第7章 第10話:隠さない恋の、最初の一歩
翌朝、澪は朔の上着を抱えたまま、玄関の前で少しだけ立ち止まっていた。
きれいに畳んで、袋に入れてある。
ただ返すだけのはずなのに、それだけで少し緊張する。
昨日の帰り道、朔は言った。
ちゃんと大事にする、と。
その言葉は、朝になっても胸の奥に残っていた。
凛花、由良、ひな。
三人の言葉を受け止めたうえで、二人で自分たちの恋を大事にすると決めた。
だから今日、もう一つ進む。
夏希へ、ちゃんと報告する。
昨日の昼にもほとんど話しているけれど、あれは澪からの報告だった。
今日は、朔と一緒に。
二人の言葉で。
隠さない恋の、最初の一歩。
「……大げさかな」
小さく呟いたけれど、すぐに首を振った。
大げさではない。
ずっと隠してきた。
ノアとしても、澪としても。
だからこそ、ちゃんと誰かに言うことには意味がある。
玄関を開けると、朝の空気が頬に触れた。
空はよく晴れていて、住宅街の屋根に淡い光が落ちている。いつもの通学路へ足を向けるだけで、胸が少しだけ高鳴った。
曲がり角の向こうに、朔はいた。
いつもの場所。
いつもの立ち姿。
でも、目が合った瞬間、二人ともほんの少しだけ表情が緩んだ。
「おはよ」
朔が言う。
「おはよう」
澪も返す。
昨日より、少しだけ自然だった。
それが嬉しい。
「これ」
澪は袋を差し出した。
「上着、ありがとう」
「ああ」
朔が受け取る。
「別に今日じゃなくてもよかったのに」
「借りっぱなしは落ち着かない」
「澪らしい」
「何それ」
「ちゃんとしてるってこと」
そう言われると、少しだけ照れる。
二人で歩き出す。
朝の道はまだ人が多く、手を繋ぐことはしない。
けれど、昨日ほど距離に迷わなかった。
隣にいることが、少しずつ恋人として馴染み始めている。
「今日」
朔が口を開いた。
「夏希に話すんだよな」
「うん」
「緊張する」
「朔も?」
「するだろ」
「夏希だよ?」
「だからだよ」
朔は少しだけ苦い顔をした。
「絶対いじられる」
「それはそう」
「否定しないのか」
「できない」
澪がそう言うと、朔は小さく笑った。
「でも」
澪は続ける。
「ちゃんと言いたい」
「うん」
「夏希には、ずっと助けてもらってたから」
「うん」
「私が逃げそうになるたび、何度も止めてくれた」
「知ってる」
「え?」
「夏希、結構わかりやすく澪の味方だったから」
澪は少しだけ目を瞬かせる。
「そう見えてた?」
「見えてた」
「そっか」
「だから、ちゃんと報告するのは賛成」
朔は少しだけ真面目な声になる。
「俺からも言いたい」
その言葉に、胸があたたかくなる。
「うん」
「澪と付き合うことになったって」
「……うん」
「何でそこで照れる」
「言葉にされるとまだ慣れない」
「俺も慣れてない」
「でも言うの?」
「言う」
朔は少しだけ照れた顔で、それでもはっきり言った。
「隠したいわけじゃないから」
その一言が、今日の朝にとてもよく似合っていた。
学校へ着くと、教室はいつものように騒がしかった。
席に着いた瞬間、夏希が後ろから声をかけてくる。
「朝倉」
「……何」
「今日は昨日より落ち着いてる」
「そう?」
「うん。でも顔は彼女」
「その言い方やめて」
「事実」
夏希はにやりと笑う。
「で、正式報告はいつ?」
いきなりだった。
澪は鞄から教科書を取り出す手を止める。
「……今日」
「お」
「放課後、少し時間ある?」
「ある」
夏希は即答した。
「神谷も?」
「うん」
「了解」
その顔が、完全に楽しんでいる。
「茶化しすぎないでね」
「努力する」
「それ、信用できない」
「善処する」
「もっと信用できない」
夏希は笑った。
午前中は、昨日より少しだけ普通に過ごせた。
朔と目が合っても、前ほど慌てない。
もちろん、心臓は跳ねる。
でも、慌てて逸らすだけではなく、小さく頷けるようになった。
そのたびに、夏希が後ろで何か言いたそうにしている気配がした。
澪は気づかないふりをした。
昼休み、ひなが一度こちらへ来て、澪と朔を交互に見た。
何か言いかけて、でも少しだけ笑ってやめた。
「朝倉先輩」
「何?」
「今日はちょっと、いい顔です」
「……そう?」
「はい」
ひなはそう言って、すぐにいつもの明るさで続けた。
「でも、神谷先輩と目が合った時はまだ照れてます」
「ひな」
「すみません、言いたくなりました」
そう言って走っていく後ろ姿は、昨日より少しだけ軽く見えた。
もちろん、完全に吹っ切れたわけではないだろう。
それでも、前へ進もうとしているのが伝わった。
