かれてる」
「浮かれてない」
「浮かれてる」
「浮かれてない」
「神谷と週末の話でもした?」
澪は返事に詰まった。
夏希は一瞬で察した顔になる。
「あ、当たり?」
「……」
「デート?」
「声」
「小声」
「もっと小さく」
澪が慌てると、夏希は口元を押さえて笑った。
「そっか。初デート」
「まだ、そういう」
「そういうも何も、付き合ってから二人で出かけるならデートでしょ」
「……」
「かわいい」
「言わないで」
「無理」
夏希は楽しそうだった。
でも、その目は相変わらず優しい。
「どこ行くの」
「駅前」
「いいじゃん。初回としては堅実」
「初回って何」
「デート初回」
「実況しないで」
「服どうするの」
「……考えてなかった」
言われた瞬間、澪は固まった。
そうだ。
休日に出かける。
制服ではない。
何を着ればいいのだろう。
普通の服でいいはずだ。
でも、初デート。
恋人として。
そう考えた瞬間、急に全部が難しくなる。
夏希はその反応を見て、にやりと笑った。
「放課後、相談乗る」
「……お願いします」
「素直でよろしい」
澪は机に額を伏せたくなった。
昼休み、ひなにも気づかれた。
「朝倉先輩、何か週末のこと考えてません?」
「何でわかるの」
「顔です」
「みんな顔って言う」
「顔に出ますから」
ひなはそう言ってから、少しだけ笑った。
「デートですか?」
「……」
「わあ」
「ひな」
「すみません。声は抑えます」
ひなは両手で口を押さえたあと、少しだけ目を細めた。
「いいですね」
その声は、明るかった。
でも、少しだけ寂しさも混じっていた。
澪は胸が小さく痛む。
ひなはそれに気づいたように、すぐに笑顔を強くした。
「ちゃんと楽しんできてください」
「……うん」
「楽しむのも約束です」
「約束?」
「はい。幸せにならなかったら怒るって言いました」
ひならしい言い方に、澪は少し笑った。
「うん」
「楽しんでくる」
「よしです」
ひなは満足そうに頷いた。
その明るさに、まだ痛みが残っていることはわかる。
でも、ひなは前へ進もうとしている。
だから澪も、幸せになることから逃げてはいけないと思った。
放課後、夏希に服の相談を少しだけしたあと、澪は朔と一緒に帰ることになった。
校門の外で待っていた朔は、澪の顔を見るなり少しだけ首を傾げる。
「何か、疲れてる?」
「夏希に服の話をされた」
「ああ」
「朔は考えてた?」
「……少し」
「本当に?」
「かなり」
朔は正直に言った。
「何着ればいいのか、全然わからない」
その言葉に、澪は少しだけ笑う。
「朔も迷うんだ」
「迷うだろ」
「いつも通りでいいのに」
「それ、澪にも言える」
「私は」
「澪もいつも通りでいい」
朔は少しだけ照れながら言う。
「何着ても、たぶん嬉しいし」
澪は足を止めそうになった。
「……それは」
「何」
「ずるい」
「また?」
「また」
「本当だから」
「本当でも」
澪は顔を逸らす。
頬が熱い。
二人で並んで帰る道は、もう何度も歩いた道だった。
けれど今日は、週末の約束があるだけで足取りが少し軽く感じる。
途中から、自然に手を繋いだ。
最初の頃ほど迷わなかった。
けれど、指が触れる瞬間の胸の高鳴りは、まだ消えない。
「何時にする?」
朔が聞く。
「十時くらい?」
「早くない?」
「早い?」
「いや、楽しみなら早くてもいいけど」
「楽しみって言わないで」
「違うの?」
「違わない」
澪は小さく答える。
「楽しみ」
その言葉に、朔の手に少しだけ力が入った。
「俺も」
「うん」
「じゃあ十時」
「どこ集合?」
「駅前?」
朔は少し考えてから、澪を見る。
「いや、迎えに行く」
また、心臓が跳ねる。
「迎え?」
「うん」
「家まで?」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
「じゃあ、行く」
「朔」
「何」
「彼氏っぽい」
言ってから、澪は自分で照れた。
朔は一瞬だけ固まる。
それから、少しだけ目を逸らした。
「彼氏だから」
「……」
「今のは自分で言ってて恥ずかしい」
「じゃあ言わなければいいのに」
「言いたくなった」
「便利」
「便利」
二人で笑う。
帰り道の空は、夕方から夜へ変わりかけていた。
街灯がひとつずつ灯り、住宅街の窓からあたたかい光が漏れている。
繋いだ手の温度が、いつもより少しだけ確かに感じられた。
家の前に着いても、二人はすぐには手を離さなかった。
「週末」
朔が言う。
「うん」
「ちゃんと彼氏として迎えに行く」
その言葉に、胸の奥がふわっと熱くなる。
「……じゃあ」
澪は少しだけ勇気を出す。
「私は、ちゃんと彼女として待ってる」
朔の目が揺れた。
「それ、かなり来る」
「仕返し」
「効いた」
「よかった」
二人で少しだけ笑った。
手を離す。
指先に残る温度が、今日の約束みたいだった。
「また明日」
朔が言う。
「うん」
「週末も」
「うん」
「楽しみにしてる」
澪は頷いた。
「私も」
「楽しみにしてる」
家に入り、自室へ戻ると、澪はベッドに腰を下ろした。
制服のまま、しばらく天井を見つめる。
初デート。
恋人になって最初の約束。
その響きは、まだ慣れない。
でも、怖くはなかった。
少し照れくさくて、少し緊張して、どうしようもなく楽しみだった。
机の上には、フルダイブ装置がある。
ノアとして過ごす夜も、澪として歩く現実も、どちらも続いていく。
そこに今、新しい約束が加わった。
隠れて好きだった頃には、こんなふうに先の予定を楽しみにすることさえ、うまくできなかった。
でも今は違う。
朔と、次の休日に会う。
彼氏と彼女として。
澪はスマート端末を開いた。
朔からメッセージが届いていた。
『日曜、十時に迎えに行く』
『彼氏として』
画面を見た瞬間、頬が熱くなる。
でも、澪はもう逃げずに返信した。
『待ってる』
『彼女として』
送信してから、端末を胸に抱える。
恋人になって最初の約束。
それは、ただ出かける予定ではない。
これから少しずつ、二人で恋人になっていくための、
新しい一歩だった。