澪はその背中を見送りながら、小さく息を吐く。
ちゃんと幸せになる。
その約束を、忘れない。
放課後になると、澪の緊張はまた少し戻ってきた。
夏希へ話す。
朔と一緒に。
たったそれだけのことなのに、胸が落ち着かない。
けれど、この緊張は悪いものではなかった。
隠すためではなく、言うための緊張だ。
教室の人が少しずつ減っていく。
夏希は鞄を肩にかけ、澪の机の横へ来た。
「どこで話す?」
「中庭で」
「了解」
夏希が頷く。
朔も少し遅れてやってきた。
教室の中で三人が揃うと、それだけで何となく改まった空気になった。
「行こっか」
澪が言う。
「うん」
朔も頷く。
三人で教室を出る。
廊下を歩く間、夏希はいつもより少し静かだった。
茶化すと思っていたのに、何も言わない。
それが逆にありがたくて、少しだけ緊張した。
中庭は、夕方の光でやわらかく照らされていた。
昼に使われることの多いベンチには誰もいない。
植え込みの葉が風に揺れ、校舎の壁に細い影を落としている。
三人はベンチの前で立ち止まった。
少しの沈黙。
先に口を開いたのは、澪だった。
「夏希」
「うん」
「ちゃんと、報告したくて」
「うん」
夏希は静かに頷く。
いつものようにからかわない。
ちゃんと聞く姿勢でいてくれる。
それだけで、胸が熱くなった。
澪は一度、朔を見る。
朔もこちらを見て、小さく頷いた。
大丈夫。
二人で言う。
「私たち」
澪は少しだけ声を震わせながら言った。
「付き合うことになった」
言えた。
誰かへ、ちゃんと自分の言葉で。
夏希は数秒だけ黙った。
それから、ゆっくり朔を見る。
「神谷」
「うん」
朔はまっすぐ夏希を見る。
「澪と付き合うことになった」
その声は少し硬かった。
でも、逃げていなかった。
「ちゃんと、大事にする」
続けて、朔はそう言った。
澪は少し驚いて朔を見る。
予定していた言葉ではなかった。
でも、その言葉がとても嬉しかった。
夏希も少しだけ目を見開いた。
それから、ふっと息を吐く。
「やっと正式報告?」
「……うん」
澪が頷く。
「ちゃんと、報告」
「遅い」
「ごめん」
「でも、早い」
「どっち」
「こっちの気持ちの問題」
夏希はそう言って、小さく笑った。
その笑みは、からかいだけではなかった。
安心と、少しの感慨が混じっていた。
「朝倉」
「うん」
「よかったね」
その一言に、澪の胸がぎゅっとなった。
「うん」
「ほんとに、よかった」
「……うん」
声が少し震える。
夏希はそれから朔へ視線を向けた。
「神谷」
「うん」
「朝倉、面倒くさいところあるけど」
「夏希」
「自分のこと後回しにするし」
「夏希」
「変に抱え込むし」
「夏希」
「あと、嘘つくの下手」
「それは知ってる」
朔が真面目に答えたので、澪は思わず目を向ける。
「知ってるの?」
「知ってる」
「そんなに?」
「かなり」
朔と夏希が同じ方向で頷く。
澪は少しだけむっとした。
「二人で納得しないで」
「でも事実」
夏希が言う。
「だな」
朔も言う。
澪は言い返せず、少しだけ頬を膨らませた。
その様子を見て、夏希が笑う。
ようやくいつもの調子に戻ったようだった。
「でも」
夏希は真面目な声に戻る。
「朝倉のこと、泣かせたら怒るから」
朔はすぐに頷いた。
「わかってる」
「本気で怒るよ」
「うん」
「ただし、朝倉が勝手に泣くこともある」
「夏希」
「その時はちゃんと話聞いて」
「わかった」
「朝倉が大丈夫って言っても、だいたい大丈夫じゃない時あるから」
「夏希」
「それも知ってる」
朔がまた答える。
澪は顔が熱くなった。
恥ずかしい。
けれど、二人が自分のことをちゃんと見てくれているのがわかって、少しだけ嬉しい。
「あと」
夏希は朔をまっすぐ見る。
「神谷も無理しないこと」
「俺?」
「そう」
夏希の声は意外なほど真剣だった。
「朝倉のこと大事にするのはいいけど、自分のこと全部後回しにすると、結局朝倉が苦しくなる」
朔は少しだけ目を伏せた。
「……わかった」
「ほんとに?」
「うん」
「二人とも、ちゃんと話しな」
夏希は二人を交互に見る。
「隠して拗らせるのは、もう十分やったでしょ」
その言葉に、澪と朔は同時に黙った。
痛い。
けれど、本当にその通りだった。
「……うん」
澪は頷いた。
「もう、隠して拗らせたくない」
「俺も」
朔も言った。
「ちゃんと話す」
「ならよし」
夏希は満足そうに頷く。
それから、急ににやっと笑った。
「で」
「何」
「手は繋いだ?」
「夏希」
「付き合ったなら確認事項でしょ」
「確認事項じゃない」
「神谷」
夏希が朔を見る。
「繋いだ?」
朔が少しだけ目を逸らした。
「……繋いだ」
「朔!」
澪は思わず声を上げる。
「嘘つくところじゃないだろ」
「そうだけど」
夏希は楽しそうに口元を押さえた。
「へえ」
「やめて」
「へえー」
「夏希」
「よかったね、朝倉」
急に優しい声で言われて、澪は言葉に詰まる。
「……うん」
「よかった」
夏希はもう一度言った。
その声が本当に嬉しそうだったから、澪は何も言えなくなった。
しばらく三人で話した。
まだクラス全体へは言わないこと。
でも、隠し続けるつもりではないこと。
ひなや凛花、由良にはそれぞれ向き合ったこと。
これから少しずつ、自分たちの言葉で伝えていくこと。
夏希は時々茶化しながらも、最後までちゃんと聞いてくれた。
「朝倉」
帰り際、夏希が言った。
「何?」
「隠さなくていいって、たぶん楽でしょ」
澪は少し考えてから頷いた。
「うん」
「まだ全部じゃなくても」
「うん」
「一人ずつでも」
「うん」
「ちゃんと言える人が増えると、楽になる」
その言葉は、夏希自身の実感のようにも聞こえた。
「ありがとう」
澪が言うと、夏希は肩をすくめる。
「どういたしまして」
「最初に報告できてよかった」
「またそういうことを急に言う」
「本当だから」
「……受け取る」
夏希は少しだけ照れたように目を逸らした。
中庭を出る時、朔が夏希へ軽く頭を下げた。
「これからも、澪のことよろしく」
「それ、こっちの台詞でもある」
夏希はすぐ返す。
「神谷のことも、朝倉がちゃんと見るから」
朔が少しだけ驚いた顔をした。
「俺も?」
「当たり前でしょ」
夏希は呆れたように言う。
「恋人って、片方だけが守るものじゃないから」
その言葉に、澪は胸を打たれた。
朔も静かに頷く。
「……うん」
「わかったならよし」
夏希は軽く手を振った。
「じゃ、私は帰る」
「うん」
「また明日」
「また明日」
夏希の背中が校門のほうへ消えていく。
澪と朔は、しばらく中庭に残った。
「夏希」
朔がぽつりと言う。
「すごいな」
「うん」
「めちゃくちゃ見てる」
「うん」
「ちょっと怖い」
「わかる」
二人で少し笑った。
でも、胸の奥はあたたかかった。
「言えてよかった」
澪が言う。
「うん」
「隠さなくていいって、少し楽」
「うん」
「全部を一気にじゃなくても」
「うん」
「ちゃんと、自分たちの言葉で言っていきたい」
朔は静かに頷いた。
「俺も」
「うん」
「夏希に言えたの、よかった」
「うん」
「ちゃんと、俺たちって言えた気がした」
その言葉に、澪の胸が熱くなる。
俺たち。
その言葉は、少しずつ二人のものになっていく。
帰り道、二人は自然に手を繋いだ。
昨日より少しだけ迷いが少なかった。
もちろん、まだ照れる。
けれど、繋いだ瞬間に胸が落ち着くような感覚もあった。
「朔」
「何」
「今日、ちゃんと大事にするって言ってくれたの、嬉しかった」
「言いたかったから」
「うん」
「夏希にはちゃんと言っときたかった」
「どうして」
「澪のこと、ずっと見てた人だから」
その言葉に、澪は胸がじんとする。
「……うん」
「だから、適当な言い方したくなかった」
「ありがとう」
「うん」
「私も、ちゃんと朔のこと見る」
朔が少しだけこちらを見る。
「夏希に言われたから?」
「それもある」
「それも?」
「私も、そうしたいから」
言うと、繋いだ手に少しだけ力がこもった。
「そっか」
朔の声は、少し嬉しそうだった。
「じゃあ、よろしく」
「うん」
「よろしく」
夕方の道を、二人で歩く。
隠さない恋の最初の一歩は、思ったよりも緊張して、少し茶化されて、でもとてもあたたかかった。
家の前で別れる時、朔が言った。
「また明日」
「うん」
「彼女として」
もう何度も聞いているのに、やっぱり顔が熱くなる。
でも今日は、少しだけ自然に返せた。
「また明日」
澪は笑う。
「彼氏として」
朔も笑った。
家に入って自室へ戻ると、澪はスマート端末を取り出した。
夏希から、メッセージが届いていた。
『正式報告、受け取りました』
『ちゃんと幸せになれ』
澪は画面を見つめて、少しだけ泣きそうになった。
でも、今日は笑って返信した。
『ありがとう』
『ちゃんと幸せになる』
送信してから、澪は胸に手を当てた。
隠さなくていい。
その安心は、思っていたよりもずっと大きかった。
まだこれから話すことはたくさんある。
まだ向き合うべき人も、場所もある。
それでも、ひとつずつ、自分たちの言葉で進んでいける。
そう思えることが、今の澪には何より嬉しかった。




